日本神話の謎を解け!
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最近は仕事が(というかもう2年くらい)かなり忙しく、歴史研究、神話研究に裂く時間が無くなってきた。ここで、アウトプットの意味もこめ、私の推測を書いていこうと思う。
今回は、出雲国の真実について、語ろうと思う。出雲国つまり、今の島根県だ。
最近、地震があったな、どうでもいいけど。 >>114
天皇陛下に対する解釈で抵抗感できた
惜しい
まあエロネタのバカ猿まみれの中でこういうスレは非常に良かったよ
ありがとう アメノウズメはインドの叙事詩リグ・ヴェーダのウシャスという女神に少し似ている。 >>129
秦王国ではなく、秦王の国、若しくは秦国から来た人が築いた国、って考えていくと徐福が濃厚なのかなあと… >>132
佐賀で阿房宮朝硯と書かれてた硯が発見されたんだよなぁ、清時代製の。(笑 >>133
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ノr┴-<」: :j| <ソースを書きなさい!
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) コツン
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仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
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,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ >>136
そうなのよwww
佐賀にある伝説いろいろツッコミところ多くてワロスw
ロマンはあるンゴw 渡来系の秦氏の支配地域があったのかもしれんね。
でも普通に考えたら隋の使者である裴世清が寄った太宰府が秦王国だろうけどね。 >>137
確かに確かにw佐賀に興味が湧いてきたw
>>138
すると「筑紫より東の地に在る秦王国」とは何処なんだろ…
まぁ、当時と現在とは国境も国の規模も違うからなあ… >>141
裴世清が合った多利思北孤は聖徳太子だわな。
秦王国の王は聖徳太子の側近だった秦河勝カモシカ 日本海航路ではどんくらい異民族入って来ていたんやろな。
平安時代にも粛慎・みしはせが入って来てたとか あの刀伊入寇の時、対馬の役人じゃった長嶺 諸近より悲しい男をわしゃーしらない。シクシクシクシク >>144
「踏んだり蹴ったり」「泣きっ面に蜂」… >>146
刀伊入寇のことか。
あれは道長公がこの世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることのなしと思へと歌われた藤原摂関時代全盛の翌年に女真族船約50隻(約3,000人)が突如九州北部を襲った出来事じゃ。 >>147
やっぱり実際に見てた人の言葉には重みがあるなぁ >>148
馬鹿者。わしを誰じゃと思うておる。
オリオンドラフトビールを飲んでる大蔵種材じゃぞ!! >>149
ちょw
ネットでうっかり本名晒したら消せませんよ!w
1000年後とかに笑われちゃいますよ!>< 可能な限りさかのぼって歴代天皇のY染色体DNAを調べないとですよー。 >>147
あと、長嶺 諸近 って人がどんな風になったのか、、
頭の皮剥がれたりしたんすか? >>152
そんなことより美智子皇后と紀子さまの遺伝子の方が大事じゃん?!?
悠仁親王はイケメンになりあそばれなさるだろうな。 >>153
すまない、そっちか!
ちょっと考えるから待ってて。 あやつは対馬の役人でのう。
面倒見がよくてみんなに慕われておった。
刀伊の賊が突如、対馬島に侵入した際に母、妻、妹、伯母、従者とともに捕まり、一時、筑前・肥前へ連れて行かれたのじゃ。
刀伊が再び対馬によったすきにひとり脱出しよった。
その後、しばらくは対馬にとどまっていたようじゃが、居てもたってもおられず賊によって連れさられた家族を探しに渡海の禁を破って高麗の金海府に渡ったのじゃ。
そこで、刀伊の賊の正体と賊に捕らわれた家族を必死に探し回った。
しかし母、妻、妹、の姿は無く、家族は刀伊によって無惨にも殺されてしまっておってのう、異国の地で底知れぬ絶望と悲しみを味わったのじゃ。
しかしそこには連れ去られた日本人が10人ぐらい運よく生き残ったのがおって、諸近は、奴隷同然の境遇じゃったそやつらを救いだし、日本に連れて帰ったのじゃ。
諸近は救助した日本人の中の、内蔵石女と多治比阿古見という2人の女を連れ、事件の詳細を大宰府に急ぎ伝えた。
ところが渡海の禁を破って密出国した諸近は、今度はこの国に罪人として禁固刑に処されてしまってのじゃ。
あやつはその時、天を睨んでおったわ。
それからしばらくして、わしが壱岐の国守として赴任した時、あやつは真冬の玄界灘を大陸に向かっては渡っていったはずじゃ。
なぜワシが知ってるかって??
