【ドラマ】「北海道」と名づけた男・松浦武四郎、NHKでドラマ化決定 松潤演じる探検家に注目
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「蝦夷地(えぞち)」を「北海道」と命名した三重県松阪市出身の探検家、松浦武四郎(1818〜1888年)を顕彰する動きが広まっている。今年は武四郎の生誕200年であり、北海道命名から150年。NHKで来春のテレビドラマ化も決まり、武四郎はアイドルグループ「嵐」の松本潤さんが演じる。相手役のアイヌの女性は深田恭子さんだ。このほか関連本の出版や記念イベントも相次いでいる。維新前後の歴史に足跡を残し、ようやく脚光を浴びた松浦武四郎とはどんな人物なのか。(絹田信幸)
■蝦夷地の記録と地図を残す
武四郎は現在の三重県松阪市小野江町出身。江戸時代後期の文化15(1818)年2月6日、紀州和歌山藩の地士(下級武士)の四男として生まれた。跡継ぎではない気楽さからか17歳のときに旅に出て、明治21年に71歳で亡くなるまで、北海道から九州まで日本各地を巡った。
その過程で幕末には蝦夷地を6回にわたり探査し、詳細な記録と地図を残した。明治維新後は、その経験を買われて政府の開拓使の判官に。そして「北海道の名付け親」となった。
明治新政府の下、蝦夷地に変わる新しい地名を求められた武四郎は「北加伊道」の名前を提案。松阪市のサイトによると、「カイ」はアイヌの古い言葉で「この地にうまれた人」という意味で、最終的に「カイ」に「海」の字をあてて「北海道」となった。
1852年に武四郎に会った吉田松陰は、人がやらないことに丹念に取り組む傑出した人という意味を込め「奇人」と表現する。海防論を考察する松陰と、探検を通じて各地の海岸線に詳しい武四郎との間で話がはずんだという。
武四郎はアイヌ民族の窮状に心を痛め、政府に待遇改善を求めたことでも知られる。高橋はるみ・北海道知事は「先駆的な問題提起だった。リベラルな人として見直したい」とその功績をたたえる。
■武四郎役は松潤
松阪市では武四郎を再評価する動きの中で、竹上真人市長がかねてテレビドラマ化を熱望。「単発のドキュメンタリーではなく、説得力のあるドラマ化を」(竹上市長)とNHKに要望も行ってきた。そんな声にNHK札幌放送局が応え、今年6月末、「永遠のニシパ〜北海道と名付けた男 松浦武四郎」の制作を発表した。
「ニシパ」はアイヌ語で、先生など男性の敬称という。脚本は大石静さん。武四郎役はあの松本潤さん、武四郎とかかわりの深いアイヌの女性「リセ」を女優の深田恭子さんが演じ、来年春に総合テレビで放送予定だ。
松本さんは「150年という節目のタイミングでこのような意義のある作品に参加させていただけることを光栄に思います。この作品を通して、アイヌの人々の文化、北海道の歴史を視聴者のみなさまに感じていただけたらうれしい」とコメント。
竹上市長は「これまでの要望活動が実った」といい、三重県の鈴木英敬知事も「あの嵐の松本潤さんと深田恭子さんが演じるドラマということで、大変楽しみ」と話す。
■演劇、入門書、小説
ドラマだけではない。武四郎は今ちょっとしたブームになっている。劇団わらび座はミュージカル「松浦武四郎−カイ・大地との約束」を9月1日に松阪市のクラギ文化ホールで上演。その後、全国を巡回する。
また武四郎に関する資料を収蔵・展示する松浦武四郎記念館(松阪市)の山本命学芸員は3月、「幕末の探検家 松浦武四郎入門」(月兎舎)を出版した。
山本さんは大阪府出身で三重大院生だった平成13年に同館の学芸員に就任。それ以前は武四郎にさほど興味はなかったが、膨大な資料を研究するうちにのめり込んだ。「武四郎は並外れた行動力を持ち、アイヌ民族と大和民族の共生を求めた先駆者」だと話す。
このほか武四郎の日誌の現代語訳も2冊が改訂され、歴史小説家の河治和香さんは武四郎の生涯を描いた「がいなもん 松浦武四郎一代」(小学館)を出版した。
■シンポなども
イベントもめじろ押しで、武四郎に関する資料を収蔵・展示する松浦武四郎記念館(松阪市)は今年2月、芝居や記念講座で武四郎の生涯をたどる恒例の「武四郎まつり」を開催したのに続き、今後も武四郎をテーマにした講座を予定。同市のクラギ文化ホールでは10月、武四郎ファンの小説家、高橋源一郎さんらによる講演やトークセッションが開かれる。
2018.8.1 08:00
産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/180801/wst1808010002-n1.html 歴史秘話ヒストリアで松浦武四郎演じてた野間口徹のほうが良かった >>212
松浦武四郎『知床日誌』 「安政5年(1858年)5月8日 舎利(斜里)にて」
斜里場所、網走場所では、アイヌの女性は16〜17歳の結婚適齢期になると国後島に送られて、
日本全国からやって来た漁師や船乗りのために、身体を好き放題にされ、
アイヌの男性は結婚適齢期になると国後島へ送られて、昼夜の別なく責め使われて、
その壮年期を遠く離れた島で過ごすので、生涯未婚で暮らすアイヌが多く、
様々な病気で病人になっても、働ける間は5年も10年も故郷には帰されなかった。
また、夫婦で国後島へ送られた時は、夫は遠い漁場へ送られ、
妻は(交易と行政の拠点である)会所または(警固役の藩の組士・足軽が数人配置されている)番屋などに配置されて、
日本人の武士や商人の慰み者にされ、いつまでも夫婦が離れ離れのままにされた。
それを拒否すれば辛い目にあうので、ただ泣く泣く日々を送った。
このような無道なアイヌの使い方のせいで、斜里のアイヌの人口も、寛政年間(1789〜1801年)は2000人余り有ったが、
(文政5年(1822年)に360軒・1326人、安政5年(1858年)に173軒・713人。)今では半分の人口になったのは酷いことだ。
このままでは今から20年も経ったら、アイヌが滅びてしまうのではと心配している。 >>283
・国後島
寛政11年(1799年)から天領。泊の勤番所で南部藩が警固。
文化5年(1808年)から仙台藩と南部藩が警固。天領。
文政4年(1821年)から松前藩領。
安政2年(1855年)から天領に復す。仙台藩が泊陣屋で警固。
安政6年(1859年)から仙台藩領。
・斜里
文化4年(1807年)から天領。津軽藩が警固。
文政4年(1821年)から松前藩領。
安政2年(1855年)から天領。会津藩が斜里陣屋で警固。
安政6年(1859年)から会津藩領。
・網走
文化4年(1807年)から天領。会津藩が警固。
文政4年(1821年)から松前藩領。
安政2年(1855年)から天領。会津藩が警固。 シャクシャイン「北海道はワシが名付けた!」
コシャマイン「いや、ワシが名付けた!」 >>285
武田信玄「カイはオラの領土でごいす!」 >>272
松の一文字が共通してるから抜擢されたんでそ?(テキトー) 下層女給としてさえやとわれないようなのを有力者が愛人にしていたんだw いまでいうと
安倍が貧困国の風呂に1か月も入っていない女を連日レイプみたいな話だなww 脂でギトギトニシンも
食用としてではなく、農作物の肥料用にとられていた時代w
今でこそ脂ギトギトニシンを旨いって食べるものも多いがw >>28
むしろ北海道出身者が演じたら違和感あるのだがw
現地のアイヌ人役とかを北海道出身者で固めたら納得 >>267
あったもくそも普通に七道だろ北海道入れて八道
西海道・山陰道・山陽道・南海道・北陸道・東海道・東山道
京都大阪奈良以外みんな道民
東京は東山道な 東海道面してるがごり押しで東海道に入っただけ 松浦武四郎やっとやるのかと思ったら尿潤かよ
民放はしょうがないとしていい加減NHKくらいはちゃんとした役者使えよ
芸人やアイドルの下手糞芝居ばかりじゃねえか 名付けたことなんかどうでもいい
アイヌと仲良く先進的人格者で文献を残したってだけで立派 >>294
ホッケもそうだな
昔は鮮度が命なので即捨てられてたらしい
猫も見向きもしないって例えられてたぐらい >>234
奥羽諸藩が蝦夷地に関わったのって
文化ー文政年間を別にすれば安政二年以降だし
それも警固=守りに行け、経費自分持ちでという状態だから、
諸藩に現地情勢を改善する責任も意欲も権限もないでしょう
松前のやり方踏襲するしかないでしょ >>294
チリ硝石もハーバー法も未発見で化学肥料がない時代
肥料は遥かに価値のある物だったんだよ
稲作は肥料の有無でぜんぜん収穫違うし
だからこそ金払ってまで都市までうんこ汲みにいくし
不味い魚も金肥として高値で売れた 天皇皇后陛下が北海道命名150年記念式典など参加のために今、北海道入りされている。
利尻島にも行かれるご予定。 後ろに都道府県をつけないのであれば
北海となるのはずなのにそうならないのは
なんでなの? えっアイヌなんていないんじゃなかったっけ
ネットで真実を知ったんだけど >>315
島の名前で
本州島、四国島と言わないようなもんじゃない
敢えて正式名では呼ばないとか >>302
日本で初めて詳細な北海道地図を完成させた人で
それを元に明治政府が北海道を開拓していったんだよね
武四郎は道内各地のアイヌの人達から協力を得られた和人だったという事実が大切だと思う 左翼汚染度ランキング で検索!
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ハゲは被ればいいけどさ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています