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(続き)

■自害した西郷の首はニセモノ?

 そこで大きな謎が生まれた。明治10年(1877)9月、西南戦争で政府軍に敗れ、反乱軍の大将として西郷の首が政府軍参謀・山県有朋の検視に供された。しかし、その首はニセ首。西郷に似た替え玉の首だったという謎だ。渡邊氏が、こう続ける。「確かに城山(鹿児島市)で自害した西郷の首はニセモノという噂がありました。しかし、金沢の陸軍歩兵第7連隊の千田登文中尉の関係者が残した自伝によって、その首は本物だと確認されているんです」

 もう一つ、関連して興味深いのは、首から切り離された西郷の遺体の謎だ。西郷はフィラリアという病原菌に冒されて象皮病に罹り、陰嚢が腫れ上がっていたといわれる。だから、発見された遺体には首がなかったものの、その“特徴的な下半身”で西郷のものだと分かり、その死亡を確認できたという。ただし、西郷の“お稲荷さん”が本当に腫れ上がっていたのかどうかは定かでない。

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■勝海舟と会談し、「江戸城無血開城」を成し遂げるも…

 西郷の首がニセモノだったという噂のみならず、当時、西郷が城山で死なず、生き残っていたという風評まで流れた。「西南戦争の14年後、西郷はシベリアで生きていたという新聞記事が掲載されているんです」(渡邊氏)

 事実かどうかは別として、明治の半ばになっても、生存伝説がささやかれていたことで、西郷の偉大さが分かる。中でも最大の功績は、戊辰戦争の際に征討軍の参謀となった彼が、旧幕府軍の軍事取扱(軍事の責任者)だった勝海舟と会談し、「江戸城無血開城」を成し遂げたことだろう。この「西郷・勝」会談が江戸の町を戦渦から救ったわけだが、最近の研究では、この西郷の輝かしい実績に疑問符がつくようになったという。「西郷は3月14日の会談の直前まで、一貫して対旧幕府強硬論者でした。ところが、会談では一転して旧幕府側の要求を飲み、江戸城への攻撃を中止させています。いったい、何があったのか」(前出の跡部氏)

 謎を読み解くヒントはその前日、征討軍の参謀・木梨精一郎(長州藩士)がイギリス公使パークスと会見していることにあるという。「木梨がパークスに会った日付には諸説ありますが、13日だとしたら、西郷の態度の変化は頷けます。というのも、パークスは木梨に、“旧幕府への寛大な処置を”と強く望んでいるからです。新政府も英国の意向には逆らえず、翌14日の勝との会談で、西郷は譲歩したわけです」(前同)

 日本が外圧に弱いのは150年前からのことで、江戸の市街を戦渦から守ったのは、英公使のパークスということになる。

 一方で、西郷が維新後、征韓論を唱え、朝鮮出兵を望んだという通説も見直されつつあるという。「西郷の本音は“征韓”にあらず。朝鮮と条約を結び、南下するロシアの脅威に、両国が協力して対応しようという平和外交にあったとされるようになってきています」(同)

 以上、知っているようで知らない西郷隆盛の実像を踏まえ、『西郷どん』を百倍楽しもうではありませんか。

(終わり)