奨学金満額で借りてるアホ大学生だけど、勉強の休憩がてら自分語りしたい
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さて、まあ奨学金満額ってなんやねんって話だけど、月12万を四年間、院は知らんけど、まあ借金総額1000万は行くかなって感じです 我ながらいろいろ思い出深い人生なので思い出しながら暇を潰していきます まず生まれがとんだど田舎でして、それはそれは自然豊かで田んぼと山とほんの少しの道路以外なにも無いとこでした。
もちろんコンビニなんか無くて、最寄りのショップは〇〇商店、最寄りのコンビニは歩いて一時間強って感じです。
で、閉鎖的な地域だったから保育園、小学校、中学校が同学区内にあって、ど田舎特有のエスカレーター方式でした。 でも実は生まれ自体はそこじゃなくて、両親とも実家から離れて生活してたんだけど、姉が小学校に入学するってなって実家に戻ってきて、そのタイミングで僕も実家に舞い戻りました。
当時は年少さんなのでほとんど記憶にありませんが、ミニカーとプラレールが好きだったことはなんとな〜く覚えてます。 それで自然豊かな土地での、祖父母、両親、姉、僕の三世代世帯新生活が始まったわけですが、祖母の印象だけやたら強く残ってるんですね。
というのも、僕の記憶の限り、祖母は当時車椅子に乗っていて、なんか漠然と、めずらしい人なんだなって思っていました。 まわりの人は普通に生活してるのに、うちのおばあちゃんは変だなって見てたんですね。
でも僕はめちゃくちゃおばあちゃんっこで、小学校に上がる前に数字とかアルファベット、足し算とか教えてもらってました。
小学校上がる前から足し算できるなんて〜、みたいにいっぱい褒めてもらったのを覚えています。
ちなみに、おばあちゃんの味噌焼きおにぎりは人生で一番うまいおにぎりだと断言できる自信があります。 さて、そんなこんなで小学校デビューを迎えました。
同級生の数は一桁、保育園から上がるときに別の地区へ引っ越していった子が何人かいました。
まあ、クラスの人数が一桁なのはどの学年も同じだったので、全学年で一クラスみたいなそんな感じでした。 小学校と言えば休み時間にやるボール遊びですが、我が校のお決まりは全学年混入のドッヂボールでした。
低学年は逃げ専、高学年は「幼児虐待!」とか叫んで全力でボールをぶつけてきました。
顔面セーフはアリで、鼻血だらだらで逃げ続けたりしてました。 それと、小学生ともなるとなんとなく世の道理みたいなのが分かってきて、自分の身の回りの環境について気づくことが増えてきました。
特に大きいのは、まあ、4つぐらいありましたかね。 1つは勉強についてで、僕はそれなりに勉強はできるようでした。
といっても、おばあちゃんや姉の入れ知恵でちょっと知識があるだけだったのでしょうが、クラスで1番だ2番だとテストのたびに喜んでいました。
次は兄弟関係で、姉に逆らうことが不可能だと悟りました。
コロコロ〇ミックやCDケースでボコボコにされていたのが懐かしいです。
今でも逆らおうなんてとてもじゃないけど… 次はお金の話、どうやらうちはいわゆる貧乏なようでした。
当時は分かりませんでしたが、両親はどちらもパート勤めで稼ぎはお察しの通り。
祖父母も退職しており、それもどちらも工場勤めだったらしく、老後の蓄えとかいう考えはあまりなかったのだろうと思います。
加えて、祖父は年金すら払っていないようでした。 僕が我が家のお金事情に気づいたのはひょんなことで、中学年次の保険の授業でした。
毎日の朝ご飯チェックみたいなのがあったんですが、僕はそれまで、朝ご飯に卵かけご飯以外食べたことがありませんでした。
それで、他の人の話を聞くとなにかおかしいなと思い、両親に伝えてみました。
すると、そのうちソーセージが2,3本つくようになりました。 最後はおばあちゃんについてです。
どうやらおばあちゃんは体が不自由らしく、しかたなく車椅子に乗っているようでした。
でも気づけば、一日中ベッドで寝たきりになっていました。 ああ、体が不自由だからヘルパーさんとか言う人がいつも来てくれるし、お風呂屋さんとかいう人がわざわざ来ておばあちゃんをお風呂に入れてるんだなと思いました。
なにか気に入らないことがあるとすぐに怒り散らして、まさに昭和の頑固者だった祖父も、おばあちゃんのこととなるとなにかと献身的で、いつもこうだったらなと思っていました。 さらに、うちのおばあちゃんは体が不自由なわけがありました。
パーキンソン病でした。
しかも僕が生まれる7,8年前から発症しているらしく、幼心にも、死というものがなんとなく意識できていました。 そのうち自宅専用のナースコールみたいなものや手すりが増設され、おばあちゃんに何かあった時は茶の間に「エリーゼのために」が流れました。
それを聞いたら一目散におばあちゃんの部屋に行って、専用のベッドの角度を調整したり、これまた専用の機械で痰をとってあげたりしました。
時にはトイレやおむつの手伝いもあって、嫌なこともありましたが、エンシュアリキッドというミラクルジュースをくれたのでちゃんといっていました。 でもそのうち面倒になり、最初の一回ぐらい無視しちゃえ、寝てて気づかなかったことにしちゃえといったことがでてきました。
今思えばなんてことをしていたんだろうと思いますが、なんとかなっていたので反省することもなかったのだろうと思います。 一方で学年が上がった僕は大きな壁にぶつかります。
外国語の授業です。
ただでさえ少人数クラスで、陰キャ気質だった僕は、見知らぬ外国人講師の言っていることを集中して聞こうとすら思えませんでした。
話すなんてもってのほかです。
すると、外国語の単元テストで30点を取ってしまい、自分はもしかして勉強ができないんじゃないかということに気づき始めました。 中学校に上がった姉がなお手につかなくなって、兄弟関係が冷え切っていた時期でした。
今でもはっきりと覚えてるあの日が来ます。 その日の午後の授業は、この一年間の自分新聞を作ろうというものでした。
小学校のパソコン室で最近覚えたローマ字でもって、必死に文字を打っていました。
そんな中、ごごっと聞きなじみのない低い音が響きました。 すぐに部屋全体が揺れ出し、地震であることに気づきました。
年頃の男の子ですから、僕や周りの男子は調子に乗って余裕をこいた態度を取っていました。
でも、なんだか強い地震で少し怖かったので、先生の声かけとともに机の下に潜り込んで、じっと固まっていました。
その揺れは数十秒続き、こんな長いの初めてだなと思っていました。 少し、ほんの少し弱まったかなと思った瞬間でした。
聞いたことのない轟音とわけのわからない揺れでした。
机の上のパソコンが軒並み降ってきて、学校がくずれるんだと思いました。
木造のおうちもつぶれて、おばあちゃんは埋まってしまっただろうかと思いました。 とても長い長い揺れでした。
実際どうだったかは分かりませんが、10分ぐらい揺れ続けた気がします。
余震が収まらない中、歩いて移動はできるぐらいの揺れになったらすぐさま避難がはじまりました。
階段を降りながら、〇〇ちゃんめちゃくちゃ泣いてるなとか、避難訓練って役に立つんだなとか、やけに冷静だったのを覚えています。 外は雪がちらついていて肌寒かったですが、上着を持ってくる余裕なんて無かったのでひたすら我慢しました。
校庭の端の方は地割れが起こったらしく、今集まっているところから動かないようにと何度も言われました。
ただただ家族と家のことを何十週も考え続けて一時間ほど待ったら、近所のおっちゃんが迎えに来てくれました。
うちの近くは瓦屋根が落ちたくらいで、家が潰れたりはしてないと聞いて安心しました。 家に着いたら父親が平気な顔をして待っていました。
僕は、なんだそんなもんかと思いましたが、親として子供の不安をあおらないように考えた結果なのだと今は思います。
おばあちゃんもいつも通りでベッドで寝たままでした。
天井落っこちてくると思ったと笑っていて、強い人だなと思いました。 そのうち母親と姉が一緒に帰ってきて、興奮覚めやらぬといった感じでしたがけがとかはありませんでした。
幸いにも揺れどころ(?)がよかったのか、停電もせず、ガスも止まらず、水は井戸水なので生活は問題ありませんでした。
加えて、田舎でしたので米と野菜は死ぬほどあり、地元の商店には地元の人しか来なかったので、食料も心配ありませんでした。 うちの被害と言えば、瓦が数枚と食器がいくつか、本棚がぐちゃぐちゃになったぐらいで、なぜか朝からテーブルに立っていたリップクリームは倒れてすらいませんでした。
茶の間にある人形が一体、首から割れてしまいましたが、父が「全部やなこともってってくれたんだね」と言っていて、不気味な人形にそんな役割があったのかと感心しました。 世間が放射線だなんだと騒いでいるある日、いつものようにおばあちゃんの痰を取ってあげていると、急に咳をし、血混じりの痰を吐きました。
これはまずいと思い、父にすぐ伝え、震える手で受話器を取りました。
初めて119なんて押すなと少しわくわくしていましたが、それはお父さんがやるから、と父に止められました。 程なくしておばさんも家に来て、どうやらおばあちゃんは大丈夫そうだということでした。
それでも何かあると怖いからと言って救急車を呼びました。
夜だからかサイレンは鳴らさずに敷地に入ってきておばあちゃんを乗せていきました。
初めて人が救急車に搬入されるところを見ました。 おばあちゃんの入院が決まりました。
実はそれまでもおばあちゃんは入退院を何度も繰り返しており、これでナースコールの呼び出しを食らわずにすむな、といけないことを思ったりしました。
しかし、おばあちゃんは重篤な肺炎になっていたようで、お医者さんは「覚悟はしといた方がいいですね」と言っていたそうです。
僕たちを心配させないためか、両親は黙っていましたが。 数ヶ月して、おばあちゃんの退院が決まりました。
お医者さんは「まるでフェニックスですね」と言っていたそうです。
退院自体はまあホッとはするのですが、いつものことだなと慣れが来ていました。 姉の高校受験が迫り、兄弟間の冷戦が激化、僕は冬休みの宿題を当たり前のように冬休みが終わったあとに始めていました。
最近、母が腰が痛いと言い始め、両親もそんな年かと思っていました。
僕は、クラスのメンバーは替わらないけれど、数ヶ月後に始まる中学校生活を楽しみにしていました。 気がついたら、外が明るい…
目が疲れたので休憩します。 というか休憩に時間使いすぎだなこれ。
来週のテスト大丈夫か… 小学校から帰ってくると、珍しく父が先に家にいました。
いつもは夜帰ってくるのを姉弟で待っているのですが、別にこういう日がないわけではありませんでした。
しかし、わかりやすくその日の父は雰囲気が違いました。
そして、もったいぶって「お前たちに話がある」と言って続けました。 父は「お母さんが入院することになった」と言いました。
僕はもう小学生ながらに大変に嫌な予感がしていました。
父はただできものができたから、それを取るだけと言っていましたが、そのわざとらしく落ち着いた感じはすでに何度か見たことがありました。 姉と二人だけで話し合い、明らかに怪しいけどあまり深くは聞かないでおこうということと、親の前で仲悪くするのはもう止めようということを決めました。
姉はすでに高校進学を決めており、前に比べて幾分余裕があるようでした。
ここから、冷え切った姉弟関係は、まあそれなりに落ち着いていきました。 少しして、父は仕事を辞めました。
母の代わりに僕たちの世話を見るのと、おばあちゃんの介護のためでした。
資格を取って自営業を始めましたが、当然稼ぎはパート勤めにも満たない程度でした。
母の入院が長引きそうな気配におびえていました。 学校帰りに母のお見舞いに行き、その日あったことをできるだけたくさん話してあげるということを毎日のように繰り返しました。
お見舞いに行ってそういったことをするのはおばあちゃんのおかげ(?)で割となれていました。
思ったより母は元気そうだったので、それほど不安はありませんでした。 そんな折、父が「母の手術が決まったのでいろいろ話そうと思う」と前のようにもったいぶって話してきました。 母はステージ4の卵巣がんでした。
大動脈にまで転移が見られ、10年生存率は1割だそうでした。
お医者さんは「直らない病気ではないです。あと1ヶ月遅かったら手遅れでしたね」と言っていたそうでした。 僕は大変考えました。
不思議と涙は出ませんでしたが、普通に逝くのではとか、お金やばそうとかそういった負の考えだけがぐるぐると巡っていました。
そして、ピンッとある一つの結論にたどり着きました。 それは「勉強をしなければならない」ということでした。
お医者さんになって僕が母を直すんだとかそういったことでは一切無く、現状を良い方向へと向かわせる方法をそれしか思いつかなかったのです。 勉強をすると心に決めるとなんだかいろいろと大丈夫なのではという気になってきました。
母の手術は体の中を見てみるまで分からないということでしたが、僕が頑張る限りなんとかなるのではという気すらしていました。 実際、母の手術は成功しました。
といってもすべてのがんを取り除けるわけもなく、そこから抗がん剤に頼った壮絶な闘病生活が始まりました。
ちょうど僕の小学校卒業の時期とかぶっていたのですが、母がなにより「卒業式を見に行けないなんて…」と泣いていたのが不思議でした。
自分の命が危ないのに、なんで僕のことなんかでと思っていたのですが、今考えれば親とはそういうものなのかなと感じます。 中学校で最初の中間テストに向けて、僕は猛勉強をしていました。
毎日のお見舞いで病室にいる間はずっと母のそばで勉強をしていました。
目に見えて弱々しく痛々しい様子の母でしたが、これで少しは母に力を与えられるんだと理由もなくそう信じていました。 中間テストはなんとかクラスで一番を取ることができました。
嬉しくはありましたが、やってやったという達成感はさほどありませんでした。
ただ、両親がともに喜んでくれたので、今の自分は間違っていないんだなと自信を持てました。 しばらくして、母の退院が決まりました。
といっても、自宅で安静にしつつ病院に薬を入れてもらいに行く生活で、当然闘病が終わったわけではありませんでした。
お医者さんによると、母は薬の感受性が高く、人一倍抗がん剤が効くため、病状は悪くないということでした。
ですが、その分副作用もひどく、昼夜問わず母が苦しむ姿を見る方が、僕たちとしては母が入院していることよりも辛く感じました。 さらにしばらくして、母への投薬が終わりました。
一時は10000弱もあったが腫瘍マーカーが正常値にまでなり、ひとまず寛解と言える段階まできたということでした。
我が家にとってとんでもなく嬉しい出来事でしたが、まだ他に問題が残っていました。 一つは、姉が高校でうまくいっていないということでした。
どうも姉が行った高校は地元色が強く、全校生徒が20人もいないような中学校から行った姉には居場所がないということのようでした。
僕から見ると、姉にとって最も過酷だったのはこの時期であり、前のように僕に強く当たってくる元気すらないようでした。 結局、姉は部活動を通して居場所を見つけてまた明るくなっていくのですが、負の連鎖は終わりませんでした。
今度はおばあちゃんの入院が決まりました。
しかも、病気の悪化や肺炎ということではなく、純粋に心肺機能が著しく低下し、もう長くはないからというものでした。
それでも、我が家のフェニックスはそこから数ヶ月にわたって羽ばたき続けました。 さすがにちょっと課題やってきます。
まだ書く元気あったら戻ってきます。
>>2
今夜ここでメインゲストでやってください(///∇///)
豆腐ワールド
オンライン新年会のお知らせ
老若男女初心者古参問わず。
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出入りも自由。
【日時】
2021年1月17日(日)20時より
【催事】
主 豆腐の晒し首
特別ゲストフシアナからのサプライズ
焼肉食レポ
参加希望者様は以下までご遠慮なく〜
初心者の館
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1609339258/ 課題が一段落したから続きやりに来たぜ。
見てくれてる人ありがとうございます。 その日は学校の文化祭でした。
といっても、なにぶん全校生徒が20人程度なもので、規模としてはお遊戯会のようなものでしたが、僕は生徒会長だったのでそれは一生懸命に運営しました。
そして、無事にすべての出し物が終わり、生徒会長としての役目を終えて、見に来ていた母と一緒に帰ろうとしました。 すると、珍しく母が僕の名前を呼んできたので(いつもはあだ名みたいな感じ)、これはなにかあるなと思って待っていました。
母は「おばあちゃんが亡くなった」と言いました。
不思議と涙は出ませんでしたが、もう少し前に亡くなっていたら文化祭出られなかっただろうから、おばあちゃんなりに頑張ってくれたんだねと言われて、確かになぁと妙に納得したのを覚えています。 それから、1週間しないぐらいでお葬式が開かれました。
おばあちゃんは寝たきりだったころと見た目はあまり変わりませんでしたが、心なしか明るい表情に見えました。
また、お葬式で読むお別れの手紙を書かなければならなかったのですが、思春期で陰キャだったので、なんだかもの恥ずかしくて適当に書いてしまいました。 それでも、実際に式で読んでみると、ぼろぼろ涙が溢れてきました。
両親からも、まさか泣いてくれるとはなぁと言われましたが、僕としても意外でした。
もう一つ意外だったのは、姉のことで、姉もぼろぼろ泣いていました。
僕は自分が一番おばあちゃんに寄り添っていたと勝手に思っていましたが、姉もまた同じ気持ちだったのかもしれません。 程なくして学年が上がり、いよいよ高校受験について考えねばとなったとき、母のがんが再発しました。
お医者さんは「がんとはこういうものですから」と言っていたそうで、確かにそうだとは思いましたが、母的には最初に見つかった時よりショックが大きかったそうです。
すぐに入院、またあの闘病生活が始まりました。 それでも、前と違うこともありました。
それは、僕たちに余裕があることでした。
なんせ一度はあのステージ4を乗り切っているわけですから、こんなものわけないと、母には悪いですが勝手にそう思っていました。 それに、どうやら母も負けるもんかという自信があったようで、絶対に中学校の卒業式は見に行くからと意気込んでいました。
しばらくして手術が決まり、当日は普通に学校があったので、手術の結果は学校の先生がわざわざ伝えてくれることになっていました。 授業中にいきなり呼び出されて、先生に「手術は成功したようですよ」と言われました。
ですが、うれしさとかはなく、まあ、でしょうねみたいな、当たり前でしょといった気持ちだけでした。
そして、卒業式前にまた寛解の状態まで持って行くことができました。 さて、残る問題は姉と僕の進学問題でした。
姉は、この先稼ぐためにも大学ぐらい出たいと申し出ました。
しかし、昭和の凝り固まった考えだった祖父は、おなごが大学にいくなんて考えられんと猛反対してきました。
僕はそんな祖父の固いところが好きでは無かったですし、当時は姉と仲も良くも悪くもない、ぐらいになっていたので、それなりに姉をサポートしました。 結局短大ならいいということで折り合いがつき、実家から通えるぐらいの短大に姉はぬるっと合格しました。
本人なりに受験勉強は頑張ったと言っていましたが、ひいき目に見ても真面目な学生とは言えないぐらいでしたので、そんなんで大学っていけるんだなと甘く思えました。
とは言っても、短大に行きながら死ぬほどバイトをしてたところとかは素直に尊敬していました。 残るは僕ですが、当然のように中学三年間は勉強に明け暮れていました。
超小規模校なので決まった部活というものはなく、放課後軽いクラブ活動をして集まるみたいな感じだったので、勉強に専念することができていました。 すると、勉強の成果が出たのか、模試で〇高のA判定を勝ち取ることができました。
〇高と言えば、いわゆる地方の進学校といった感じで、うちの中学で優秀だった生徒はみんなそこに挑戦していました。
僕は自信をもって〇高を狙うと宣言しましたが、意外にも両親には反対をくらいました。 どうやら、親としても我が子のできがあまりよくないということに気がついていたようで、無理して〇高にいかず、ランクを落としてもっと楽しい高校生活を送れとのことでした。
といっても、僕はもう心を決めていたので、そのうち親が折れるだろうと思ってそれほで気にしていませんでした。
しかし、意外にもこの対立が激化していき、挙げ句の果てには「勉強ができたからといってなんになるんだ」と親にぶち切れられてしまいました。
僕はすでに、勉強を頑張ることで生活をよりよくするしかないと考えていたので、それにもめげず〇高に出願しました。 結果、あっけなく〇高に合格でき、さすがにそのときは両親ともに喜んでくれました。
しかし、合格してすぐに〇高から大量の課題が届き、入学式前までに提出するように言われ、これが進学校かとつばを飲みました。
親はほら見たことかとどこか勝ち誇った様子で、どの目線でものをいっているんだと内心イライラしていました。 入学後すぐに実力測定のテストがあり、初めて同じクラスの人に会いました。
といっても、同期の人数が中学の頃の数十倍、クラスの人数ですら中学の全校生徒の数の倍以上でしたから、僕にとってはわけのわからない環境でした。
それに、周りの人は小学校、中学校でクラス分けを経験して、友達作りになれていて、加えて陰キャだったぼくは明らかに孤立してしまいました。 人と話すことが無く、あまりにもしんどい学校生活が1週間ほど過ぎ、最初の実力測定のテストの結果が出ました。
〇高は進学校らしく、学年上位1割を教室に張り出すというスタイルで、その日の朝はクラスの人はこぞって張り出された紙を見ていました。 僕も当然内容を確認しました。
一応模試はA判定で通っていたので、もしかしたらという気持ちがありました。
しかし、僕の名前は載っていませんでした。
それどころか、(三桁)位という見たことのない自分の順位を見て愕然としました。 数日して僕は学校を休みました。
親には体調が悪いと伝えましたが、体は健康そのものでした。
もう高校には行きたくありませんでした。 友達もできない、今まで磨いてきた勉強すら通用しない。
もう完全に心が折れていました。
高校入学当初、親に泣いてすがっていた姉の気持ちがとてもよく分かりました。
それでも、まだ、まだなにかあるんじゃないかと一日中布団の中で泣きながら考えていました。 今までの尋常ではない母の頑張り、姉の頑張りを何度も回想し、自分も頑張るしかない、頑張って勉強するしかないんだと気づきました。
前の対立もあり、親に勉強で苦しんでいるところを見せると、負けたような気がしていたので、絶対に親には相談しないでおこうとも思いました。
なにより、自分が負の感情を振りまくことで、それにあてられて母の体調が悪化することだけは避けたいという気持ちがありました。 それと、姉を参考にして部活に入ることも決めました。
そこでなんとか居場所を見つけて、なんとか学校生活を乗り切ろうと思いました。
次の日から、僕は決死の覚悟を持って登校しました。
次心が折れたらもう立ち直れないだろうことをなんとなく察していたからです。 さらに、親に必死になっているところを見られたくないので、家では課題をちょろっとこなすだけで、猛勉強はしないと決めていました。
これは、思春期特有の気恥ずかしさというのもあったのかもしれません。
それと、なんとか親を見返してやろうと、ある条件を持ちかけました。 うちが貧乏なのは知っていたので、わざわざお小遣いをせがむようなことはせず、そして、親からもその打診はありませんでした。
ですが、高校は電車通学だったので、定期を買うためにまとまったお金(といっても数千円)を親から預かることがありました。
そこで、定期テストや模試で上位の成績を取るたびに、プラスしていくらかもらえないかと親に申し出ました。 両親も、高校生にもなってお小遣いが一銭もないのはな、と話していたらしく、張り出しに載ったらということで決着がつきました。
親に、まさか載るはずがないだろうという思いがあったことは透けて見えました。
しかし、これで、勉強を頑張ればお金がもらえる、親も見返せるとまさしく一石二鳥の状態となり、ますます勉強を頑張ろうという気になりました。 次に来たテストは中間テストでした。
僕は高校受験時の勉強がかすむぐらいの猛勉強をしました。
そのつもりで頑張りました。
手応えも悪くなく、これならワンチャンあるぞと心の内で思っていました。 テストが順に返され、結果が張り出されました。
張り出しに自分の名前があるのを見つけました。
中間テストということで周りも相当気合いが入っていたらしく、中間で載るのすげーなと、クラスの人に声をかけられました。
なんだか照れくさくて、でも、とても嬉しい気持ちでした。 親に結果を報告すると、心底驚いた様子でしたが、やっぱり両親ともに喜んでくれました。
次にお金渡すときは3000円プラスしとくよと言われ、ついにやってやったぞという達成感に満ちあふれました。 大躍進の成果はそれだけではありませんでした。
その日から僕は勉強ができるキャラとしてクラスで認知され、だんだんと居場所ができたような気がしていました。
他人と話すこつをつかんできて、部活動でも楽しく活動できるようになってきました。
他の人にとってはどうか分かりませんが、僕としては入学当初とは見違えるほどのに高校生活が充実していました。 それからはクラスの中でも自分が自由でいられるコミュニティができ、学校行事もどれも楽しめました。
それでも、僕にとって高校生活とはと聞かれたら、勉強、と断言できるぐらいに勉強は欠かしませんでした。
二度とはない青春をなげうって勉強に明け暮れていいのかと思われるかもしれませんが、僕にはひとつの後悔もありません。
というより、もともと陰キャなのは変わらないので、青春できていたかどうかも怪しいですが。 今思っても、高校生活はあっという間でした。
あっという間に大学受験を考える時期になっていました。
といっても、進学校らしくことあるごとに進路指導をされ、大学受験は常に意識づけられていました。 僕の志望校はと言えば、最初は一番近い〇大に入れれば御の字だなと思っていたのですが、先生にけつを叩かれ続けてどんどんとつり上がっていきました。
そして、先生に「△大を狙うと言っていたら終盤落ち込んで合格を逃す。本当に△大に行きたいならもうひとつ志望のランクを上げろ」と言われ、ついには某国立大志望になっていました。 親に志望校を聞かれたときも、同じ理論で説明していたので、終盤まで僕は△大に行くものだと両親は思っていたのだと思います。
そしておそらく、先生もそのつもりしかなかったのでしょうが、僕は密かにその某国立大を狙うと決めていました。
模試の判定はDとCを行き来するぐらいで、とても安全圏ではありませんでした。
それでもなぜか、僕には、なんとなくいける気がしていました。 いよいよ志望校を最終決定するとなって、あらためて親と話し合いました。
父は「お前も分かっているだろうが、うちにお前を浪人させるような金はない。△大に言っても金は出せない。家賃も学費も全部自分で出してもらうしかない」と言われました。 すみません、前レス、父に「…」と言われました。の誤字です。 僕はすべてを重々承知した上で、その上でなお某国立大に出願しようと思うと伝えました。
そこから数日、僕と両親とで高校受験以来の激しい対立がありました。
というより、親子げんかと言った方がしっくりくるかもしれません。
高校受験以上に今後の生活がかかった場面だったので、お互いに絶対に譲りませんでした。 父からの「大学受験ぐらい親の言うとおりにしろ」という一言を受けて、決着がつきました。
私立併願はもちろんなし。
某国立大を受けることは認めるが、後期ではど安牌の〇大に行けということでした。
万が一にも浪人が決まったら、そのときは就職してもらうという話でした。 >>96
小さいときから僕にはもう勉強を頑張ろうという気持ちしかなくて、周りの環境も相まって大学進学以外は考えられていませんでした。
正直返しきれるかはわかりませんが、ここまで来てしまったので流れに身を任せて頑張ってみようと思います。
ただ、借金はやはりよくないのもその通りだと思います。
もし他の人が同じように悩んでいるとして、借金してでも大学に行くべきだよとは、僕にはとても言えません。 しかし、僕としては、今までのすべての努力に意味を見つけるためにも、その某国立大合格以外は考えられませんでした。
並々ならぬ思いで来る日も来る日も勉強に明け暮れ、ついにはセンター試験を迎えました。 手応えは悪くありませんでした。
むしろ最高と言えるぐらいでした。
禁じ手とされる当日自己採点すらやってのけ、なんとか二日間を乗り切りました。 >>98
私は親のお金で関西から東京出てきて、大学出たんだけどさ(´・ω・`)
大学卒業してから、1000万貯まるまで4年もかかってるんだよね
お金と勉強っていうのはあんまり関係がない 結局、全体のできも悪くなく、今までで最高の点数を取ることができました。
これならいけるぞとさらに気持ちに火がつきました。
二次試験までの間ももちろん、学校で死ぬ気で勉強し、家に帰ってからは親の前でだらだらと過ごしてやりました。 >>101
むしろ1000万って四年でたまるものなんですね。
僕は20年かけて払えば良いらしいので気長に頑張ろうと思います。
学歴なんのそので死ぬほど稼いでる人がいるのも分かりますが、どうしても勉強したら将来幸せになれるんじゃないかと思ってしまうんですよね。
まあ、僕の場合、ただ勉強にすがっているだけですが笑 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています