山伏のオッサンと雑談
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「信じている」と言うのと、「知っている」と言うのは、決定的に違うよ
人は「信じている」程度では、超えられない壁がある
日が東から登り西に沈むくらいに、「知る」事で当たり前に確信していないと、意識が勝手に枠組みを作ってしまって、その中でしか思考が出来ない
だからお経の内容も、かなりそのまま書いてくれてるのに、そのまま読むことが出来ない
釈迦みたいにすべてを知れる神通力がなくても、一片だけでも垣間見えたら、それから思考法が変わるようになる
神秘体験している自分でも観音経ってメチャクチャな事が書かれてると思うけど、
「まぁ、ああいう事(天狗にからかわれたり)があったんだから、ここに書いてる事があってもおかしくないわな」
みたいに考えてしまう 神話なんかでも、僕も実際に書かれてる内容通りの事があったかどうかは分からんけど、あってもおかしくないよなぁと思うし、この「あってもおかしくないよなぁ」みたいなノリになれる事が重要だと思ってる
本当に「信じる」とは、こういう事だと思うよ
聖書にも同じ事、確か書いてあった
「奇跡を見せないとあなたたち信じないでしょう」みたいなのね
知人の天狗の使徒の占い師さんは、ずーっとこっちの道に入るの拒否ってたら、ある日、ふと気づいたら、机の上のスマホが浮いて立って言ってた笑 業が浅くて?か、前世で徳を積みすぎてて?か、何の抵抗もなく神仏を信仰できる人や、みもふたもないけど信仰しなくても周りに愛をふりまける人には必要ないのかもしれない
でも自分みたいなネジ曲がった人間にはそれくらいの体験をしないと分からない 後、「マーラー」や「餓鬼」と言うが、そいつらも仏性を本来的に携えていて、魔界も仏界も同じ真如であり、一相・平等で差別はない(天魔偈)
と言うか、天狗は天魔で、マーラーそのものですよ!笑(多分
自分はマーラ=天魔(天狗)のそのスパルタ教育を越えて僧侶になったマーラの弟子の餓鬼ですよ!
だから分かる人が言うには、僕には餓鬼がワラワラ寄ってきてるみたい マーラは仏教から遠ざけると言われているけど、僕の解釈だと、あいつらはスパルタ教育すぎて嫌になっちゃう人がいるのかも 釈迦の時代は彼らも凶悪だったのかもしれないが、今のマーラはまぁ、根底には愛があると言うか…… だからあなたは僕を惑わすと言いながら、全肯定してくれている レスしますね
>>163
読みます!道鏡と玄ムくらいは知ります!説法で使えそうだし、商い的な意味で(ゲス顔
>>164
はい、まさに、そうです……謹んでお受けします…… >>165
住職からは「お前は本山だとキチガイだよ」と言われています!
その住職も基地外扱いされていたそうです
僕もその住職は基地外だと思います! 最近知人の占い師さんと話したときも「天狗はきつい、特に赤天狗はきつい」と言ってたから意気投合した
彼ら、ようやく飛ぶことを覚えた小鳥を上空に連れて行って、ポイ投げるような事をしてくる
一般的なイメージからしても彼らは悪魔なんだろうけど、仏教は善悪不ニ、無一物と解釈するので、悪もまた我々を良い方向に導く糧となるし、実際にそう思う >>170
すごく詩的に騒ぎたててしまったが今日はそこそこ冷静だ
僕と貴僧は生き方も学びも違ったから使う言葉もすごく違っている
僕の言葉を一方的にたたきつけているのは、根本的にはあなたに甘えておるのだ
和やかに一笑を付していただければ幸甚だ >>171
知ることと信じることの間はマリアナより深く大洋より彼我がある、その通りだ
六文銭で渡れる河のなんと優良運賃なことか
私があなたを全肯定しているというのもその通りで、よくある「見立て」願望だな
マーラーやらヤクシニーやらの子眷属に我を見立てて、実際のところは犬のようにつきまとわずにいられなくなる
そういう弱さだ そこそこ格のあるお寺だと(檀家の手前、というのはあるだろうが)血縁親族は
社会的にそこそこマトモ、高学歴、一定の安定と地位あり、じゃないといけない雰囲気があって
私自身は外聞的にはマトモなんだが、その寺に私の位牌が入る予定の骨堂もあってね
哲学にもカソリックにもプロテスタントにも禅士にも影響を受けた私はひどく救いを求めつつ臆病かつ執着しているのだろう まあ羽虫を殺さぬ程度には仏弟子のつもりだ
弟子が先達に甘え怒られるのは当たり前だ
呆れずにたまに餓鬼もどきの話し相手をしてくれたまいよ
貴僧の話はなかなか染みて良い やぁ、久しぶりだねぇ。
山も急に冷えてきた?
防寒着はどんなんで過ごしてるの おーい磯野!
公案しようぜ!
片掌でしか拝めないものとはなにか? 余暇に立てたスレだろうに放置するとはあきれた大僧正だな
聖職以前に信用に値せん お疲れ様
放置してました
多分、先月の4日から取り憑かれてて、気づいてたのに供養忘れて、2週間ほど自律神経壊してた 4日、友人らと友人のマンションで飲んでて、翌朝帰る時に「ドスンッ」と衝撃が走り、その後、何でもないのに悲しくてずっと泣いてた
変だなぁと思って憑かれたのか?と一瞬思ったが、すべて忘れて、退廃的な生活に向かってしまって、供養しなかった その後、寺で他の人の先祖供養するのに参加したら、終わってから目の前が霧が晴れたみたいになってて、ようやく確信した
憑かれてるのって分かってても分からないんだよねぇ笑
2週間無駄にした >>183
自分はキリスト者の友人の縁もあり、この世界に入ったよ
スピリチュアリズム、神智学的な解釈になってしまうけど、同じものを見ての解釈の違いだと思ってる ある時、救われるために某霊山を歩いていて、阿弥陀如来の誓願がふと脳裏によぎり、
「阿弥陀如来が一切衆生を救うというあの誓願は、裏を返せば、今世で、ほとんどの人は救われない」
「自分も生きている間に救済される事はない」
と気づいてしまった
それから一月ほど退廃的な生活に入ってしまったのだが、しばらくして、救われたかった自分はいなくなっていた 風邪ひいてるときは健康になりたい、と思うが、風邪が治ると、風邪をひいていたことを忘れてしまう
救済されないと気づくことが、救済につながる 自分も出来るだけ命あるものを殺さない、と努めてる
最近、十善戒の不殺生について苦しんでいた
現代社会で生きているなら、命あるものを殺さねば生きていけない
生活のため(猟など)ならまだしも、わざわざ殺すことも無いと、肉を食べることを避けていた のだが、今月になって、どうしても動物を殺さねばらなくなった
ここで考えたのは、「薬も動物実験、人体実験を通してる」「農業でさえ生き物を殺さざるを得ない」と言うこと
むやみやたらに殺さぬと決めても、生きてるなら殺さざるを得ない
山の中で木の実くって生活してたとしても、程度問題に過ぎない まだ自分の中で整理がついてないので言語化も上手くできないのだが、ヴィシュヌとガルーダの神話の話を聞いて、なんとなく分かってしまった ヴィシュヌとガルーダの戦いの果に、ヴィシュヌは負けを認め、ガルーダを自らより上位としたと言う
そしてガルーダはヴィシュヌの乗り物となって、孔雀明王で描かれるような姿となった 乗り物となっているガルーダが眷属で、ヴィシュヌが主人という解釈は誤りです
我々が考えてしまうような人間を頂点としたヒエラルキーは、霊的な世界からすれば、誤りです 神仏の像で、他の神を踏みつけている仏像があるが、あれは上下関係を表したものではない >>185
メリノウールのインナー、フリース、ダウンか透水性高い合羽だよ >>186
えっ、片掌でしか拝めないもの??うーん
分別することだから、エゴや妄執なのかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています