高校野球の醍醐味はサイドストーリー
高校野球の醍醐味はサイドストーリーで「高校生が困難をどう乗り越えたか」という主題から、ハッピーエンドで締める内容が多い。極論をするとそういう記事しかない。書き手は意識的、無意識的に伝統的な”型”を意識して描いている。
特に読者へ刺さる記事はマネージャー絡みで、「選手として挫折したが、裏方として貢献している」という話は何十年と書き継がれてきた定番だ。今夏は「選手不在の野球部を女子マネージャーが再建した」話を二本も読んだが、ライター目線で見れば、そんなキャッチ―な切り口なら外す方が難しい。
野球を知らない記者が、野球を知らない読者に向けて書く−−。それが高校野球のサイドストーリーだ。選手の有名無名は関係ないし、むしろ弱小校の方が抱えている困難は大きい。ネットに匿名で投稿される「いい話」と一緒で、匿名性はむしろ高い方が感情移入をしやすい。
高校野球報道において女子は脇役でなく堂々たる主役だ。おそらくそれは絵になるからで、写真がなければストーリーの価値は何十分の一に落ちる。また保守的な世界だからこそ「女子が学ランを着て応援団をやる」「女子マネージャーがユニフォームを着てグラウンドに入った」といった”男の世界で活躍する姿”もインパクトを持つ。
過剰報道に釣り合った”過剰ニーズ”がある
高校野球は箱根駅伝に並ぶ学生スポーツの横綱格で、際立つ存在だからこそ過剰報道という批判も根強い。アスリートが頑張っているのは男子の硬式野球に限った話でなく、「日が当たらない選手に光を当てるべき」という問題意識は強烈に分かる。
しかし、過剰報道に釣り合った“過剰ニーズ”があることも事実だ。「卵と鶏のどちらが先か」という議論は別にして、メディアが一方的に情報を押し付けているという評価はアンフェアだ。同じアマチュア野球でも25日に決勝戦を終えた都市対抗野球大会はどうだろうか。主催社の毎日新聞は1回戦から運動面を2面見開きで使い、社会面、地域面も使って都市対抗の記事が掲載していた。ただ他の全国紙は基本的にベタ記事扱いだった。
この国ではメディアとスポーツが不可分の関係にあり、自社モノが特別な扱いを受ける。読売新聞ならジャイアンツの扱いは大きくなる。赤旗の紙面で日本共産党の活動が大きく取り扱われるのと同じだ。
夏の甲子園は朝日新聞の主催で、日本高等学校野球連盟(高野連)も朝日新聞の傘下にある。しかし高校野球は都市対抗と違い、読売や産経のような朝日のライバルまで大きく取り上げる。それはエンターテイメントとして魅力があるからだ。メディアの系列関係、経営を考えると不可思議だが、それを誰も不思議と思わないのは興味深い。
要は「高校野球はそういうものである」という感覚が日本社会に深く浸透している。文化系高校生の全国大会にまで『俳句甲子園』『まんが甲子園』と言った愛称がつく。つまり甲子園は単なる地域や施設の名称でなく「高校生が青春をかけて打ち込んだ結果を表現する場」としてブランドになっている。高野連という私組織の主催する一競技の全国大会が、国家的なイベントとして認知されている。これが『俳句の東京体育館』『俳句の代々木』だったら、何のことか分からない。
多くの球児は「伝統芸能を演じる」ことに前向き
甲子園大会を頂点にしたカルチャーを「古い」と捉えている人は多いだろう。しかし時代が一回りして、実は高校野球が時代の先頭に立っているのではないか。
「青春」は現代社会におけるヒット商品で、学生スポーツに限らずAKB48や乃木坂46、欅坂48といったアイドルもそれを商材にしている。一生懸命で爽やかで瑞々しい−−。そういう味わいは出せて20代前半までだ。
我々アラフォー世代の十代を振り返ると「一生懸命を見せるのがカッコ悪い」「大人に対して従順に振舞うのが気持ち悪い」という斜に構えた感覚があった。しかし最近の高校生アスリートと接しているとより真っ直ぐだし、SNSなどでも感謝や絆と言った部分を前面に出す発信が多い。
高校野球に関するポジティブな発信が増えれば、それに呼応した批判も増える。例えば丸刈りの強制や酷暑下でのプレー、猛練習、極端な規律を例に挙げて”虐待”という問題意識を持っている人が増えている。ただ教員や親はともかく、選手自身の被害者意識が顕在化することは稀だ。多くの球児は自分たちのカルチャーに対して「伝統芸能を演じる」ことに対して、前向きな意識を持っているように思える。
高校野球の醍醐味はサイドストーリーで「高校生が困難をどう乗り越えたか」という主題から、ハッピーエンドで締める内容が多い。極論をするとそういう記事しかない。書き手は意識的、無意識的に伝統的な”型”を意識して描いている。
特に読者へ刺さる記事はマネージャー絡みで、「選手として挫折したが、裏方として貢献している」という話は何十年と書き継がれてきた定番だ。今夏は「選手不在の野球部を女子マネージャーが再建した」話を二本も読んだが、ライター目線で見れば、そんなキャッチ―な切り口なら外す方が難しい。
野球を知らない記者が、野球を知らない読者に向けて書く−−。それが高校野球のサイドストーリーだ。選手の有名無名は関係ないし、むしろ弱小校の方が抱えている困難は大きい。ネットに匿名で投稿される「いい話」と一緒で、匿名性はむしろ高い方が感情移入をしやすい。
高校野球報道において女子は脇役でなく堂々たる主役だ。おそらくそれは絵になるからで、写真がなければストーリーの価値は何十分の一に落ちる。また保守的な世界だからこそ「女子が学ランを着て応援団をやる」「女子マネージャーがユニフォームを着てグラウンドに入った」といった”男の世界で活躍する姿”もインパクトを持つ。
過剰報道に釣り合った”過剰ニーズ”がある
高校野球は箱根駅伝に並ぶ学生スポーツの横綱格で、際立つ存在だからこそ過剰報道という批判も根強い。アスリートが頑張っているのは男子の硬式野球に限った話でなく、「日が当たらない選手に光を当てるべき」という問題意識は強烈に分かる。
しかし、過剰報道に釣り合った“過剰ニーズ”があることも事実だ。「卵と鶏のどちらが先か」という議論は別にして、メディアが一方的に情報を押し付けているという評価はアンフェアだ。同じアマチュア野球でも25日に決勝戦を終えた都市対抗野球大会はどうだろうか。主催社の毎日新聞は1回戦から運動面を2面見開きで使い、社会面、地域面も使って都市対抗の記事が掲載していた。ただ他の全国紙は基本的にベタ記事扱いだった。
この国ではメディアとスポーツが不可分の関係にあり、自社モノが特別な扱いを受ける。読売新聞ならジャイアンツの扱いは大きくなる。赤旗の紙面で日本共産党の活動が大きく取り扱われるのと同じだ。
夏の甲子園は朝日新聞の主催で、日本高等学校野球連盟(高野連)も朝日新聞の傘下にある。しかし高校野球は都市対抗と違い、読売や産経のような朝日のライバルまで大きく取り上げる。それはエンターテイメントとして魅力があるからだ。メディアの系列関係、経営を考えると不可思議だが、それを誰も不思議と思わないのは興味深い。
要は「高校野球はそういうものである」という感覚が日本社会に深く浸透している。文化系高校生の全国大会にまで『俳句甲子園』『まんが甲子園』と言った愛称がつく。つまり甲子園は単なる地域や施設の名称でなく「高校生が青春をかけて打ち込んだ結果を表現する場」としてブランドになっている。高野連という私組織の主催する一競技の全国大会が、国家的なイベントとして認知されている。これが『俳句の東京体育館』『俳句の代々木』だったら、何のことか分からない。
多くの球児は「伝統芸能を演じる」ことに前向き
甲子園大会を頂点にしたカルチャーを「古い」と捉えている人は多いだろう。しかし時代が一回りして、実は高校野球が時代の先頭に立っているのではないか。
「青春」は現代社会におけるヒット商品で、学生スポーツに限らずAKB48や乃木坂46、欅坂48といったアイドルもそれを商材にしている。一生懸命で爽やかで瑞々しい−−。そういう味わいは出せて20代前半までだ。
我々アラフォー世代の十代を振り返ると「一生懸命を見せるのがカッコ悪い」「大人に対して従順に振舞うのが気持ち悪い」という斜に構えた感覚があった。しかし最近の高校生アスリートと接しているとより真っ直ぐだし、SNSなどでも感謝や絆と言った部分を前面に出す発信が多い。
高校野球に関するポジティブな発信が増えれば、それに呼応した批判も増える。例えば丸刈りの強制や酷暑下でのプレー、猛練習、極端な規律を例に挙げて”虐待”という問題意識を持っている人が増えている。ただ教員や親はともかく、選手自身の被害者意識が顕在化することは稀だ。多くの球児は自分たちのカルチャーに対して「伝統芸能を演じる」ことに対して、前向きな意識を持っているように思える。