0001砂漠のマスカレード ★
2019/12/18(水) 14:04:57.95ID:QdgtT9eU9盤石のセットアッパーで99年に日本一
1980年オフに現役を引退し、助監督を経て84年に巨人の監督となった王貞治は、角三男、鹿取義隆、サンチェの継投策にこだわっていた。
だが、87年には監督として初優勝も、日本一には届かず。翌88年は2位に終わると、退任。
限りなく解任に近いラストシーンだった。
ダイエーの監督として95年に復帰したが、選手としては頂点を極めた王に、屈辱は続く。
前身の南海が73年に優勝して以来、どん底に沈み続けていたホークスにあって、96年にはファンから移動バスに生卵を投げつけられる事件もあった。
98年にはサイン盗み疑惑もあり、翌99年4月には、王に復帰のラブコールを送った社長の根本陸夫が急死。ただ、これでチームが一丸となる。
西武で黄金時代の主力だった秋山幸二や工藤公康ら歴戦の新戦力がチームを引っ張り、打線では若手が成長するなど、戦力も整った時期でもあった。
99年の投手陣は、11勝の工藤が最優秀防御率に輝き、7年目の若田部健一が5年ぶりとなる復活の10勝、2年目の永井智浩と星野順治が10勝を挙げたが、
規定投球回に到達したのは工藤、若田部、永井の3人のみ。そんな盤石とは言い切れないスターター陣を支えたのが、鉄壁のリリーバー陣だった。
クローザーを任されたのは、メジャーではスターターばかりだった来日1年目のロドニー・ペドラザ。
開幕してからの入団で、クローザーは未知の世界だったが、「先発だろうが9回だろうが、どこで投げたって同じ」(ペドラザ)とアジャストした。
過去に4度、右肩にメスを入れていたため、首脳陣は連投すれば必ず1日は休ませ、そんな気遣いにペドラザも応えて、最終的には48試合で27セーブをマークしている。
そして、抜群の制球力を誇る右の助っ人クローザーへとつなぐセットアッパー陣は、さらに強固だった。
同じく右腕では、王監督の就任1年目でもある95年に26歳で入団した藤井将雄。先発として結果を残せない中、97年からリリーバーに。
多彩な変化球だけでなく、全身全霊の投球で99年は48試合に登板して、“炎の中継ぎ投手”とも言われる。
リリーフ陣で最古参かつ最年長なのが左腕の吉田修司だ。
ドラフト1位で89年に王監督が去ったばかりの巨人へ入団したが、やはり結果が出ないまま94年シーズン途中にダイエーへ移籍。
当初はワンポイントが多かったが、次第に信頼を獲得、長いイニングも任されるように。
鋭いスライダーを武器に98年には最優秀中継ぎ投手となり、迎えた99年も58試合に投げまくった。
藤井を上回る60試合に登板して、先発ゼロながら西武1年目の松坂大輔と最多勝を争ったのが、同じく左腕で2年目の篠原貴行だ。
もちろん勝ち星はチーム最多の14勝で、勝率.933で最高勝率のタイトルも獲得。
現在のものとは計算が異なるが、リーグ最多の26ホールドをマークした藤井が最優秀中継ぎ投手に。
吉田が16ホールド、篠原が14ホールドと、3人が3位までに並んだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191218-00000006-baseballo-base
12/18(水) 11:05配信
https://www.youtube.com/watch?v=o2DiCijEiCE
いざゆけ若鷹軍団(ダイエーver.)