保元の乱後、政治を動かしたのはあの怪僧信西だった。
信西は保元の乱で最も活躍した義朝様を取り立てず、事もあろうことが平氏の清盛を播磨守に任じて恩賞に差をつけおった。
源氏は保元の乱で為義様が斬られ、強弓で名を馳せた為朝様も流罪となるなど大きな代償を払ったにも関わらず、その痛みが報いられることはなかった。
焦る義朝様に近づいたのが、貴族・藤原信頼でござった。
信頼は藤原の名を持っているが、藤原忠実や忠道・頼長といった摂関家の嫡流からは遠く離れた人物で、しかも文武に秀でているわけでもなかった。
ただ、後白河上皇に気に入られ、その厚い信認のみで破格の出世を果たした人物でござる。
その信認は周りからはあさましき程の寵愛ありと言われるほどで秦を滅亡に追い込んだかの佞臣趙高もかくあらんやと皆ヒソヒソ陰で申しておりました。
そんな人物だからこそ、信西は高い位は相応しくないと上皇に申し上げた。
それを聞いて信頼は出世の邪魔をされたことを恨み、さらには信西さえいなければ自分の思うままに振る舞えると野心さえ抱くようになって、ついには信西を滅ぼそうと画策しはじめたのでござる。
そこで目を付けられたのが、武力がありながらも不遇であった義朝様でござった。
あやつが義朝様に悪魔のささやきをしおったのでござる!!平治元年、遂に義朝公 信西を倒すクーデターを決行す。