【野球】フィルダー “大型扇風機”からメジャーの本塁打王へ/プロ野球1980年代の名選手 106試合 .302 38本 81打点
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1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。
時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。
そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。
石井晶コーチの打撃指導で覚醒
1985年、“猛虎フィーバー”に沸いた阪神。その後も21世紀に入って2度のリーグ優勝を果たしたが、日本一を逃したこともあるのか、この85年をしのぐフィーバーだった印象はない。
同時に、85年が突出したイメージを残しているのは、その後の阪神が、徐々に歯車が噛み合わなくなり、2年後の87年から2年連続で最下位と、
急転直下、“ダメ虎”と揶揄されるまでに転落していったこともあるだろう。
実際、運命の女神に見放されるどころか、積極的に嫌がらせをされているかのように、何をやってもうまくいかなくなった。
85年から2年連続で三冠王に輝いたバースは、大騒動の末、88年シーズン途中に帰国して、そのまま退団。そのオフには“ミスター・タイガース”掛布雅之が引退していった。
そこで阪神が新たに獲得した外国人選手がフィルダーだ。バース、掛布の穴を埋める存在として期待され、バースの背番号44を継承した25歳の強打者。
猛虎復活を期待させる成績を残したが、そこは当時の阪神、またしても運命に突き放されたような結果に終わる。
ただ、この若き外国人選手にとっては、阪神で過ごした89年は、長距離砲として大成するために必要不可欠な1年だったはずだ。
ブルージェイズでは4年で31本塁打も、レギュラー確保はならず。阪神では2月のキャンプでは特大本塁打を連発するも、来日したときは大幅にウエートオーバー。
大好きな肉を我慢して、魚介類やジャパニーズ・ヌードル(うどん)でダイエットに励んだものの、オープン戦では最初の2試合で7三振。“
大型扇風機”という不名誉なニックネームをつけられる一方、巨人と広島のスコアラーは「内角の速球は打てない」と分析している。
身長188センチ、体重101キロの巨体に埋もれていた才能を掘り出したのは石井晶コーチだった。現役時代は低迷する阪急を支え続けた強打者だ。
日本人投手の“かわす”投球に翻弄され、ボール球に手を出して凡退していたものが、苦手の内角と落ちる球を克服、
好球を待てるようになると、才能が覚醒するのに長い時間は必要なかった。
迎えた開幕戦、4月8日の広島戦(広島市民)では、85年のバースと同じ「三番・一塁」で先発出場。
4点ビハインドの8回表、金森永時の2点適時打に続いて来日1号となる逆転3ランを放って阪神10年ぶりの開幕戦勝利に導く。
しばらくの沈黙を挟んで、28日の広島戦(甲子園)で2号、5月2日の巨人戦(東京ドーム)では推定飛距離160メートル、左翼席上部にあるキングコングの広告を直撃する同点4号2ラン。
そのまま本塁打の量産体制に入った。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190608-00000009-baseballo-base
6/8(土) 16:01配信
https://image.middle-edge.jp/medium/d03373b6-9fca-4b35-8c66-40c5dcb814fe.jpg
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/020/869/33/N000/000/001/133519346500413213199.jpg
http://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/316dc96f97cd929a8dd08bfa040eb87fe598d628.77.2.9.2.jpeg
https://nipponbaseball.web.fc2.com/personal/mbatter/cecil_fielder.html
通算成績
https://www.youtube.com/watch?v=T_B5ALeMRrQ
セシル・フィルダー★来日初アーチは特大の逆転決勝弾
https://www.youtube.com/watch?v=uAO4YDXjy6I
阪神セシル・フィルダーのバッティングに対する解説
https://www.youtube.com/watch?v=sLIaH5WyAlA
1989年 巨人 vs 阪神 セシル・フィルダー看板直撃弾 バットを叩きつけて自爆、そのまま退団へ
89年の本塁打王は同じく来日1年目、ヤクルトのパリッシュだったが、
8月までは独走していた。特に最下位を争う(?)大洋に強く、7月20日の大洋戦(横浜)では同一カード8試合連続本塁打のプロ野球新記録。
8月13日の大洋戦(横浜)では3打席連続本塁打も放ち、2発目と3発目は左翼席の上空へと消える場外弾だった。
最終的には38本塁打で、うち16本は大洋戦でのもの。大洋は5年ぶりの最下位に沈み、阪神が最下位を脱出する起爆剤となったことは確かだったが、やはり当時の阪神だ。
9月14日の巨人戦(東京ドーム)の第4打席で三振に倒れると、悔しさで地面に叩きつけたバットが跳ね返り、指に当たって骨折。そのまま離脱した。
本塁打王争いでもパリッシュに2本、中日の落合博満に11本の差をつけていたが、2人に抜かれて3位に。
しかも、オフにメジャー数球団からオファーが届くと、阪神との2年契約を解除して、タイガースはタイガースでも、88年に阪神と友好関係を結んだばかりのデトロイト・タイガースへと移籍。
球団幹部が渡米して慰留の交渉も、わずか1時間半で決裂した。
翌90年はメジャー13年ぶりに50本塁打を超え、以降2年連続で本塁打王、3年連続で打点王。
巨人で活躍したガリクソンも在籍していたことから、日本からの“出戻り組”としても注目されている。 >>2
> 最終的には38本塁打で、うち16本は大洋戦でのもの。
こんなに偏っていたのか
大洋といえどもオフの間に傾向と対策を練ってくるはずだから、翌年残留してたらどこからも本塁打を量産でなかったかもね >>3
当時の阪神は塁にすら出れない選手ばかりだから。 メジャーの実績では日本に来た助っ人の中では確実に1番だろうな ドームでバットを投げつけて跳ね返って小指に当たって骨折したんだよな パンチョ伊藤がフィルダーにインタビューしたら
滅茶苦茶無愛想にすぐインタビュー拒否したな >>4
これは意外なデータだったな
もっと満遍なく打っているイメージだった
記憶なんてあてにならんな オープン戦ではイマイチで失敗ぽかったのを記憶してる
開幕戦でホームランを打ってそこから評価が上がった >>13
フィルダーの後釜として縦縞ユニに袖を通すことに… >>12
本人的には日本にいたことは黒歴史じゃね?
一応名球会の規定にのっとれば入会資格あるらしいけど >>1
阪神はバースどころかメジャーの大物まで育ててるのがすごいよな
強奪ジャイアンツは完成品を連れてきて腐らせる事しか出来ないのにw >>7
ステアーズは?
中日では全く活躍しなかったけど。 >>21 引退したけど良い打者だった 親子共々強打者ってボンズくらいじゃないの >>24
俺はステアーズの神宮での1試合2発を目撃したよ
落合が来年打つから残せと進言してたんだよな >>7
>>12
>>24
ボブホーナーでしょ
ホームランも多く打率もよし
フィルダーとソリアーノは打率が低い
ステアーズはその下の下 オープン戦の最初は扇風機やったけど、オープン戦の中盤ぐらいから対応し始めてホームラン連発しだした 阪神はポジション被ってへんかったらバースとブーマー両獲りしとった 「バースはメジャーの速球が打てなかったからメジャーで活躍できなかった」、と言いつつ、
バース三冠王の数年後に来たフィルダーについては
「フィルダーは日本で変化球打ちをマスターしたからメジャーで活躍できた」と言い出す
よくわからん風潮
結局、バースは.389も打ったのに日本で速球にフィルダーよ弱かった証拠なんかあるのか?
フィルダーが変化球打ちマスターできたならバースだってマスターできていたはず
ならメジャーで通用しないは酷評しすぎやないか?
MLBマンセーヲタとNPBヲタがせめぎ合うスレ ソリアーノとか広島の3軍に居たんだろ?
それが松井以上のスラッガーになるとは >>1
辺野古新 基地の利権に絡む「安倍晋三」と「菅義偉」(辺野古賛成も反対も日本会議・生長の家)
https://www.youtube.com/watch?v=0HJbrVrz_1o 巨人の斉藤雅を全く打てなかったんだよね
でもメジャーで活躍して嬉しかった バースはメジャーでも我慢して使ってもらえたらタイトルに絡む活躍してたんじゃね
当時のメジャーは今と違って超レベルが高かったから打つだけじゃなかなかレギュラー獲得するのは難しかったけど >>1
>石井晶コーチだった。現役時代は低迷する阪急を支え続けた強打者だ。
石井晶(1960〜1971)
阪急ブレーブス(1967〜1969,1971優勝)
低迷する阪急・・・?
1960年は4位とはいえ5割だし1964年は2位なんだが ホーナーはちょっと前か。
1回見に行ったけど、ホームランは打たなかった。代わりに広沢がホームランだった。 >>34
支離滅裂でよくわからんな
変化球対応は日米で大きく異なる訳でもないんだろうけど、
> バースはメジャーの速球が打てなかったからメジャーで活躍できなかった
これが解消されたという裏付けがなけりゃ、どのみちバースはメジャーでは通用しないだろ >>4
1989年限りでド無能古葉竹識が辞めてるからね
翌年は完全に封じ込めてたかもね >>31
ホーナーは現役バリバリで日本に来たのが奇跡レベル 1989年オフの阪神は福岡移転を拒んだ門田博光
を獲得するという選択肢はなかったのかなあ?
真弓明信も村山実が拒否しなければトレード要員
になってたらしいし門田対真弓は釣り合ってたと
思うんだが >>33
当時は外国人2人制でかつ投手2人・野手2人は不可じゃなかった? >>40
1960年以降、初優勝(1967年)以前に優勝争いに絡んだのは1964年だけ
近鉄のおかげで最下位こそ少ないけど万年Bクラスの弱小球団だったことに変わりはない 一度上体を上にあげてから全体重をボールに叩きつけるみたいなスイングは独特だった
フィルダーと呂明賜は草野球でよく真似したなw >>46
もし実現してたら俺は阪神ファンになってなかっただろうね
当時小学生だったけど真弓ダンスだけが楽しみで甲子園連れて行ってもらってた記憶 >>4
翌年の大洋はもっと悲惨な投手陣だったからおなじように打てたかもな >>46
あの頃の門田セリーグの話はあったようだが、DH以外は無理だったからパリーグ以外の選択肢はなかった。 >>47
大洋とか日ハムみたいな暗黒球団は外国人打者
2人がクリーンナップ打ってたじゃんw >>52
1990年の大洋は野村弘樹がブレイクし遠藤一彦が
ストッパーとして再生したから全然悲惨じゃない >>53
1987年に加藤秀司が南海に移籍してきた時に
シーズンの半分くらい外野守備についてるから
門田さんは「ワシは守れる!」って言っただろう
けどねw
>>51
しかし村山実は真弓を全然重用しなかった >>22
当たりハズレもでかい。神様グリーンウェルみたいなのも多数来日 デレク・リーに1年でもいいkら日本でプレーしてほしかった フィルダー獲得の前にデストラーデも調査していた
かつて巨人にいたロイ・ホワイトが協力したらしいが、何故か流れてフィルダーに行った >>47
一軍外人2人制だったけど投手2でも野手2でも可 何で今更セシル・フィルダー
息子のプリンス・フィルダーも引退したのに
野球選手もデブは長持ちしないんだよな
プリンスも案の定だった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています