0001砂漠のマスカレード ★
2017/11/13(月) 12:24:14.82ID:CAP_USER9漫才コンビ時代は外国人だらけのアパートで貧乏暮らし、解散後は“原宿の母”から占いの道に誘われて……。
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最初は「号泣」というコンビでやってたけど、「爆笑オンエアバトル」(NHK)に出るくらいで、仕事がほとんどなくて貧乏でした。
電気、電話、ガス、水道と全部止まりましたよ。
時々、地方の仕事が入って新幹線のチケットをマネジャーから受け取ると、すぐ金券ショップでお金に換えて。
名古屋くらいだと往復が2万円で1万円くらい浮く。
時間はあるから、早朝から鈍行で半日かけたり、前日から夜行に乗ったりして仕事に行きました。
押上の家賃4万円のアパートは風呂とトイレとキッチンと部屋を全部入れて4畳半。
窓を開けると隣の家の壁だから日当たりゼロ。
芸人は入居審査が厳しい物件には入れないから審査が緩いそのアパートにしたけど、
15世帯の中で僕が105号室、相方が201号室に住み、他の部屋はほとんどがイラン人。
当時はちょうど、サッカーの日本代表が初めてW杯出場を決めた1998年フランス大会のアジア最終予選の最中。
最終戦の日本対イラン戦で日本中が盛り上がってた日は僕らだけ、アパートで完全アウェー。
岡野がゴールを決めた瞬間、壁が薄いので、あちこちの部屋から「あああ!」と悲鳴が聞こえてきて。
僕は歓喜の声を上げられませんでした(笑い)。
■「あんた、手相を見る力がありそう」
お金がないので、バイトしてたカラオケボックスでは、部屋を片づける時、お客さんの食べ残しがあると捨てる前につまみ食いしてました。
チキンナゲットとか。
ファミレスのバイトの時は賄いがあって、ショウガ焼きとか豪華。
バイトのみなさんが「おまえ食えてないんだから」ってご飯を大盛りにしてくれたり。
一番融通が利いたのはポスティングですね。夜に電話しても翌日にやれる。
そのバイトは、散歩がてら働くおじいちゃんが多かった。
チラシをポストに入れるよりチラシを持ち運ぶのが大変で、おじいちゃんは頑張っても1日5000枚しか配れない。
その点、若いから倍の1万枚イケた。
そしたら、おじいちゃんたちや他のバイトから「エース」と呼ばれ、チヤホヤされて!でも、朝から晩まで目いっぱい働いて1万枚で1万円くらいかな。
1枚1円計算です。
30歳すぎてもコンビは売れず、相方が「辞めたい」と言ってきて、「あと1回『M―1グランプリ』に挑戦してダメだったら解散」と決めたけど、また決勝に行けず……解散。
ネタを作っていたのが相方だったので、僕はひとりになって“どうしよう”と。悩んだ末に占いを勉強した。
始めたきっかけはイベントで、ベテラン占い師“原宿の母”とご一緒したこと。
僕を見て「あんた、(手相を)見る力ありそうだから教える」と急におっしゃって。
まだ占いを信じてなかったし、「なに言ってるんだ、この人」と思ったけど、教わりに行くとご飯を食べさせてくれたんですね。それからはご飯目当てで通ってました。
趣味程度でやってたのにだんだんのめり込んで、ついに手相を見られるようになったら、番組に呼んでもらえるようになったんですよ!
トータルで3〜4年かかりましたけど、まさか占いが芸人の仕事に生かせるとは思わなかった。
原宿の母から“代々木の甥”を命名してもらってからは貧乏を脱して食えてます。ありがたいなあと思います。
http://news.livedoor.com/article/detail/13883079/
2017年11月13日 10時26分 日刊ゲンダイDIGITAL