ワシは壱岐の郷ノ浦であやつとすれ違ったのじゃ。
高麗人の風体で片目を麻布で覆っておった。
なぜ片目を失ったのかは知らぬが、覆ってないもう一つの目はあの時ワシが太宰府で見た長嶺諸近の目じゃった。
あやつを見たのはあれが最後じゃ。シクシク(泣き上戸 ぐぬぬ曲者か!!!!カンパネルラさんおやすみなさい( ˘ω˘ )スヤァ… >>162
そうか、そういっていただけれると諸近もさぞかし喜んでいることだろう(*´ω`*) 平安の頃のお話も聞かせて下さい
ちょっと歴史語り部シリーズでスレたてられそうだね >>166
マジで?ちょっとつぎのネタ探してくるわw では我が父の事を語ろう。
源頼朝の父源義朝は平清盛と戦って敗れ、源氏の勢力は破滅的な打撃を受た。
これを平治の乱という。
平治の乱からさかのぼること3載前、平治の乱の引き金にもなった、皇室貴族に武士を巻き込む内輪もめの争いがあり、これが保元の乱だ。
まあ賢明な諸兄に説明など不要か…。
このとき崇徳院から弟のようにかわいがられていた我が父為朝は実父である源為義とともに兄義朝と対決し、不運にも敗れ伊豆大島に島流しとなった。
伊豆大島に来た父は、朝廷より大島を賜ったと称して、利島、式根島、神津島などを荒らし回ったらしい。笑
これに脅威を感じた伊豆の領主工藤茂光は、朝廷軍を率いて大島を攻撃しおった。
それで朝廷に歯向かうのは畏れ多いとして自害し、首は都へ送られさらし首になったと言われておるがなんのなんの片腹痛い。
じつは我が父為朝は夜に紛れて八丈小島に逃れ、そこから琉球へ渡ったのだ!
黒潮の反流である小笠原海流に乗ってなwww
この海流は黒潮とは逆に沖縄に向かっておるのだ。
だが父を乗せた船は間も無く暴風雨に会い、なんとか流れ着いたのが琉球の今帰仁の港だった。
運を天にまかせてたどり着いたので運天港と名ずけたらしい。マジ適当w
そこで父は琉球南部の領主、大里按司の妹を妻とした。
これが我が母だ。
そして私が生まれたのだ。
私は物心ついた時には左腕が四寸も長かった。そう父と同じだ。
おかげで器量骨格ともに並外れた偉丈夫に育ち、15の頃には人々に望まれて浦添按司となった。
まあ、父は16の時、九州を制覇したらしいけどwww
それで22歳のとき、天孫氏の家臣 利勇が主君である天孫氏を滅ぼし、自ら王位についた。
私は義によって兵を起こし首里城を攻め、利勇を滅ぼした。
その後、各地の按司たちは私を王位にと望んだ。
我はこれを辞退したが3度推されたので仕方なく王位に就き、今は舜天と号しておる。お恥ずかしいかぎりじゃwwwガハハ
ふむ、その後の父の話をしよう。
私が無事生まれたらすぐ大和へ帰った。
崇徳院との約束を守る為にな。
最後は讃岐国の白峰の崇徳院の御廟の柱に持たれて自刃したと大和からきた商人に聞いた。
ついに宿念を果たせたのだろう。南無八幡大菩薩…おっと、これはまずいところをお見せした。ノロに見られたらめっちゃまずいことになる。汗
そうだ父が好きだった歌を教えて進ぜよう。
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
(傾斜のために速くなり、岩に当たって二手に分かれている川の流れが、やがてひとつに合流するように、今別れ別れになっているあなたとも、またいつか逢いたいと思っています)
崇徳院の和歌だ、あとはわかるな。あーっ
さて、そろそろ出迎えるか。平氏を倒し武家の棟梁となった頼朝からの使者が来ておる。私が持っている源氏重代の鎧 薄金を着て出たら奴らびっくりするだろうにのwww
頼朝はなかなか切れ者らしいのう。ふふん、同じ清和源氏と言えども我が琉球には指一本たりとも触れさせぬわwwwノシ 鎮西八郎為朝殿は、保元の乱の敗戦後、武勇をおしまれ死罪を免じられ流罪となる際にも、その弓の腕前をおそれる義朝らによって、手くびの腱を切られたともきく。しかし、その腕でも伊豆を荒しまわるんだから凄いわね。
大したもんだ。 >>170
ですです! その強弓で馬ごと鎧武者を打ち抜き、わずか28騎の手勢で清盛率いる600余騎、義朝率いる250余騎を退けるというね。かの張飛もかくあらんや(≧▽≦) 貴殿もおられたのか。
それがしが筑紫の御曹司に二町ほど追いかけられた所を見られたか。いと恥ずかし(´・ω・`) だいたい殿のせいなのじゃ(´・ω・`)
白川北殿の西門を守っておられる八郎殿に向かって我ら殿、義朝様が「勅命じゃぞ!
速やかにここから立ち去れい!」
と威勢のいいことをおっしゃる。
すると八郎殿が
「こちとら院宣だはwww」と見事に返された。
するとまた殿が
「兄に弓を引くとはなにごとじゃ!」としょうも無いことを言われる。
すると八郎殿が
「それでは父上に弓を引く兄上はどうなのです?」
とこれまた見事にお返しおった。
いやはや我ら軍の士気は下がりまくりじゃ(´・ω・`) そうそうあの時から社長派vs会長派みたいな構図はあったよね
しもじもからしたらどっちについたものやら そうなのじゃ。
とくに我が源氏の犠牲は大きかった。
この時の禍根が平治の乱につながっていく。
我が子房来たか!!
カンパネルラさんおやすー 風雲急を告げる京の都
源義朝 鎌田政清主従の運命はこれいかに
次週乞うご期待!!!!! さあ飲むか。古代はマロンがいっぱい。
ちゃんぷる〜さん付き合ってwww イインダヨ !グリーンダヨ!!
クゥーッ!!”(*>∀<)o (酒)" 保元の乱後、政治を動かしたのはあの怪僧信西だった。
信西は保元の乱で最も活躍した義朝様を取り立てず、事もあろうことが平氏の清盛を播磨守に任じて恩賞に差をつけおった。
源氏は保元の乱で為義様が斬られ、強弓で名を馳せた為朝様も流罪となるなど大きな代償を払ったにも関わらず、その痛みが報いられることはなかった。
焦る義朝様に近づいたのが、貴族・藤原信頼でござった。
信頼は藤原の名を持っているが、藤原忠実や忠道・頼長といった摂関家の嫡流からは遠く離れた人物で、しかも文武に秀でているわけでもなかった。
ただ、後白河上皇に気に入られ、その厚い信認のみで破格の出世を果たした人物でござる。
その信認は周りからはあさましき程の寵愛ありと言われるほどで秦を滅亡に追い込んだかの佞臣趙高もかくあらんやと皆ヒソヒソ陰で申しておりました。
そんな人物だからこそ、信西は高い位は相応しくないと上皇に申し上げた。
それを聞いて信頼は出世の邪魔をされたことを恨み、さらには信西さえいなければ自分の思うままに振る舞えると野心さえ抱くようになって、ついには信西を滅ぼそうと画策しはじめたのでござる。
そこで目を付けられたのが、武力がありながらも不遇であった義朝様でござった。
あやつが義朝様に悪魔のささやきをしおったのでござる!!平治元年、遂に義朝公 信西を倒すクーデターを決行す。 >>179
飲む語り部w
語り部シリーズ続いてたのね
開いてなかったすまんすまん >>182
おおっ、来てくれてたのか!
忙しいのに呼んで申し訳ない(><) >>181
これはしたり
義朝め、三十過ぎまで受領でさえなかった田舎侍風情が
従四位下 左馬頭任官を恨んでいただと?
我が殿、清盛公は齢十七にて昇殿を許された歴とした公卿
並べて語るのもおこがましい。犬と人を比ぶるが如き愚かな物言いじゃ
義朝の末路なぞ、野良犬が出過ぎた野心を持った末の当然の報いよ >>184
ぐぬぬ!
わしを六孫王から六代の末裔、武神八幡太郎義家の孫、源義朝と知っての狼藉か!
名を名乗りやがれヽ(*´∀`)ノ >>187
まじ最高w
ピタパンに一緒に挟むとなおうまし! 八幡神って不思議な存在ですよね
かなり早い時期から神仏習合してて 宇佐八幡だから応神天皇と神功皇后だっけな。奈良時代までは影響力すごいよね。道鏡の宇佐八幡信託事件とか >>188
かーっかっかっかっw
その六孫王とやらは将門公の武威を恐れ都に逃げ戻った腰抜けではないか
我は『源平討魔伝』でお馴染み、平氏家中一の荒武者、悪七兵衛景清なり
戯れは(´・ω・`)終わりじゃ 当時はどっぷり政治に入り込んでましたよね
和気清麻呂さんが別部穢麻呂って改名させられた時は称徳天皇も大人げないなって思ったものです >>192
なんだ、手強いと思ったら次長景清さんかよ。
それがしはかーくんにお世話になってるコアラでござる。
お手柔らかにお頼み申す。(*- -)(*_ _)ペコリ >>194
?(´・ω・`)「つぐなが」など知らぬわ
次々と面妖な名ばかり出しよって…主は義朝を騙る南蛮人か? >>193
最終的に清麻呂様は復権出来てよかったのう
己の信念を曲げず、王家の血統を守った立派なもののふよのう ところでここは、神話に限らず日本史を語る“すれっど”になったという理解でよろしいのかのう? >>193
しかし結局宇佐八幡は藤原氏側だった。
宇佐八幡と藤原氏のつながりはとても強かったように思える。八幡宮はもともと秦氏つながりで藤原氏の氏神のような気がする。 >>195
それがしは荒ぶる有袋類でござる(o^^o)b >>197
ですです。
スレ主さんおらんみたいですしおすし >>199
実は…
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ノ彡ノ / \( ;:;:;)ミミ、 わし名も無き落ち武者の亡霊ですじゃ
川|| ( ;:;:;:;:;ノ (●) ||川 一戦も交えず逃げたところ、川で転んで溺れ死にましてのう…
川||:;;;:; (__人__) ||川 あ、矢はアクセントですじゃ
川||\ /||川 /L_
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ノ彡ノ / \( ;:;:;)ミミ、 一度は勇名を名乗ってみたいと思い
川|| ( ;:;:;:;:;ノ (●) ||川 ゲーセンでファンになった平景清公の名を騙り申した…すまぬ
川||:;;;:; (__人__) ||川 それにして羽柴の猿め、己のみ先に陣払いし命を拾うどころか
川||\ /||川 天下まで拾いおって… >>201
アクセントわらったw
姉川で逃げ遅れた家康公ってマジ? >>198
おっとワクワク(^_^)
日ユ同祖論復活の兆しw >>203
それがしが溺れ死んだのは加賀の手取川でござる
本隊撤収後に後片付けをしていたところ、越後の上杉勢に襲われ慌てて逃げたのでござる
姉川の戦いでは徳川勢が大活躍したと伝わりますが、あれは100年以上経ってから創られた話
奮戦したのはまことですが、通説の「5000の兵で10000の朝倉勢を追い散らした」ではなく
川を挟んで小競り合いをするうち、朝倉勢が兵を引き上げたのでござる >>204
徐福佐賀説またやる?
ちゃんぷる〜さんおつおつ(o^^o)ノ 徐福殿が主人公の漫画がグランドジャンプに連載されてますな
今は、始皇帝と卑弥呼と共に世界を巡る旅をしてて、まもなく聖徳太子が合流する様子 >>205
手取川の戦いでござるな。
なるほど、それは難儀でござった。
なーる。そうだったのねorz >>206さんの流れでオケ!
宇佐八幡って考えてたら何となく日ユ同祖論まで妄想したw >>207
なにそれすげえwww
どんなストーリーか木になるw >>208
徳川すげぇ!
を演出するための歴史小改竄が江戸時代にはちょこちょこ行われておりましたからなあ
桶狭間の後に「捨てられた岡崎城を拾った」というのもチョイ嘘
まことは、城将の山田景隆を暗殺し城を乗っ取ったのでござる >>210
この木なんの木きになる木(´・ω・`)日立グループ
徐福が日本に来て卑弥呼の祖先とセクロスして胎ました後行方不明
いつの間にか不老不死になってて、なぜか卑弥呼ともセクロスする話、でござる
拙者も話してて何を言ってるか分からないでござる >>212
徳川ひでえ!
暗殺者が半蔵なら、なお良し! >>214
クッソワロタWWWWW
時空を超えたエロ漫画だなこれは!
オイラも何言ってるかさっぱり >>211
生まれは尾張国下社村にて、柴田修理亮様に仕える足軽にござった
織田軍の槍は他国に比して長いので持つのがしんどかったでござるよ >>215
山田は駿府に戻ったとされているが確たる証拠もなく
実際は騙し討ちにされたのでござる
徳川の権力は、独立開始時から正当性を持つものではなく
権力基盤も揺らぎ続けた。三河一向一揆、嫡男信康粛清、石川数正出奔…
それゆえ、代々、権力の正当性を脚色することに執心し続けたのじゃ >>216 >>218
それが本宮ひろし御大の筆で描かれると何故か説得力を持つのですよ
さすが、手塚治虫と喧嘩した大先生です 本宮ひろしかぁ❗サラリーマンキンタロくらいしか知らなんだ…
長生きだなぁ >>217
こ、この長槍で槍衾しておったのじゃな、こっわ(´Д`)
そういや、真田太平記で真田も使っておった記憶が。
当時の流行りだったのね。 >>221
本宮御大は結構歴史モノを描かれてますよ
有名どころだと「天地を喰らう」(三国志)や「赤龍王」(項羽と劉邦)
日本史だと「夢幻の如く」とか…(日本史って言っていいのかな???)
【「夢幻の如く」あらすじ】
1582年(天正10年)、本能寺の変で自害したはずの織田信長は
「天からの一筋の光」に導かれて家臣の森蘭丸とともに命を救われる
信長は「これは神が『まだ死んではならぬ。お前には天から課された使命がある』として我を救ったのだ」
と悟った
信長は「天地夢ノ助」と偽名を使い、家臣の羽柴秀吉の天下取りに協力し史実通りにことを運ぶ
やがて自らの正体を明かした夢ノ助こと信長は、実際の歴史では果たすことが出来なかった天下統一を成し遂げ
その野望は海を越え中国、モンゴル、そしてヨーロッパをも手に入れるという「世界統一」を目指す >>222
一般的に、弱い兵は長槍を使い、勇敢な兵ほど短い槍を使った、といいますな
確か、上杉軍の長槍は織田軍より短かったかと
山の中、未整備な土地での長距離遠征が多かったから
移動で疲れないように出来るだけ装備を軽くしていたのかもしれませぬ >>219
周りは大大名ばかりでよくぞここから天下を取るったでござるな。 >>223
いろいろ面白すぎィィ!
>>224
長槍や鉄砲。織田の兵站を指揮してた奴はさぞかし有能な奴じゃろうて。 >>225
徳川家康という人物が傑物だったのは間違いの無い事実でござる
本能寺までは織田家の資本力を最大限に活用し
本能寺以降は武田の力を受け継ぎ、豊臣政権以降は政権内の
不満分子を束ね、ついに天下を獲る
その力は、「自勢力以外の力を活用する」ことで強化されていったのでござる
現代に例えて言えばあの手この手でM&Aを繰り返しベンチャーから短期間で大企業になった
という感じでござるかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています