自分がこれまで体験した神様関連の話 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>14
それならおーぷん行けよ
書くとこ間違えてるぞ その夢というのが、居酒屋に俺が放り込まれている夢。
ただの居酒屋ではない。注文を受けてつまみを作っているのは鬼だ。
体が大きくて、とにかくカウンターの中に「みっちり」と体をつめこみ、あくせく働いている。
しばらく呆然とそのさまを見ていたが、皿洗いを手伝うことにした。
なんとなく、人間がカウンターから見える位置にいてはいけないような感じもあった。
お客さんのほうも人間ではない。菅笠を被っていたり、細長かったり、タヌキのような印象だったり…
ただ、「鬼の居酒屋だ!」と気が付いてから、取って食われるの怖さに、
お客さんにしろ鬼にしろ直視できなかったので、詳細はわからない。
とにかく台所に入り込んで、次々に重ねられる皿を洗いに洗った。 3,4時間は手伝っていただろうか。とにかく引きも切らずにお客さんが来て、
終始ざわざわしていたのがだんだん静かになり、洗い場に食器が来なくなった。
そこで「もういいって。はいこれ」と、浴衣というか、簡単な着物のような服の少年が
簡素な封筒を俺に手渡してくれた。ちらっと中を見ると、5000円札(?)と
封筒の奥に硬貨らしき硬くて重いものが数枚入れられていた。
どうやら働いた分のお礼らしかった。
えっ!鬼からのお金って、何に使おう…と一瞬考えたが、すぐにその少年が
「それをもってこっちに来て」と言って居酒屋の外、真っ暗な夜道を歩きだしてしまった。
思えば、最初に居酒屋に放り込まれたときも、この子が鬼に口を利いてくれたような気がする。
見失わないように追いかけていくと、やがて木製の門の前についた。
それはそれは大きな門と塀で、軒と塀のはしっこが闇に溶けて見えない。
ただ門の両側に松明があって、ぴりっとした木製の一枚板の観音扉と黒い金属の取っ手が見える。
少年がその門の前に俺を立たせると、内側から細く向かって左側の扉が開いて、
狐のお面を被った少年が出てきた。身長だけ見ると小学生くらいか。
その狐のお面の人物は、俺を見て
「ああ、これは大変だったねえ」
といった。俺はなんだかものすごくほっとした。
その狐のお面の人が手を出すので、先ほどの封筒を渡すと、
「じゃ、払ってあげるから」と言ってまた門の中に入ってしまった。
そこで目が覚めた。
なんというか、細部があって不思議な夢だった。 とはいうものの、翌日からがらっと世界が変わる、ということはなかった。
やはりオバチャンたちからは絶妙ないやがらせを受けつづけ、精神はすり減った。
くだらない、低レベルだと頭ではわかっていても、やはりやられるたびに疲れる。摩耗する。
誰かがお土産に置いて行ったおかしを俺にだけ配らないとかね。
俺が予約しておいた社用車の予約を消すとかね。
しかし、「夢のお祓い」が効いたのか、とても中途半端な時期に人事異動があったり、
オバチャンズのうちの一人の夫が転勤になっただかで急に退職になったり、
病気になって退職したりというのがあいつぎ、なんと1年で俺に嫌がらせをしていた人は
全員がいなくなってしまった。びっくりした。 偶然と言ってしまえばそうなのだが、あまりにできすぎていて何らかの加護を感じざるを得なかった。
それからは仕事も順調で、まあまあ、という感じの日々が続いた。
でも、一度「うつ癖」がついてしまった身としては、ちょっとでも落ち込むようなことがあると
這い上がれないことが多かった。会社では「元気なふり」で乗り切るものの、家に帰ってからの
希死念慮、無力感、そしてそれらの切り替えができず不眠、早朝覚醒。
せっかくあんないい夢を見たのに…と思っていたある日、四国八十八か所めぐり、
いわゆる「お遍路旅」のことをニュースか何かで目にした。
なんだか知らないけど、猛烈に行きたくなった。このころ、「独り」という意識があって、
独りで旅路に向き合う、共に歩くのは弘法大師の思いだけという「同行二人」という考え方に
ものすごく引き付けられたのだ。
なんというか、このうつ気味な傾向を打ち払うには、このくらいして「人生における達成感」を
実感しないとダメなんじゃないか?とも思った。 いろいろ「お遍路さん」について調べる日々が始まった。
何か嫌なことがあっても、「でも、給料が入ったら今度は軽量のザックを買おう」とか
「杖は持ちたいけど、こだわりたい。いっそ自作か?」など考えだすと
比較的楽に切り替えられるようになった。行ってないのにご利益があった…
ただ、やはり取れる休みは最長で1週間。しかもお盆時期か正月に限られ、
お遍路をする時期としては厳しい。しかも、時間的には1国回りも難しいだろう。
それでも、なおその年に二回の長期休暇のうちに、1国回り、または数か所を回って次回に持ち越し
などの手でなんとか歩ききる計画を練った。
しかし、本懐としてはやはり、一度に二ヶ月くらいをかけて歩いて回りたい。
定年後か、本気で退職した後しか本当に心置きなくお遍路さんをする機会はなさそうだ。
ならば、ウォーキングだけでもして、体力をつけておくのが得策ではないか。と思った。 せっかく神様がかりのウォーキングなんだから、お百度参りを兼ねたらいいのではないか。
そう思って家の近辺を調べてみると、ちょうどぴったり1キロ地点に小さな神社を見つけた。
人通りも少なそうだし、勾配もうまいぐあいにあり、ちょうどよさそうだ。
往復で2キロ、30分弱のウォーキングが始まった。
とはいうものの、このお社が誰をお祭りしているのか、とんとわからない。
神社には確かに扁額があり、「●●神社」とあるし、この辺の地名にも含まれる名前なので
氏神様なんだなとは思うが、どこの神様がどうしてここに、という由来がわからない。
実はこの神社の名前、地元のほうで同名の大きな神社があり、そちらの分社なのかと思うが、
神主のような人を見かけたこともないし、「例大祭」という旗が立っていても
何日にやるのか、何をやるのか不明で、いつの間にか終わっているらしくふと気づくと
旗が取り去られているといった具合。
不思議だなあ、と思いつつ、まず行ける時だけ通った。最初のころはそれこそ
雨が降ったらお休みで、といった感じで、2,3日行ったら2,3日休む。とても「お百度」とは言えたものではなかった。
しかも、お願い事も特になかった。体力づくりが目的なので、とにかく「今日も来ましたコンニチハ」くらいの気持ち。
でも、やはり朝、参詣に行くと、前日どんな嫌なことが起こっていても、
すっきりした頭で出社できることに気が付いた。どうも、往復2キロの間に
悩みやうつうつとした気分が削げていくようなのだ。
そこで、雨であっても土砂降りでもない限り、通うことにした。週2,3回が週4,5回になった。
そうしているうちに、「?????」と思うことが起こり始めた。 どうも、「今日も来ましたコンニチハ」と目をつぶり社殿に手を合わせているとき、
白い男性のイメージが頭に映る。
歌舞伎の獅子頭をイメージしてみてほしい。あんな感じで、服も白い着物、袴、
ふさふさの白髪。そして、不思議な化粧。
この化粧が、一口には言い難い。
毎日この化粧は違うのだが、見たこともない化粧なのだ。
直線で成り立っている化粧とでもいうのか、ある時は黒と緑、
ある時は黒のみ。黄色が入っていたり、赤が入っていたり。
指名手配の写真などで、目線を黒で入れられているものがあったものだが、
あれがそのまま皮膚に書いてあるようなイメージしてもらうと近いと思う。
あの黒の目線のような直線状の塗りつぶしが、Tの形で入ったり、
〒のような感じで入ったり、日によって違うのだ。
しかも、イメージしようと思ってイメージしているのではなく、
目をつぶって手を合わせると、とたんにその人の姿が頭に浮かんできてしまう。
うーむ、このお社の神様なんだろうか。それとも、妖怪とかよくないものの類なんだろうか。
お社にはもともと荒神様を祀っているから、軽い気持ちで拝んではいけないものもあると聞く。
もしかしてこのお社もそのたぐいだったんだろうか…と思った。 でも、なんとなくその「人外のナントカ様」のこともあまりに毎回なので親しみを覚えるようになった。
いつもそんな風に、目の周りに黒が入っているので、あまり表情がわからないし、
壁に張り付いているような変な格好をしていたり、空からぶら下がっているような感じに見えたりと、
こちらのイメージ力を超えた感じで出てくるので、「これは、俺の頭の中で考え出したものではないのだな」ということが
だんだん確定的になっていった。
やがて、ちゃんと地に足をつけて、普通の立ち姿でその「ナントカ様」が現れるようになった。
そして、化粧が薄く、というか、表情がわかるような化粧になってきた。
目の周りの黒い線が消え、額やほおだけ、目の淵だけ…というようなものになり、
こちらを脅かすような表情をしていないことがわかってきた。やはりどうも、このお社で祀られている神様のようだった。
それから、この神様のことを心の中で「●●様」と呼ぶようになった。
そんなある日、スマホをなくした。
おそらく会社の周辺だとは思うが、たまたまあちこち移動したこともあり、
まったく行方に心当たりがない。しかも、そんなにスマホ中毒というわけでもなかったので、
気づくのが遅かった。なくしてから1日、下手すると2日経っているかもしれない。
自分のスマホに電話をかけてみても、誰も出ない。GPSも使えず、手がかりもないまま、1日経過した。
俺は朝のご挨拶で、「スマホをなくしてしまいました。見つかりますように…」とお祈りしてみた。
すると、帰りに頭の中に声がした。
「見つかるぞ」
まさか、と思った。何しろなくしてから下手すると2,3日経っている。
そのうち、何度も電話をこちらからかけているので、親切な人が拾ったのなら
出てくれるか、警察に届けるかしてくれているだろう。
遠隔で機能を止めてはいるが、本体もまだ新しい。このまま出てこないのでは…
だが、その日の昼休みに、ダメ元でまたかけてみると、数回のコールで誰かが電話に出た。
あまりに驚いてなかなか言葉が出なかったのだが、とにかくそのスマホの持ち主だと
とっかかりつっかかり相手に伝えたところ、隣町の警察署だった。
学生とみられる人物が、警察署に届けてくれたものらしい。
まさに朝の不思議な声の通り、「見つかった」わけだ。 糖質かあ。まあ、科学的に考えるとそうだよね。
それからも、何度かこの「声」は聞こえて、
そのたびにその通りになったりはしている。
今のところ、生活について指図されたりすることはない。
たとえこの神様が、うつ状態から統合失調を併発(またはその逆)した俺の
脳みその産物だったんだとしても、一時期よりかなり精神的にも安定したし、
アンラッキーが起こる頻度がかなり下がって、ちょっとしたラッキーが続くようになったような気がするので、
それならそれでいいんじゃないかなあ、と思っている。 なんだろう、なんかもっといろいろと交流があった気がするのだが、
頭の中が真っ白で、具体的なエピソードが思い出せない状態に…
書いてほしくないのかもしれないので、もうやめとこうと思う。
ちなみにどうも、この神様はお天気の神様だったようです。 ちなみにちなみに、いろいろあって、嫁さんをもらって子供もいる。
これもいろいろあって、この●●様のおかげと思っている。
少なくとも子供は、●●様が妻のおなかに連れてきたと思う。 大阪にさ、相川っていう駅があるんだけどその近くにさ、小汚ない喫茶店があるのよ。外回り中に喉も渇いたしトイレにも行きたくなったから入ってみたら店ん中も薄暗くてなんか気味悪いんだよな。
まあいいやってアイスコーヒー注文してトイレ入ったら個室の壁が全面鏡張りなのよ。
なんだこれって思いながらも便器に座って気張りながらふと前の壁の鏡見たのよ。
したらそこには当然ズボン下ろして便器に座ってる俺が映ってるんだけど、
これほどマヌケな姿はないな。
以上。 そうだ、それで何が言いたくてこのスレを立てたのかというと、
神様って、確かに「いる」し、「願いを叶えてくれる」けど、
人間臭いところと人間離れしているところがあって、
「このお願いを叶えてくださーーーい!!このお供え物をするから、絶対かなえて!」
みたいな感じで押し付けられると助けてくれなくて、
なんとなく毎日顔を合わせて、親しく(?)なってく中で
「困ったなあ」ということが起こると、「それならちょっと助けてあげる」
みたいな感じで護ってくれる存在なんだなあ、と思ったんです。
人間も、「宿題やりなさいよ!」「今やるとこだったのにやる気なくなった」みたいな感じで、
押し付けられるとやる気があってもやらなくなるでしょ。でも、目の前に困ってる人が
ふっと現れると手を貸したくなるよね。普段挨拶とかしてる顔見知りならなおさら。
神様も一緒で、こっちがもがいて、がんばって、自分でなんとかしようとしてる人が
たまたま神様の手が貸せるような位置にいると助けてくれるけど、
神様に丸投げしたり、運だけを欲しがったりするような人にはやる気なくすんだと思った。
なんていうか、神様って何かをお願いするためにある、人間を助けるためにある存在なのではなくて、
神様は神様で本来の仕事があって(●●様なら天気のこと)、仕事をしている中での近所づきあいの一環として
人間と挨拶しあったり、おすそ分けや親切をしたりされたりしているものなのかなと思う。
神様には神様の生活があるんだよね。 宗教とか全然興味ないし信仰もないから思うけど
自分がこうなりたいとか祈ったりお参りして信心することで
自己暗示かけて欲望を抑制したり努力をする行動を起こすから
結果的にいろいろかなったりするんじゃね
人の思いこみに突っ込むつもりないし幸せなら結構なことだ >>32
わかる
俺もトピ主と似たような境遇で神様見たことあるわ
結局俺の場合特に御利益とかなかったけどw
でも1が言ってるような神様の気持ちみたいなの考えるようになったよ 目を閉じてる時に見えるのは糖質の幻覚とは関係ないだろねぇ。
いい話だなぁ。 >>5
興味深いね、神宮寺か鎮守社なのかな?
八幡神社も神道と仏教の要素があって興味が尽きない >>35
わかってくれる人がいるとうれしい
こんな話は嫁にも親友にも話せないしねえ
お百度参りは、出張の日の朝に行って出張先で一泊して、夜に家に戻る途中で
お参りするみたいな形でなんとか続けて、本当に100日連続でのお参りを達成しました。
そして、その後異動やらなんやらでこの神社の遠くに越してしまったので、
生まれた子供も●●様に見せたいと思いつつ見せられずにいる。
でも、毎日●●様のところに気持ちだけでもお参りして、毎日ありがとうございますと
思うことにしています。
なんだろう、神様がいるんだ、と思って生活していると、小さな幸せや
ちょっとしたラッキーに気が付きやすくなるような気がする。
そこで、ああ、神様のおかげでうまくいったなあ、ありがたいなあ、と思うと
すごく目の前にある幸せだったりとか、幸運なこととかが稀有で大切なことなんだと実感できるというか。
例えば、神様が本当にはいなかったとしても、一つの考え方として有効だと思う。 あと、こうして●●神社に通ってみて、「氏神様」「土地神様」という神様たちが
たぶん本当にその土地の守備とか、警備とかしてるんだなあ、と思ったので、
旅行とか出張に行くと、行った先の宿の近くの神社に挨拶に行けるときは行くようになった。
早朝とか。
そうすると珍しい動物に会えたりとか、ちょっといいことがあります。 神社仏閣だけでなく、滝などにも祈る俺
水のあるところって神様がいる
絶対にいる 獅子の頭でたむけん想像してから話が入ってこなくなった ええ…続き待ってる人がいたの…
といっても、寺生まれのTさんみたいな派手なイベントはないよ…
ちょっと変わった経験をしたと思ったから書いてみただけで、書いてみて「あれ…さほどでもないな…」って自分で思ったくらいだもん
逆にどんな続きを待っているのか聞いてみたい
まあ、嫁と結婚することになった顛末は神がかりを感じざるを得ない感じだったけど。
でも、それでも夢枕に神様が立ってなんかの啓示をしたとかではぜんぜんないし。
なんか、思うんだけど、神様たちと人間とは存在してるフェイズが違うんじゃないかと思う
幽霊とか見える人とか、ほんとの神がかりの人っていうのは、そういうのを飛び越える能力なり技なりが身についてる人なんじゃないかなあと。
いるんだけど、直接手を出すんじゃなくて、別なフェイズで神様がしたことが、ピタゴラスイッチみたいにいろんな事象を通して人間界に届くというか、
そういうのは感じる。だからものすごいタイムラグがあったり、人間が思ったのとは違う感じで決着したりするんじゃないかなあ。 そういえば、この書き込みをしたすぐ後、この神社の近くを通る機会があったのでどうしても寄りたくなって寄りました。
雨が朝から降っている日で、到着してすぐも少しパラついていたので、傘か帽子を持ってくればよかったかなあと
思いつつ車から出たらすぐに雨がぴたりと止み、落ち着いてお参りできました。
久々に神様のお顔を拝見したのだけど、なんというか、小さなお社からみっちりと身を乗り出すみたいな感じで
おお、こんな感じだった…と思い出した。機嫌がよさそうでいらっしゃいました。
冬至、夏至、春分、秋分の日のあたりは衣装が改まったり、ご機嫌だったり厳粛だったり
いつもと様子が違うのでこちらもなんだかうれしい。
特に春分・秋分の時はニコニコしておられる感じがする。
帰りがけに、「帰りは降るからな」と頭に聞こえたのだが
本当に用事を終えて帰ろうとしたら土砂降りになっていて、おお…とまた感動した。 思えば今日は秋分の日だったので、●●様の様子とかを思い出して書いてみる
●●様はたいていいつもは白い着物を着ている。白い着物と言っても、経帷子のようなのではなくて、
やはり歌舞伎の獅子が着ているような、ものすごい大ぶりの裃。
でも、ある冬の夜にお参りをした目をつぶって手を合わせた時のイメージはすごかったのだ。
現実の神社は蛍光灯の街頭1本、神社の入り口に蛍光灯1本という明かりなんだけど、
目をつぶるとかがり火が神社の鳥居の両脇に燃えていて、
そのかがり火の間に、紺地に金色の七宝模様の大ぶりの裃を着た●●様が
今にもお神楽か何かを踊りそうな雰囲気で立っているのだ。
いつもと違う!とびっくりして、今日は何か特別な日なんだろうかと思っていると、
冬至の日だったことにはたと気づいた。
どうやら●●様にとっては、とても大切な日らしい。
それ以後、春分・秋分・夏至・冬至あたりには少し●●様の様子が違っていることに気づくようになった。
それまでは、「なんとなく今日雰囲気が違うな〜」くらいだったのだった。 ありがとう!
派手じゃないからリアルで興味深い。
またなにかあったら聞かせてね。 とりあえず神社系(?)のことは書いてしまったので、思うところを書いていく。
近所の交差点に、花が供えられているところがある。
ちょっと気にしてみると結構そういうところは多いんじゃないかと思う。
一度目につくと、毎回見つけてしまうようになる。
先日、たまたま新しい花を供えている人を車の中から見つけて、せつない気持ちになった。
60〜70歳くらいの男の人だった。亡くなったのはお孫さんなのか、お子さんなのか。
ただ、個人的にはご家族が事故で亡くなったとしても、事故現場にはお供え物をしないほうがよいのではないかと思う。
というのも、どうにもその場所に亡くなった人がとらわれてしまうような気がするからだ。 以前、やはりそういうお花が供えられているところを毎日通らないといけないことがあった。
気づいて、あ、と思ったら、背中が冷たくなった。窓も開けているし、気のせいかと思ったが、
それ以来車に乗っているとひやりとすることが多くなった気がする。
停止線で止まっているのに、右折してきた車が異様に内側に寄ってきて
正面衝突しそうになったり、順調に進んでいたのに前の車が突然急ブレーキで止まったり。
あるいは、普段は間違えるはずのない道を間違って変に焦ったり。
そんなことばかりあると、ふとあの花が供えてある道路のことが頭をよぎる。
車の中から一度気づくと、毎日どうしてもそこに目が行ってしまう。
それどころか、似たような街並みに入っただけで、どうにも供えられた花がチラつく。
完全にある意味「とりつかれて」いた。
いやいや、子供も小さいし嫁さんもいる。死ぬわけにはいかない。
そこで、完全に「知らないふり」を決め込むことにした。
供えられた花が目に入ろうが、すぐ横の店に入ろうが、そんなものは「ない。」
どうしても目に移ったとしても、なんの感情も寄せない。
意識的に意識の壁を作って、目に移っても脳みその中に入れない。
そうしているうちに、だんだんと普通に運転もできるようになった。
霊的な何かが関与したのか?俺の思い込みなのか?どちらともつかないが、
何はともあれ、おかしな気配を感じることがなくなったわけだ。
思い込みとするなら、次の意識が働いたということになる。
供物を路上で見つける→「ここで誰か亡くなったのだ」と認識する→
死を意識する→自分も死ぬのではないかという意識が芽生える→
集中力がなくなり、ヒヤリハットが増える
また、もし霊的な何かだったとするなら、
供物がある→「ここが自分の居場所だ」と霊が認識する→離れられなくなる→
供物≒自分の居場所に目を止めた人にすがりつく→事故が起こる
という仕組みになってしまうのではないか。 いずれにせよ、不幸だ。
特に後者だった場合は、良かれと思って置かれた供物が、かえって亡くなった人の供養を
妨げることとなりはしないか。
特に事故で亡くなった人なんて、突然のことだろうから動転してわけがわからないだろう。
どうかご家族や縁者の方には、亡くなった人を自宅に連れて行ってあげて、
安心して成仏できるように、安らかに眠れるところに居場所を作ってあげてほしいと思った。
もちろん、突然に愛する家族を失った方が、心から亡くなった人を惜しんでお供えしているっていうのは
わかるのですけど。 供えてるのは家族なのかな
遺族が事故現場に行ける状態になるには
少し時間が必要だし
故人は迷ってしまうものなのかもしれないねぇ… 家族なんじゃないかな〜と勝手に思っていましたが、そう言われてみると
事故があった近隣の方とかなのかもしれませんね。
難しい…
妻と子が寝たので、お供え物の話を書こうかと思った。
俺は、●●様にはあんまりお賽銭を入れたことはありません。
お正月とか、一番最初に行ったときくらいじゃないかな…
でも、お供え物は2年近く通って、400日くらいは参拝して、そのうちまあ10回くらいはしたんじゃないかなーと思う。 というのは、毎朝の散歩を兼ねての参拝だったので、手ぶらだったからです。
お願い事も特にするわけじゃないからよかろう…というわけで。
実は、お供え物もなんというか、作法がわからないのでする気はなかった。
お供え物って…持って帰るの?持って帰ってそれどうすんの?食べ物なら食べていいの?捨てるの?みたいな。
でもある日、高校の時の友達との飲み会に行ったとき、友達が知り合いからたくさんもらったという
日本酒を一瓶もらった。四合瓶のやつ。
お酒は好きなほうだけど、家で飲むのはビールとかチューハイとかで終わる方なので、
ちょっと持て余してしまった。そこで、「あ、●●様にあげよう」と思い付いた。
というのも、そのお酒の酒造が●●様の大本(たぶん)の神社の近くにあるところだと気づいたので、
●●様が懐かしがるんじゃないかなあと思ったのだ。
で、ちょっと飲んじゃったけど、とにかく持って行った。
朝薄暗いうちとは言え、四合瓶の日本酒を片手に近所をうろつくのは不審者扱いされそうでどきどきしたが。 無神論者的にはバチが当たって自分が酷い目にあったとき、それでも偶然だと思う自由がある。
占いでも予言でも何でも良いんだが、100発100中の予言を見ても、たまたまだと思う自由がある。
宗教や占いを信じる人が当ったと驚く自由があるのと全く同じように。
信じないことが自分の心の平安を得るのにとても都合が良い人がいる。
信じることが心の平安を得るのに都合が良い人がいるように。 とりあえずお社の前にお供えしてみると、ものすごいウキウキした感じが伝わってきた。
喜んでもらえてるんだあ〜と思ってうれしくなった。
で、やはりそのまま放置するのは気が咎めるし、子供が遊びに来て飲んだりすると悪いなと思って
また持って帰った。
そして、もったいないので飲んでみた。
すると…お酒の味が変わっていたのでまたびっくりした。
友達からもらったお酒はその年の新酒で、辛口のいいお酒だった。
ふくよかなコメのにおいがする薫り高いもので、蓋を開けただけでまさに香気が立つという感じだったのだが、
家に持って帰ったお酒を開けてみると、香りもスカスカ、味も気が抜けたようななんともしまらない味になっている。
あまりの変わりようにびっくりした。
それが面白かったので、たまに気が向くと小瓶のお酒をお供えしてみることにした。
でも、やはり一回目のお酒ほど喜ばれた印象はなかった。
友達からもらったお酒は、酒造の何十周年記念だか誰かの何回忌だかで特別に作られたものだったらしく、
パッケージもその年度だけのもので、なんというお酒なのかも今ではわからず、
せっかく●●様が喜んでくれたのにもうあげられなくて悲しい。 お供えすると味が変わるのは、お菓子とかもそうだった。
何か●●様のおかげでうまくいった感じがするなあ、と思って何かお礼がしたいと思うと、
ぽっと頭に何か浮かぶことがある。
黒糖まんじゅうだったり、アップルパイだったり、厚揚げだったり。
それではそれをリクエストととらえて持っていくと、やはりウキウキ感が伝わってきた。
そしてそれらも持って帰ってもったいないから食うわけだが、
やはりどういうわけか、一味も二味も抜けている。
本当に「気が抜けている」という感じ。正直、うまくないのだ。
そういう、気が抜けたおさがりを食べてから、食べ物って、気が入っているからおいしいんだな、と思うようになった。
食べ物の気っていうのは、いろいろな要素があると思うんだけど、
おそらく、果物であれば樹上で実っていたときの生気であったり、
加工品であれば作り手の「おいしくなれ」という思いであったり、
そういう食べ物自体が持っている気合というか、そこはかとない迫力があるんだと。
それを●●様は食べるんだなあ〜と。 自宅に氏神さんの神棚おいてるけど
そこで手を合わせて神さんに届いてるもんなん?
仏壇も両方お供えして拝んでるけども
お下がりは味が変わった感じがするようなしないような >>62
わかんない
でも氏神様の神棚があるのはうらやましいな〜と思う
まあ、もう氏子の地域にいないから氏子になるのは無理なんだけども。
でも、なんとなく別な人?別な神気?のような気がする
前に●●様の大本?の神社に行った時も、●●様の本体にご挨拶に来られたというよりは
なんつーか、「いつもこの会社の支社にお世話になってたけど、本社ってこんな感じなのか」
という印象を受けたので、分社は分社で違う人が入ってるんだと思ったのね
ということは、各家庭に配られる氏神様のお札も、支社の営業の人が来るのであって、
支社の支社長は別人なような気がする
わかる?うまく説明できていない感触が半端ない…
と、思ったので、がんばればたぶん●●様のお札がもらえるかもしれないけど、
結局それは●●様本人じゃなくて、本人はやはりいつものお社にいるので
●●様に会いたくなったらお社に行くしかないと思ってます。
おさがりは、仏壇も神棚もうちにないから試せないんだけど、
ばーちゃんちにある仏壇に供えたおさがりはさほど味変わった感じはしないね。
不思議です。ほかの神社にも食べ物お供えしたことないから他がどうなのかわからない…
だれかやってみてほしいw 氏神って土地の神様だけども引っ越したら変わるのかね
わからんことだらけだわ
例えば大国主命祀ってる神社は全国各地にあるけども
同じ大国主命を祀ってるのに神社が変わると違う人(神)の感じがするってことかな
だとすると各家の神棚は本店の大国主命と全く違う支店長の雰囲気がするのは
なんとなーくわかるような
でもそうすると神棚の意味ってなんなんwwwとおもうわw
神社へお参り行ってみるわ
なんか祈りたいことが多くてなぁ…w 面白いね
お供え物の味が変わるのか
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