さて、しかし、人間の知性的な面に関することを、その道徳的な面、すなわち人間の性格に関
して、そのままあてはめるわけにはいかない。人相の上から、その人の道徳的な性格を察知す
ることは、知性の程度を知るのと比べて、はるかに困難である。というのは道徳的な性格は、
形而上学的なものとして、知性とは比較にならぬほど、より深いところに潜んでいるし、なるほ
ど、体質や生活機能と関係はあるけれども、知性のように、これと直接に結びついてはおらず、
また、その或る一定の部分や系統と関連しているものではないのだから。のみならず、たいてい
の人は、自分の悟性に、通常、はなはだしく満足しているらしく、これを公然と示しているし、
なお、あらゆる『機会に、認められようと努めるけれども、道徳的な性格を、そっくり、あけっぴ
ろげて、さらけ出すことは、はなはだ稀である、というよりむしろ、たいていの場合、故意に隠
匿する、そして長い間の練習は、この隠匿方法をきわめて巧妙なものにまで仕上げるからでも
ある。しかしながら、すでに述べた通り、下劣な思想と没義道な努力とは、徐々に、顔面に、そ
の痕跡を刻みつけていくが、特に、それは眼に現われてくる。それゆえ、わたしたちは、或る人
を、人相鑑定の上から判断して、、その人がけっして不朽の業績を発表し得ないということを保証
することは、たやすく出来るけれども、その人がけっして大罪を犯さぬであろうという保証を与
えることは、けだし、全く不可能であろう。