急逝から8年…木村拓也さん長男・恒希さんは今春から大学生 父の背中追いプロの夢追う
2018年4月3日17時4分 スポーツ報知
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父の魂を受け継ぎ、恒希さんは広島工大で野球を続ける
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09年12月、優勝旅行先の豪州で撮った一枚が最後の家族写真となった
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12回にマスクをかぶり無失点に抑えた巨人・木村拓也を出迎える原監督(09年9月4日)
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追悼試合で気丈に始球式を行い、阿部のミットにノーバウンドで投げ込んだ恒希さん(10年4月)
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プロ野球・広島、巨人で俊足巧打のユーティリティープレーヤーとして活躍した木村拓也さん(享年37)が亡くなってから7日で丸8年がたつ。
東京ドームで行われた追悼試合で気丈に始球式を務めた、当時10歳だった長男・恒希さん(18)は4月から広島工大に進学。
建築関係への就職を考える一方、プロへの夢をつなぐため野球を続ける。
父亡き後は家族の精神的支柱の役割も担いながら、父の座右の銘「一生懸命」を心に留めて未来へ歩みを進めている。

広島市の高台に建つ自宅リビングのフォトフレームの中で、木村さんは変わらぬ笑顔を見せている。
2009年12月、豪州優勝旅行で撮った一枚が最後の家族写真になるとは誰も思わなかった。
幼かった3人きょうだいの長男・恒希さんは、この春から大学生、妹の生吹(いぶき)さんは高校2年生、弟の俊生(としき)君は小学6年生になった。

「妹は強豪校でバスケットボール中心の生活を送っていて、野球をやっていた僕の高校時代より大変そうです。弟も小学校でバスケをやっています」

今では少しだけ元気を取り戻した家族だが、父の死はあまりにも衝撃的だった。
10年4月2日、広島戦の試合前、ノッカーを務めていた木村さんは突然グラウンドに崩れ落ちた。くも膜下出血だった。
広島大学病院に緊急搬送されたが、意識が戻ることのないまま、7日未明、帰らぬ人となった。

「家に着いたら電話がかかってきて、すぐに病院へ向かいました。翌日からも学校には行きましたが、すぐに帰ったり。(容体が)危ないということは認識していました。
8歳だった妹は、よく理解できてなかったと思います。まして弟は3歳ですから。僕も葬式のことは鮮明に覚えていますが、ショックだったのか(未明に訃報を)聞いた時のことは覚えてないんです」

24日に行われた追悼試合で気丈に始球式を務め、原監督にも励まされたが、しばらくは心にぽっかりと穴が開いたままだった。

「大歓声をいただいてありがたかったですが、プレッシャーもすごかった。
原監督には『巨人は君を待ってるから』、谷さんには『タクの代わりに頑張れ』と言っていただきました。
でも、その後、やっていたソフトボールにもなかなか集中できなくて。夏過ぎぐらいに試合に出ることが増えて、ようやく吹っ切れた感じでした」

幼い頃から父は憧れの存在だった。小2からソフトボールを始め、父の“本職”の捕手をやった。
中学で野球部へ。廿日市高では二塁、三塁、遊撃を守り、再び捕手転向を勧められたが、膝を痛めて手術。
松葉づえ生活を強いられた9か月間のリハビリを経て、最後の夏は「5番・一塁」で出場した。父と同様、万能野手として活躍。「左打ち」も父をまねてのものだった。

「小さい時から、父の試合をテレビで見ながら応援に使う“メガホンバット”を左で振っていたみたいです。
記憶にあるのは、本当に野球のことばかり。打撃スイングの足の出し方とか、捕ってから送球までの動きなど、捕手のことも習いました。
小学生の頃、捕手をやりたいと思ったのは、父がやったのを見てからでした【注】」

周囲の期待が重圧に感じた時期もあったという。

「父の動画のコメント欄に『息子も頑張れ』と書かれているのを見たりして、やっぱり期待されてるのかなと感じてました。
高校に入ってからは気持ちの整理もできて少し楽になってきましたが、精神的にきつい時期もありましたね」

>>2以降に続きます。