【野球】石毛博史(巨人)、ドラフト外の肖像#3 突然のトレード&阪神テスト入団「野球馬鹿は、プロ野球で通じない」
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象にスカウトなどの球団関係者が
対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
フォークのように落ちたスライダー
石毛の才能が花開いたのは翌92年シーズンだった。52試合に登板、5勝3敗16セーブ、防御率1.32という好成績を残した。
石毛の150キロ前後の速球であっても、プロの打者はバットを合わせることが出来る。
大切なのはタイミングをずらす、変化球である。石毛の場合はスライダーだった。ここで石毛の右肘が生きた。
「ベースのすごい前でワンバンしたりしていたので、フォークって言われたこともありましたけど、フォークは一切投げていない。スライダーです。
肘が曲がっているので、(回転が)斜めに入って縦にスライドする。変化が縦になっているのでフォークだと間違えられたんです。
解説でもみんな『今のフォーク、すごいですね』って言っていました。確かに普通はスライダーであんなにワンバンはしない」
石毛のスライダーは直球と全く同じ腕の振りである。球を待っていると振り遅れる。
そのため、球が石毛の指先を離れる瞬間、打者はスイングに入る。
途中で直球ではないと気がついても、スイングを止めることは出来ない。そのため、地面にバウンドするような球に空振りしてしまうのだ。
そして93年シーズン、長嶋茂雄が監督に就任。長嶋は「勝利の方程式」という言葉を使い、石毛をクローザーに固定した。
石毛は30セーブを挙げ、タイトルを獲得。初めてのオールスターゲームにも選出されている。
ただし、石毛は「セーブ王」というタイトルには拘りはなかったと明かす。
「自分はクローザー(抑え)ではなく、ストッパーでありたいと思っていました。ストッパーというのは、相手の勢いを止める役目。
セーブがつかなくても、自分が出ていく。向こうも石毛が出てきたら駄目っていう風にしたい。
そういうやりがいがあるのがストッパーだったのかなと」
90年代のジャイアンツはとてつもない人気があった。救援投手は味方のピンチの場面に出ていく。
満員の東京ドームの観客を前にして、試合を壊してしまったらどうしょうかとひるむ、
あるいは自分への対する期待に押しつぶされるような感覚はなかったのかと訊ねると、「全然考えていなかったです」と微笑んだ。
「(前の投手が)ランナーを残して交代するときってありますよね。ぼくが出ていって、そのランナーが帰ったとしても、それは前のピッチャーの責任、という感じでした」
もちろん、その当時はそんなことは言えませんよ、と手を振った。
「でもそのくらいの気持ちで行かないと。毎日なんで、持たないというか」
投手は負けず嫌いで、自分の数字に拘りを持つ。マウンド上では淡々と無表情を保っていたとしても、
他球場で防御率を争っている投手が打たれたときには、グラブを叩いて喜ぶものだ。そんな中で石毛は異質の存在であった。
「世間的にはセーブを獲っていけば、セーブ王になれる。名誉ですよね。でも、ぼくの中では、欲しいものではあるけれど、
別にそこまで、ではなかった。(セーブという)数字が給料に換算されることもなかったですし」
石毛はマウンド上と同じように淡々とした調子で言った。
そんなジャイアンツでの生活は突然、打ち切られることになる。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180816-00010001-baseballc-base
8/16(木) 8:03配信
https://i.ytimg.com/vi/QbJpINMKrL0/hqdefault.jpg
https://image.middle-edge.jp/medium/cfce0e33-6cb3-4c74-b44c-2cae28b9bbaa.jpg
http://npb.jp/bis/players/31633868.html
成績 突然のトレード通告
自分の周りで何かが動いているとはっきりと感じたのは、97年の正月のことだった。
「12月ぐらいから、石井浩郎さんが近鉄(バファローズ)とは契約しない、トレード先を探しているという報道が出ていたんです。
それで横浜の三浦大輔、巨人ならば石毛の交換を考えていると書かれていました。
正月にハワイに行って、日本のスポーツ新聞見てたら、ぼくの名前がバンバン出ている」
96年シーズン、石毛は4勝1敗3セーブという成績だった。前年からクローザーとなっていた西山一宇が不調。
石毛がセットアッパーからクローザーに戻ったが、調子は上がらなかった。
日本シリーズで初めてセーブを挙げたものの、年俸減を提示されていた。
来季の契約を結んでいる自分の名前がなぜ紙面に出るのか、と石毛は首を傾げていた。
ハワイから帰国した1月10日、ジャイアンツのコーチが主催するゴルフコンペに石毛は参加していた。
「ハーフ(ラウンド)が終わったとき、フロントから石毛さんに電話ですって呼び出されたんです。
今から事務所に来られるかっていうんです。ぼくは今、コンペに出ているっていうと、大事な話だからって。
それでコーチに、たぶんトレードの話です、事務所に行って来きますと謝ってから出ました。
事務所に行くと近鉄からトレードの話が来ている、すごくいい話だからって。
背番号もいい番号になるし、先発もやらせてくれるみたいだぞって話を一方的にがーっとされたんです」
自分は先発をやりたいなどと言ったことは一度もないとむっとした。
そして、すでにバファローズとの間で自分が移籍を受け入れるという前提で交渉を進めていたことを感じたという。
監督だった佐々木恭介の熱意にほだされた石毛はバファローズへの移籍を受け入れることにした。
しかし、先発としては結果を残すことはできなかった。
2001年シーズン、中村紀洋、タフィ・ローズ、磯部公一、そして吉岡などの強打者を揃えたバファローズはリーグ優勝を成し遂げた。
石毛はセットアッパーとして、25試合に登板、3勝1敗2セーブを記録している ドラフト外入団から学んだプロ野球人生で最も大切なこと
シーズン終了後の練習を見て、石毛はジャイアンツとの違いを改めて感じたという。
「みんなちゃんとやっていたとは思うんです。でもぼくからしたら(気持ちが)抜けた練習でこれじゃ、勝てないよって。
巨人では春先のキャンプからミーティングでは、シーズン優勝は当たり前、日本シリーズをどう戦うかということを目標として掲げていた」
やはりバファローズは日本シリーズでヤクルトスワローズと対戦し、1勝4敗で敗れた。
翌2002年シーズン終了後、石毛はバファローズから戦力外通告を受けた。
「ヤクルト、ロッテのテストを受けたけど、その日のうちに契約出来ませんって返事がありました。
もう終わりかなという感じのときに、阪神(タイガース)から明日、テストがあるから来ないかって」
石毛は「行きます」と即答した。
「巨人にいた自分が阪神の縦縞(のユニフォーム)を着るなんて考えたこともなかった。
でもまだ野球を続けたいという、藁にもすがる思いで、次の日に阪神のテストを受けに行ったんですね」
ブルペンで投げていると、後ろから「まだ行けるやないか」という声が聞こえた。
監督の星野仙一だった。
「それがすごく嬉しかった。自信になりました。ブルペンでの投球も凄く良かったんです。
すでにテストで獲る選手が二人決まっていたらしいんです。その一人を削ってでも石毛を獲るって星野さんがおっしゃったと後から聞きました」
2003年シーズン、タイガースは開幕から勝利を重ね、首位をひた走った。7月末の段階で2位に17.5ゲームの差、そのまま18年ぶりのリーグ優勝――。
「最初は二軍にいたんです。上の(投手の)メンバーがいなくなったので、一軍に上がって金澤(健人)と敗戦処理をやっていました。17試合を投げて、優勝。
日本シリーズも投げられて。すごい年でしたね。2002年にクビって言われて、翌年に優勝ですから」
このタイガースでの優勝が石毛のプロ野球選手としての最後の輝きとなった。
翌2005年4月、二軍での投球中に右肘の靱帯が部分断裂。石毛のドラフト指名回避の原因となった右肘が、引退を決意させたのだ。
通算14年間、375試合に登板、34勝29敗83セーブという成績だった。
石毛がプロ入りした88年のドラフトでジャイアンツから指名された選手で石毛よりも長く現役を続けたのは、1位指名の吉田修司だけである。
先発投手として期待された吉田はジャイアンツでは全く結果を残すことが出来ず、94年にホークスに移籍、セットアッパーとして生き残ることになった。
そして、2007年、ホークスからオリックス・バファローズに移り、現役引退している。
石毛は独立リーグ『ベースボールファーストリーグ』の『06BULLS』でコーチを務めた後、現在は富山県の『バンディッツヤング』という少年野球チームで教えている。
「中学生に(プロ野球の)スカウトの人ってどういうところを見ていると思うって訊くんです。
彼らはホームランを打つとか脚の速さとか答える。でもそうじゃないって教えてます。
知らない人と会ったときに、この子はどういう挨拶をするんだろう、グラウンドの整備をきちんとやっているか、そういうのを見てるよって。昔
は野球馬鹿でも良かったけど、今はいらない。問題を起こすとSNSとかですぐ出ちゃう時代。そういう人間は野球が幾らすごくても入れないんだよって」
野球の技術にしたって、人間が出来ていなかったら、本当に巧くなれないと思うんですよと石毛は穏やかな顔で言った。
それこそが、ドラフト外で入った彼がプロ野球の世界で掴んだことなのだ。
------------------------------------
石毛 博史(いしげ・ひろし)
1970年7月13日、千葉県出身。市立銚子高校で甲子園出場は叶わず。卒業後は社会人野球の住友金属鹿島に内定していたが一転、88年オフにドラフト外で読売ジャイアンツに入団する。藤田元司監督の下で92年に52試合に登板、5勝3敗16セーブ、防御率1.32の好成績を残しリリーフとして地位を確立する。長嶋茂雄監督が就任した93年には30セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得した。95年以降は思うような結果が残せず、97年にトレードで近鉄バファローズへ移籍。先発転向するも、その後は再びリリーフとして2001年のリーグ優勝に貢献した。03年からは阪神タイガースでプレーし、05年に現役引退。関西独立リーグの大阪ゴールドビリケーンズ投手コーチなどを経て、現在は富山県の『バンディッツヤング』という少年野球チームで指導を行っている。 巨人からパ・リーグに移籍した選手が成功した試しがない。 本人としては突然のトレードなんだろうけど、見てる側からすれば「やっぱりな」って感じだった 大魔神佐々木も前の投手が出したランナー還しても
自分に自責点つかないしぐらいの気持ちじゃないと
リリーフなんてやってられないって言ってたな 母校の先輩・石毛宏典と同じチームでもプレーして欲しかった。 フォークじゃないって、解説全員間違えてたわけねw
いまのいままでストレートとフォークの投手ってイメージだったわ 少年時代の巨人の抑えというイメージがあるけど
こんな道のりを辿ってたのね 石毛が投げてたの、フォークじゃなくてスライダーだったんだな 勝利の方程式って石毛と橋本なんだよな
今考えると意味がわからん 昔、元巨人という名前だけで2割増しと言われた
全国でTV中継されていると、名前だけは知っている選手でも、パリーグの球団は客寄せパンダとして欲しがった なぜか近鉄時代しかしらない、阪神にいたの知らなかったw 石毛は嫁が大阪のおばちゃんみたいな感じだったから
関西でも何とかやっていけたんだろう。
>>16
そもそも何で方程式?方式とか公式なら分かるんだけど
と当時思ってたけど
すっかり方程式で定着しちゃったな。
語呂がいいのかな? 巨人時代、名前がコールされると相手側スタンドから歓声が上がったのはスルーか >>18
奇しくも三田学園の1期違い(淡口が後輩)。 フォーク投げてなかったのか
パワプロでもフォークとカーブを持っていた記憶 昔、羽田空港で巨人時代の石毛投手目の前でみたけど、ガタイもでかかったが、頭が半端なくでかかった
コロッケよりでかいかもww >「野球馬鹿は、プロ野球で通じない」
西武・森友哉が通用しないって事か? 阪神に行ったのは知らんかった
つか、石毛は蚤の心臓の持ち主じゃなかったっけ? >>1
すごい、優勝請負人じゃないか
こういう運持ってる人は大事にしないと。 >>32
たまたま在籍してただけ
断じて請け負ってなどいない >>29
最後まで読みなよ
>問題を起こすとSNSとかですぐ出ちゃう時代。そういう人間は野球が幾らすごくても入れないんだよって」
頭がいい悪いじゃなくて人間が出来てるかどうか。
森友は頭悪いかもしれないけど例の巨人の選手みたいに野球賭博やったり、
裸の写真をSNSでアップしたりする馬鹿なことはやってないだろ。 >>21
巨人に入ったら他を見下すようになるから
出されたらそういうプライドがさらに自分を苦しめる 抑えで全然ダメだった時期あったよね
石毛が出て来ると、相手ファンから歓声が上がるくらい >>26
石毛のおかげというか、Vスライダーというのが生まれた 「みんなちゃんとやっていたとは思うんです。でもぼくからしたら(気持ちが)抜けた練習でこれじゃ、勝てないよって。
巨人では春先のキャンプからミーティングでは、シーズン優勝は当たり前、日本シリーズをどう戦うかということを目標として掲げていた」
近鉄時代、こんなこと上目で言えるほど活躍しとらんやんけ… 顔が原辰徳にちょっと似ていたような記憶
フォークじゃなかったなんて意外すぎる 石毛が大魔神と呼ばれてそれに対して佐々木が“ハマの”大魔神と呼ばれるようになったのだが、
今や大魔神といえば佐々木 少年野球の監督で食っていけるんだな
どっから収入があるんだ? 生で見たストレートはすごく重そうだったな
ズドンって感じで ランナーが出ると落ち着かなくなって打たれ出すタイプの投手ってイメージ >>13
いやいやw、当時からみんなスライダーって知ってたからw 投手交代で石毛の名がアナウンスしてされると相手側の客席から歓声が上がった >>1
藤田元司時代、時代遅れの先発完投主義で
不動の抑え・鹿取義隆を放出。
でもやっぱり無理が出て藤田最終年、
球が速いだけでノーコン・ノミの心臓という、
リリーフとして致命傷2つも抱える石毛を抜擢。
結果、長嶋時代に劇場型抑えとして
大いに球場を沸かせた。 近鉄で現役を引退したイメージだけど最後は阪神だったのか
阪神時代は全く記憶にないわ 星野ってやっぱり人をやる気にさせる一面があったよなあ
二軍から上げた中村豊を即巨人戦のスタメンで使ったりさ https://t.co/AJem1I4wJT 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:b73a9cd27f0065c395082e3925dacf01) >>58
原も初期は昇格即スタメンとかよくやってた
あの2人はモチベーターとしてはトップクラス >>1
横浜DeNAラミレス監督、「1番・センター大和」の起用を決断!
2018.08.17
17日に行われる横浜DeNA対広島16回戦、その試合前に報道陣の取材に応じたラミレス監督が大きな決断に言及。
この試合、「1番・センター」で大和を起用すると話した。
7月の打率が4割を超えた桑原の不振、神里の負傷離脱など、相次いでチームに立ちはだかる難局。
それでもAクラス復帰を諦めない指揮官は「何かを変えないといけない」と決意を語って力強く前を向いた。
1番でも、センターでも今季初となる大和の起用についてラミレス監督は
「センターの守備でゴールデングラブ(2014年に外野手部門で受賞)も獲得しているので、守備に関する心配は全くない。
さらに大和をセンターで起用すると、柴田と倉本を使うことができる。この2人が広島に相性がいい一方、桑原は広島には強くないので」と説明した。 >>33
でも、チームスポーツで個人成績は偉大でも優勝と全く縁のない選手だっていくらでもいるんだから行く先々で優勝を味わえるのは運がいいよ >>2
>自分は先発をやりたいなどと言ったことは一度もないとむっとした。
1994年最初の交渉でダウン査定食らった時に怒って言ってたのを記事で見たんだよなあ
「こんなに評価されないなら、来年は先発でやらせてほしいとも言いました」とかって
捨て台詞だろうし本人覚えてないんだろけど、言われたフロントは覚えてたんだろうなw やっぱり長嶋巨人の4番コレクターが野球人気、特に巨人の人気をガタガタにしたんだな
今の巨人選手の不祥事もこの時にまかれたタネなんだろな >>1
>>2
>>3
物凄く違和感ある記事だな〜
まず吉田修司は巨人で全然ダメだったとか大嘘じゃん。
ちゃんと貢献してたよ。石毛よりも印象はいいぐらい。
石毛は数字以上に炎上のイメージが強すぎる。
「前の投手が出した走者返しても何とも思わない」とか、
打たれた時のおどおどおどした顔見たらとても本当とは思えない。
書いた奴は当時の野球見てたとは思えないし、突っ込み不足。
言ったことだけ書いてりゃいいもんじゃないだろ。勉強不足だわ。 実際はそうでもないかもしれんが、四球で自滅が多かったイメージ。 阪神ファンだけど阪神に居たかなあ
居たよな気もするなあ 礼儀の話は同じ実力ならって話だろ
実力が飛び抜けてたら犯罪者でない限り問答無用で取るわ
ていうかそういう選手がいないから皆、同じ無個性の集まりになっちまったな >>46
見た目と喋りで損してるけど、以外としっかりしてそう 大谷は野球にしか興味ない相当な野球バカと聞いたが… >>77
この記事の野球馬鹿は「野球をやってる馬鹿」って感じだな 当時は、角は敗戦処理にも使えない体たらく
宮本は年々悪くなっていくしで
使える左が皆無だったので吉田の印象は良いw >>80
だよな、大事な場面で結構抑えてたはず。
あと「大魔神」と呼ばれたのは石毛が先なのに、
もう誰も知らんのだろうな。
その後に顔がちょっと似てたから、
佐々木が「ハマの大魔神」と呼ばれて本家が乗っ取られた。 >>75
同じような実力なら
顔がいい方をとるって
昔、ソフトバンクのスカウトが言ってた
女人気が出るとグッズ買うからだって 石毛なつかしい
佐々木、大野、高津、赤堀とか同時代の抑え投手の影に隠れて地味だったけど、
巨人の抑えにしてはまあまあよく抑えてた印象 >>72
これも思い込みから来るイメージかもしれんが
四球が多いと言うよりは、四球を嫌がって置きに行って痛打って印象。
どっちにせよせっかくの球威を生かしきれなかったのは確かだ。 >>75
巨人はそれをやって、
今えらいことになっているんだが 石毛はストライクゾーンにさえ来れば滅多に打たれなかった
西山はストライクゾーンに来ても気持ち良いくらいに飛ばされてた >90年代のジャイアンツはとてつもない人気があった。
ほんとにな、
野球にそんなに熱心でない俺でもレギュラーは知ってたし
ちなみに今は誰も知らないw ヤクルトスワローズが全盛の頃だな
こいつもヤクルトの投手に平気でぶつけてたもんなぁ
あの時代の野球は今より面白かったよ >>85
ノーコンとか相手が喜んでた印象が強くてダメストッパーと思われてるけど
自分でランナー出しても自分で結構凌ぐし、調子良くストライクポンポン取る日は打たれる気配も無かったり
世間で思われてる印象よりは良い投手だったんだよなw >>75
ヤクルトの泉なんか素行が悪すぎてヤクルト以外全く手を出さなかったぞ
そんでプロ入りしてからも素行が悪すぎて活躍できず 巨人所属だったからやたらとダメピッチャー扱いされてたな
他の球団にも1、2年だけクローザーで活躍したけど攻略されてからボコボコってピッチャーは山ほどいるのに 選手の時に巨人と阪神経験なんて10人いるかいないかだろうな 巨人のイメージが強すぎて阪神のユニフォームは違和感あったな 今Youtubeで見ると、大した球投げてないな、球速は確かに凄いが
伸びがない棒球が多い、こりゃ炎上して石毛劇場が盛り上がったと
いうのも分かるな(笑) >>45
週ベが石毛のことをそう呼んだのが最初だったよな
いつの間にか佐々木の代名詞になってた こいつ面識ないけど高校の1年後輩なんだよな、よくプロに行けたよ
ストレートの速さが売りだったけど実際は大したことなく、県予選の準決勝で東海大浦安にフルボッコにされたのは良い思い出だ >>99
打たれて炎上というより、ノーコンだった
四球でランナーためてから抑えたり、打たれたり。
ハラハラドキドキ >>96
相羽
小林繁
笠間
太田幸司
石毛
他が思い出せん 石井浩郎がいたな
巨人じゃケガばかりだったけど、ここぞで勝負強かった 近鉄の練習だと勝てないよって、優勝しとるやん
そして石毛、何の役にも立ってないやん 石毛とか西山とかうんこ中継ぎっていうイメージしかないんだが 近鉄に行ったのは覚えてたけど阪神にも居たんだな。
野球離れが目に見えて分かる時期だったね。
2003〜以降さ。 >>89
西山は素人目に見ても速いだけの棒球だったわ
棒球ってのはこういうのを言うんだろうなっていう
教科書に載るような棒球
一時的とは言えそれなりに活躍できたのが不思議 >>119
あれはフォームにも原因があったと思う
球が見えやすくて、球速ほどに相手打者は速く感じてなかったんじゃないかな
出始めの1995年後半だけは凄かったな
防御率0点台の抑え >昔は野球馬鹿でも良かったけど、今はいらない。問題を起こすとSNSとかですぐ出ちゃう時代。そういう人間は野球が幾らすごくても入れないんだよって
今も賭博や窃盗する奴でもプロ野球に入れるけどな 今はドラフト外では入れないのか、、、知らんかった。 >>101
覚えてる、東海大浦安が春の選抜を不祥事で辞退した年だよね
銚子は、東海大浦安のキャプテン田代にホームラン打たれて、エース遠藤にがっちり抑えられて負けたな >>68
定岡正二は近鉄へのトレードが持ち上がった時に
あっさり辞めたんだよな
元木大介もそうなんだよな
巨人と近鉄って、割とラインが出来ていたんだよね 昔は「巨人を出されるくらいなら辞める」と公言する選手も少なくなかった
それだけ巨人の選手であることに価値があり、巨人で現役辞めたほうがその後も有利だった時代
実際定岡はトレード決まったらあっさり辞めたしな
元木は相手球団がトレードに際して年俸を調べたら、
8000万くらいと思われていたのが実際は2億近いことが分かって諦めたらしい。
引退決めた時、他球団から誘いがあったが巨人一筋で現役を終えることを選んだ。 昔は巨人と近鉄のトレード多かったな
破談になった件も含めて >>115
セーブ王って言っても完全に空き巣レベルの防御率ほぼ3点の抑えだし、全く信用されてなかったな
前年の奇跡の数字も全く記憶にないぐらいの投手 >>127
そう、準決勝なのにコールド負けしたんだよね、学校でバス出して天台まで応援に行ったけど残念だったよ
東海大浦安はストレート対策で、打撃練習でプレートから数歩前の位置から投げて目を慣らして石毛を打ち崩したんだよ ドラフト外って単純にドラフト引っかからないレベルの選手だけでなくその球団の囲い込みみたいな感じの選手もいたからな
西武の伊東とか中日の大豊なんかがその手
制度が無くなったのも仕方がない >>106
相羽さんは川上哲治さんに可愛がられた打者だったな。
小林繁が阪神に来た時、引退してコーチやってて、
「このチームでは巨人ではどうだったとか言うなよ」と助言したらしい。
ところが小林は「巨人には伝統があるが阪神にはない」と、
みんなの前で言ってしまったw あの当時やたらと近鉄とのトレードが多かったな
今は日ハムだけど
巨人選手からしたら左遷だから辞める奴までいた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています