山伏のオッサンと雑談
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お疲れ様
放置してました
多分、先月の4日から取り憑かれてて、気づいてたのに供養忘れて、2週間ほど自律神経壊してた 4日、友人らと友人のマンションで飲んでて、翌朝帰る時に「ドスンッ」と衝撃が走り、その後、何でもないのに悲しくてずっと泣いてた
変だなぁと思って憑かれたのか?と一瞬思ったが、すべて忘れて、退廃的な生活に向かってしまって、供養しなかった その後、寺で他の人の先祖供養するのに参加したら、終わってから目の前が霧が晴れたみたいになってて、ようやく確信した
憑かれてるのって分かってても分からないんだよねぇ笑
2週間無駄にした >>183
自分はキリスト者の友人の縁もあり、この世界に入ったよ
スピリチュアリズム、神智学的な解釈になってしまうけど、同じものを見ての解釈の違いだと思ってる ある時、救われるために某霊山を歩いていて、阿弥陀如来の誓願がふと脳裏によぎり、
「阿弥陀如来が一切衆生を救うというあの誓願は、裏を返せば、今世で、ほとんどの人は救われない」
「自分も生きている間に救済される事はない」
と気づいてしまった
それから一月ほど退廃的な生活に入ってしまったのだが、しばらくして、救われたかった自分はいなくなっていた 風邪ひいてるときは健康になりたい、と思うが、風邪が治ると、風邪をひいていたことを忘れてしまう
救済されないと気づくことが、救済につながる 自分も出来るだけ命あるものを殺さない、と努めてる
最近、十善戒の不殺生について苦しんでいた
現代社会で生きているなら、命あるものを殺さねば生きていけない
生活のため(猟など)ならまだしも、わざわざ殺すことも無いと、肉を食べることを避けていた のだが、今月になって、どうしても動物を殺さねばらなくなった
ここで考えたのは、「薬も動物実験、人体実験を通してる」「農業でさえ生き物を殺さざるを得ない」と言うこと
むやみやたらに殺さぬと決めても、生きてるなら殺さざるを得ない
山の中で木の実くって生活してたとしても、程度問題に過ぎない まだ自分の中で整理がついてないので言語化も上手くできないのだが、ヴィシュヌとガルーダの神話の話を聞いて、なんとなく分かってしまった ヴィシュヌとガルーダの戦いの果に、ヴィシュヌは負けを認め、ガルーダを自らより上位としたと言う
そしてガルーダはヴィシュヌの乗り物となって、孔雀明王で描かれるような姿となった 乗り物となっているガルーダが眷属で、ヴィシュヌが主人という解釈は誤りです
我々が考えてしまうような人間を頂点としたヒエラルキーは、霊的な世界からすれば、誤りです 神仏の像で、他の神を踏みつけている仏像があるが、あれは上下関係を表したものではない >>185
メリノウールのインナー、フリース、ダウンか透水性高い合羽だよ >>186
えっ、片掌でしか拝めないもの??うーん
分別することだから、エゴや妄執なのかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています