【麒麟がくる】時代考証の小和田氏が探る本能寺の真相
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「麒麟がくる」時代考証の小和田氏が探る本能寺の真相
小和田哲男 / 静岡大学名誉教授2020年1月20日
天正10(1582)年6月2日未明、明智光秀が1万3000の兵を率いて京都本能寺を襲撃し、信長とその長男信忠を殺害した。世にいう本能寺の変である。信長の家臣として、信長からの信頼も厚かった光秀が、なぜ信長に叛旗(はんき)を翻したのか、つまり、光秀謀反の真相は何だったのかは、以前から「日本史最大のミステリーの一つ」などといわれ、さまざまな説が提起されている。
古くは怨恨(えんこん)説が主流だったように思われる。光秀が信長から今でいう「いじめ」あるいは「パワ…
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残り1149文字(全文1379文字) >>343
天井から血が滴り落ちるシーンがあったな >>377
俺も謙信は性同一性障害だと思ってる。
心は男だけど身体が女。 >>43 東北の葛西氏も信長と誼を結んでいる。
全国制覇は時間の問題。 「麒麟がくる」一話の予告から帰蝶(代役)がでるなら撮影も編集も大変だっただろうな
川口春奈には悪いけど、沢尻エリカの演技も見たかったなぁ
役者になって、役中にずっと薬中なんだから気が弱いんだろうけど >>41
そうでもない
東北なんかは織田にはほぼ臣従してたし織田と北条は婚姻が進みかけてた
四国もあのまま信長に歯向かったとは考えにくい
毛利だけは時間かかったかもしれないけど
信長存命の方が早く統一してたのはまず間違いない
当たり前だけど秀吉は光秀勝家家康と次々倒す必要あったんだしそのロスはデカい 今村昌平の映画学校で、池端俊策先生が担任したクラス(横浜6期)の生徒が「麒麟がくる」を酷評しました。
詳しくはこちら。形式批評しています。
http://sponta.seesaa.net/article/473246887.html#more 最終回まで岡村の出番があったら、矢部か木村がちょい役で一緒に登場する気がする。 >>405
田村亮も淳が出てたという縁でで功名が辻に出てるしありそう
亮がどこに出てたか覚えてないけど >>233
信長は光秀を信用し過ぎた(´・ω・`) >>197
別に鳥肌は立たんな
だいたい不倫馬鹿じゃあるまいしわざわざ匂わせる様な事はしないだろ >>279
事実なんてのは後から出てくる物もあるんだよ
あんた頭固いわ(´・ω・`) >>305
秀信は?壊滅とか根っからの嘘つきだなお前は(´・ω・`) >>233はそのとおりなんだけど、織田軍にその状況を作り上げた黒幕がいるんじゃないか、という陰謀を考えるのがロマンというもの。 >>404
書いてる人は相当なお爺さんですか?
ラピュタにレプカは登場しませんが >>165
ノウハウ無く、所詮はおままごとだ
当時、本気で尾張の田舎者に臣従する奴など居ない
事実、信長猿吉無きあと、コイツらは歴史から葬られただろうが
何故、名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国碧海郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国碧海郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。 あーでもないこーでもないとダベってると楽しい日本史3大ミステリー
・邪馬台国の場所
・本能寺の変はなぜ起きたか 三河の源頼朝に逆らった北条は、三河の足利尊氏になきものにされ、三河の足利氏に逆らった尾張の田舎者は、三河の徳川家康になきものにされた
コレが日本の中世近世だ
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 信長倒せても
秀吉 前田 柴田 滝川その他を敵に回して
上杉毛利家康が味方になる保証もないのにどうするつもりだったんだろうね >>422
相当なギャンブルだよな。信長殺す前に根回ししたら、絶対チクられて殺されるしなw
アホな武将じゃないだけに謎が多くなっちゃうんだね >>422
物を知らない田舎者か?
足利尊氏が生まれたであろう屋敷は幕末まで、家康が生まれた岡崎に残っていた
上杉一族は三河サイドだ
足利尊氏と徳川家康の生誕地は目と鼻の先
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 >>422
ついでだが、最上も三河サイドに人間だ
恐ろしいな、三河は
大崎氏・最上氏の祖
http://www.inn-suzuki.com/info.html
>中新田城
>斯波家兼が奥州探題に任ぜられ、三河の国からこの地方に赴任
足利家兼
父:足利宗氏
母:長井時秀の娘(大江広元の曾孫、室は安達義景の娘(安達泰盛の姉妹))
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。 母親を人質に出して、波多野氏を降伏させたのに信長に反故にされた >>422
毛利も言うまでもなく、三河サイド
山口県萩市の萩が三河由来で察しろ
長州藩幹部の正体は三河武士だ
明治維新とは江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲り
徳川と毛利は裏で繋がっていた
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
徳川幕府は崩壊していないわな
http://books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
=tYDHrH7uuT&sig=fBVt13JJ3pGPoJN1o7c5a6G4XE8&hl=ja&sa=X&ei=bHggU5HHKImgkgWuoYD4Bg&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&f=false
>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司)) >>420
龍馬暗殺の真相
写楽の正体
このへんは答えが出たうえでネタにされてるかな。
というかあれでしょ。
「誰か信長どうにかしろよ」と武将達が少なからず思ってたところにいい機会が出来たから斃したんでしょ。 明智光秀を語るには、三河に隣接する美濃から、三河の源頼朝に馳せ参じた先祖から語る必要がある
三河の歴史は、それだけ恐ろしい
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>355
堺屋太一の『豊臣秀長』は桶狭間の後から始まる物語で
桶狭間の合戦も今川義元のこともほとんど触れていないはずだが >>51
そんな連中、綻びが出れば一斉に裏返るオセロの駒だぞ。
力で潰して回れば、二度と隙は見せられん。 >>46
アニメのイケメンは許さないくせにこうしたイケメンは許すのか? 松の廊下で信長が光秀の額を扇子で叩きながら「鮒じゃ、鮒じゃ、船侍じゃ」と馬鹿にしたからと聞いた 明智光秀は何故反旗を織田家に掲げたか・・・www
当方はすばり、精神疾患(統合失調症)による極度の
幻覚幻聴のなせることだったんではないかな・・・www
禿よ! そちは何故に道山入道おやじを たばかった・・・この戯け!!!
御屋形様、みどもは全く一切、天地神明に懸けて斎藤道山お館様をたばかったのではござりませぬ・・・!!!
何をほざくか、このはーーーげ!!!?? さがれさがれ、言い訳はききとうはない・・・この信長が成敗してくれる!!
即刻、一族郎党ともに斬首!!! よいか、この戯け・・・!!!!
という具合に見幻覚幻聴に日々苛まれたのであった、あのよろしい・・・みwww 小和田哲男って武功夜話を信じてるアホだろ
こんなのに時代考証させたらソースが偽書という酷い話になるぞ 本能寺の1年前くらいに部下への手紙で信長を絶賛してたとか
テレビでやってたけど 信長じゃ麒麟はこないわーと
光秀がどの段階で思ったのかっての描くのかな 上白石にキリンさんが来るって話をしたのはどうさんだと思う 光秀は兵法も心得ているし
当然、謀反を起こしたとしても
その後の退路の事も念頭に入れている筈なのに
余りに短絡的でお粗末な最期なのが不可思議
後世に書き換えらえた讒言ではないのかな >>444
それも創作だと言われているね。一次史料にないんじゃないかw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています