飯田哲也【すべては野村ヤクルトが教えてくれた】#1

 今でも本当のことなのか、信じられない思いでいます。

 今年2月11日、恩師の野村克也さん(享年84)が永眠されました。突然の訃報に「まさか」と、頭の中が真っ白になったのを覚えています。だって、僕はその2週間前にヤクルトのOB会でご本人と会ったばかり。腰が悪く車イスにこそ乗っておられましたが、まだまだ元気そうでした。「頑張ってるか」と声をかけてくれて、僕も「元気でいてくださいね」と話してから、そう時間は経っていませんでしたから。

 翌12日、先輩の荒井幸雄さんと一緒に野村監督の自宅に行き、最後のお別れをしました。ヤクルトのユニホーム姿でリビングに横たわり、両目を閉じる監督の姿。手を合わせて焼香をしても、亡くなられたという事実を自分に納得させるのは難しかった。安らかに眠るお顔を見た時、「いまにも僕を怒ってきそうだ」と思ったのは、現役時代の思い出があるからでしょうね。僕は野村監督に怒られたり、注意されてばかり。それでも試合で使ってくれたことへの感謝しかありません。だから、亡くなられた今も、まだ信じられないでいる自分がいます。本当に寂しいという言葉しかありません。

 野村監督がヤクルトの指揮を執るようになったのは、僕がプロ入り4年目の1990年から。この年に僕はいきなり捕手から二塁手にコンバートされました。これは野村監督も著書で書いていますが、春季キャンプで僕のキャッチャーミットを取り上げたという話があります。本の中には、ミットをいくらで下取りに出したとか書かれていますが……。もはや伝説のように語られている話ですけど、実はこれ、本当のことではありません。キャンプ中は捕手としてのメニューをこなしていましたし、下取りと言われてもお金ももらってませんから。

 おそらく、監督なりのジョークでしょう。話を大げさにすることも、たまにありましたからね。

 ただ、キャンプ中に僕の走力を評価してくれたのか、「なんでおまえキャッチャーやってんだ」と言われたことはあります。「キャッチャーやってたら、足遅くなるぞ」とも言われました。

■「何で飯田を?」

 90年、僕は代走兼第3捕手というような形で、開幕一軍。代走としての出番が多かったですね。二塁を守るきっかけになったのは、4月21日の広島戦です。二塁のレギュラー、笘篠賢治さんがバッティングで調子を崩していたので、僕が代打で出場。ホームランを打ちました。

 すると、野村監督はイニング交代の時、「そのままセカンドに入れ」です。アマチュア時代に三塁や遊撃の経験はありますが、二塁はやったことがない。それでも「僕でいいんですか?」なんて聞けません。野村監督には威厳というか、何か迫力のあるオーラのようなものがあり、「はい」と返事をするしかない。その日のことはあまり記憶にありませんが、二塁手として打球を処理し、アウトにしたような覚えはあります。

 その翌日から、シーズン最後までずっと二塁手。コンバートというよりも、何でかわからないけどやらされた、という感じですね。それでも見よう見まね、先輩に聞く、他球団の二塁手の動きを真似する……など工夫して何とか乗り切った。捕手をやっていたので、多少は内野の動きがわかっていたのもあると思います。

 ただ、最後まで野村監督の意図を聞けずじまいだったのが、後悔と言えば後悔です。当時は二塁の控えの選手もベンチにいましたから。僕も含めて、監督以外は「なんで飯田を?」と不思議に思ったはず。翌91年には中堅に再コンバートされますが、最初の二塁がなければ、僕の野球人生はどうなっていたのか……。

「なんであの時、僕にそのまま二塁を守らせたんですか?」

 ずっと聞きたくて、それでも聞けずじまいになってしまった言葉です。

4/14(火) 9:26 Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200414-00000008-nkgendai-base

http://npb.jp/bis/players/15213868.html
成績

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