「信じている」と言うのと、「知っている」と言うのは、決定的に違うよ
人は「信じている」程度では、超えられない壁がある
日が東から登り西に沈むくらいに、「知る」事で当たり前に確信していないと、意識が勝手に枠組みを作ってしまって、その中でしか思考が出来ない
だからお経の内容も、かなりそのまま書いてくれてるのに、そのまま読むことが出来ない

釈迦みたいにすべてを知れる神通力がなくても、一片だけでも垣間見えたら、それから思考法が変わるようになる

神秘体験している自分でも観音経ってメチャクチャな事が書かれてると思うけど、

「まぁ、ああいう事(天狗にからかわれたり)があったんだから、ここに書いてる事があってもおかしくないわな」

みたいに考えてしまう