片山:1990年代に冷戦構造が崩壊しました。イデオロギー的には資本主義、国内政治で言えば自民党など正統なものに対するアンチテーゼがなくなり、全てが等価となり、現実主義になった。歴史的な視座を失ったリアリズムは、現在の力関係の中で
しか世界を見ません。安倍首相は外交史家や国際政治学者などリアリストばかりをブレーンに置いている。リアリストの思考は歴史でなくゲームなのです。歴史の重みより今の手しか考えない。結果、言葉もその場しのぎになる。

荻上:80年代には「大きな物語」である近代社会に対する市民の抵抗運動として、パンクや現代アートが提示された。いわゆる「政文不一致」の時代で、政治では勝てないけれど、市民はカルチャーで共同体を形成しようと試みた。ところが、2000年代
になると愛国的なカルチャーが消費の対象となり、「日本すごい」的なコンテンツがあふれ、保守の名を借りる排外コンテンツが書店で「日本論」などの謎な棚を獲得するなど、「政文一致」社会になった。政治と対峙するカルチャーという構図がなく
なったのです。

片山:思想や歴史観という軸では対話ができなくなりました。

荻上:そうです。そうした中、リベラルのさらにカウンターとして位置づけられていた保守を名乗る人々が一部で論壇を作っていった。そこでは、30年前と変わらず「これは共産主義の生き残りだ」というとっぴな論理で、フェミニズムやリベラリズムを
批判し始めた。杉田水脈議員の「コミンテルンのターゲットは日本。夫婦別姓、ジェンダーフリー、LGBT支援などの考えを広め、日本の一番コアな『家族』を崩壊させようと仕掛けてきた」という言説などは最たるものです。

片山:ナチスが何でもユダヤの陰謀と言ったのと同じ、「いつか来た道」です。

荻上:アンチを攻撃するモードだけが温存され、歴史観や論理が完全に欠如しています。日本は連合国軍総司令部(GHQ)とコミンテルンが共闘した国ということなんでしょうか(笑)。こうした様相をみると、今は「態度」の時代になってしまったと
感じます。ある振る舞いや態度を共有できれば、自分たちの身内だとみなされる。ネトウヨのサイトを見て朝日新聞的なものをたたいて「野党がだらしない」と言っていれば、何か社会にモノ申しているような気になり、自尊心も満たされる。メディアも
含めて、私たちはこうした「態度」はプアーだということを発信し続けていく必要がある。

片山:狭い世界の中で、ジェスチャーで共感し合うというのは、かつての身分制社会における貴族の振る舞いですよ。語彙(ごい)が共通しているから、ある身ぶりができるから「この人は味方だ」と判断するとか、貴族社会のまね事をしているのか(笑)。
近代以前に戻ったのかと錯覚します。