映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、役者の家に生まれた下條アトムが、役者を志し、その道へ入った頃について語った言葉をお届けする。

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 下條アトムは一九四六年に生まれる。父は下條正巳、母は田上嘉子という、両親ともに役者をしている家庭だった。

「親父が新劇をやっていたもので、ちっちゃい時から芝居を観にいって、役者しかないと思うようになっていました。妄想ですよ。その妄想で今まで何十年もやってきたんだと思います。

 魅力を感じたのは芝居の内容というより、楽屋にでした。ドーランの油のにおいと、皆さんの興奮──異次元の世界を見ちゃって動揺して、それでごく自然にハマっていったんです」

 高校卒業後、父の所属する劇団民藝の養成所に通い、役者としての道を歩み始める。

「高校二年の時に『どうしても役者になりたい』と親父に伝えました。すると『ダメだ。食えないぞ。先も何も見えなくて仕事にならない』と。それで僕は切り返しました。『じゃあ、そんな苦しくて食えなくてしんどい仕事を親父はなんでやっているの?』って。

 こたつで面と向かって話していたのですが、『それはお前──うーん』ってぐうの音も出なくなったんです。それで、仕方なく認めてくれました。

 民藝に入れたのはコネだと思います。役者としてのずば抜けた才能というか…スペシャルな感じはなかったでしょうから」

 しかし、民藝は三年で離れてしまっている。

「クビになりました。当時の新劇は改革期だったのもあって、生意気な僕は『教室で勉強するより芝居がやりたい。現場でやらなきゃダメだ』みたいな偉そうなことを言っちゃったんです。

 そもそも僕は、芝居は教わるものではないと思ってました。

 けれど誰かに教わることで自分一人では分からないものが見えてくる。突然、起爆剤となって芝居が爆発する。そういうこともあるとは思うんですけど──だから僕は爆発しないんでしょうね。半端な役者です。中途半端に自分が好きで、かわいくて、褒められたくて(笑)。

親父の影響もあったと思います。『古い芝居をするな。ありきたりのことはするな』と言っていて、常に新しいものを求めていました。僕の名前もそうですよね。そういう意識だけは、僕もちょっとは持っている気がします。だから、一度やったことと同じことはしたくない。しちゃいけないと思っています」

 その後しばらくは、舞台などを自ら手掛けながら過ごす。

「親父の劇団に入れば役者としての一つの線路がありました。そこにスムーズに入れさせてもらったのに、それがスポーンと切られました。しかも病気で二年ぐらい入院したり。甲状腺だから、あの頃は大手術でした。

 その後はわりと必死にアルバイトをしました。朝一番の電車工事現場に行ったりしながら仲間と芝居をやっていました。

 千葉の市川で船のタンクを洗うバイトもしましたね。それで失敗して重油が流れて。みんなで一緒に泣きながら重油を拭いていたら、東京湾の向こうに東京の夜景が見えるんです。

『絶対、いつか俺はあそこで芝居をやるんだ』そんなことを夢見ていました」

8/2(日) 16:05配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/ee498f6402997a8718c5e8a68cbba325845b64d2?page=1
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