【速報】 信長が本能寺で死んだ事をまだ知らない秀吉が書いた、毛利方に「備後国をやる」書状を発見 [886559449]
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本能寺の変の翌日、秀吉が出した起請文を発見 事件知らずに書いたか
戦国武将・織田信長が明智光秀に討たれた天正10(1582)年6月2日の本能寺の変。その翌日、
中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴(豊臣)秀吉が、寝返った毛利方の有力武将に報奨を約束した
起請文(きしょうもん)(誓約状)が見つかった。東京大学史料編纂所(へんさんじょ)の村井祐樹准教授
(日本中世史)が20日明らかにした。「歴史的な大事件を知る直前の秀吉の動向がわかる貴重な史料」という。
【画像】ビルに囲まれる本能寺、65年ぶりの「変化」 大通りに姿を現した本堂
書状は縦約33センチ、横約45センチ。村井さんがネットオークションで見つけ、今年10月に購入した。
毛利氏の縁戚で備後国(現在の広島県東部)の武士だった上原元将(元祐(もとすけ)とも)にあてたとみられる
内容で、天正10年6月3日の日付。「上様(信長)に対して御忠節を尽くすとのことなので、備後国の権利を与える
朱印状を(信長から)受け取ってお送りします。もし備後国が当方のものにならなければ、備中国内であなたの
希望する場所で二万貫をお渡しします」などと寝返りに対する報奨が記される。
書式や書体のほか、当時の書状に使われる雁皮紙(がんぴし)が用いられ、花押と呼ばれるサインにも
問題がないと思われることから、本物と判断した。一番最後の宛名は失われているが、起請文の内容から、
「上原右衛門大夫殿」と書かれていたと推測されるという。
当時、秀吉は備中高松城に籠(こ)もる清水宗治を包囲中だった。近くの日幡(ひばた)城にいた
毛利氏の親族の上原氏が寝返ることには、大きな意味があったとみられる。
秀吉に本能寺の変の一報が伝わったのはこの日の深夜〜翌日未明とされ、「秀吉が主君の
信長が生きているとの認識で出した最後の文書で、当時の状況がよくうかがえる意味で貴重。
まだ手に入れていない備後・備中を与えると約束するなど、大言壮語する強気な秀吉の性格が出ていて興味深い」と村井さんは話す。
https://news.yahoo.co.jp/articles/32c0a3a5c33b1facaefa78e54b7dede89fb9420d >>2 その辺の名家の蔵じゃろ
細川家なんか未解読の書状腐るほどあるって話だし
中国大返しの移動速度は当時の常識ではあり得なかったらしいな
それも解明してるの?
秀吉って農民出身なのにどこで読み書き学んだだろう?
むしろのっぶ生きてる事にしないと交渉の材料にならんだろ
>>7 その説は光秀の書状が見つかったあたりから大分薄れてる
>>6 農民と言っても商売もしてたし、江戸時代の農民とはまた違う。
これが本物だと、秀吉の信長暗殺黒幕説がだいぶ否定される感じか
まぁ元からトンデモだったが
>ネットオークションで見つけ
こないだの関東大震災絵巻といい、出典怪しすぎるやろ
むしろ光秀の動きを知ってたからノブが生きてる事にしてこういう条件提示したのかもしれん
毛利一門が寝返るなら武田崩壊の再現にもなったのかな
日の出の勢い
黒幕説は逆に信憑性増してね本能寺知ってからも信長が生きてる体で毛利と和睦交渉してたやん
信長は家臣の独善嫌っていて何をするにも安土の信長に伺いをたててから行動するようにとしていたし何より領地の報酬を勝手には決めれない
宇喜多か忘れたが信長に伺いをたてずに領地安堵を約束して信長に叱責されてたし毛利との和睦交渉時も吉川や小早川らに秀吉だけの朱印状や祈証文では信用出来ないと言われてたような
当時の秀吉は成り上がりで権威や信用がまだ無かったから信長の名を出して信用を得ようとしていたから名を出してるだけでは
信長に伺いをたてずに領地報酬を約束してるなら逆に黒幕説の信憑性が増すけどなあ
中国大返しは
信長親征軍の為に道路整備してたので
大いに活用された
>>28 つっても基本歩きだぞ?
今みたいにスニーカーじゃないし
草鞋で足ズタズタになるぞ
恐らく…ノブ殺した男、羽柴秀吉
信じる、信じない、構わぬ
勝手に宇喜多直家の帰参を許して信長に叱られたばかりなのに
敵に領土安堵するのはおかしい
>>6 光明寺とか松下家で働いていたときとかじゃないかな
信長に仕える前にね
>>6 あれだけ頭の良い人なんだから読み書き学ばせたら誰よりも早く理解して先生すら超えてしまうんじゃない?田中角栄然り。
>>4 なんなんだろね
細川家はあんま熱狂的な人気がないから研究も進まないとか?そんな事もないよな
末裔がまだしっかり残ってるから世に出ないだけか
備中高松城を水攻めしてる時に毛利に攻められたくないから
同時に毛利懐柔してたのは既知の話だよね
今回のはその上で毛利方の上原にも書状を送ってたという話なのかな
大河史上初、いや日本の歴史物で初の穴山梅雪が良い人だったどうする家康
最後は「俺が徳川家康だーっ!」と叫んで回って落ち武者狩りどもを引きつけて死んだことになってる
>>6 こういうのは祐筆が書いてるだろ秀吉自身はほとんど漢字書けなかったけど大の字は好きらしくて大きく書いてる書状がいくつかあったような
切り取った領土は貰える仕組みだったんか?太閤立志伝だと国主にならんと駄目だった気はする。
>>2 未解読の文書なんて山程博物館とかに眠っている
学芸員の数が全く足りていない
>>37 あまりに資料が多すぎて人手が足りないらしい
昔の文字読める人も限られてるし
(信長は死んだからもう全て儂のもの)備後国やるぞ
じゃないの?
本物だとして、
いつ送ったのか、返書の有無、その日付も分からないとな
>>6 ●織田信長の史実に最も近い肖像画
信長の肖像は従来緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)が有名で教科書にも載ってきたが
近年の歴史研究の書籍ではこの肖像画(大徳寺蔵)の採用が増えている
https://i.imgur.com/h65CHtZ.jpeg https://i.imgur.com/z2xNjN9.jpeg この大徳寺の肖像は生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したものでより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
(長興寺蔵)は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと考えられ、他に残る信長の肖像もこれらの模写と考えられる。つまり全ての信長肖像のオリジナルがこの作品である。
また一部で"宣教師が描いた信長"と流布される写真のような「肖像画」は、当時の西欧にこのような画風は存在せず確実に偽物であり、まともな書籍には採用されていない。
作品には明治創業の写真館の所有印が残り、既存の肖像画からイメージして作成したモンタージュの類いだろう。
"我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、
毛髪と言わず骨と言わず灰塵に化さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上に何ら残存しなかったということである。"
~ルイス・フロイス『日本史』~
今日刑務所から出てきた
おまえら久しぶり。
4年キツかった
>>6 それより気になるのは
秀吉と秀長、どうやって戦術覚えたんだろ?
陣立てとかやってくウチに覚えれるものか?
信長が死ぬ事を知ってた秀吉は毛利方に「備後国をやる」と言った可能性もある
>>17 トンデモだとは思うんだけど
全く知らなかったとすると
知ってから大返しにいたるまでの決断力と行動力が凄まじすぎる。
そんな人間だから天下取ったって言われればそうなんだけど。
ひでえ
元春と隆景は直ちに楢崎元兼に備中国と備後国の兵を率いさせて日幡城を攻撃[12]。この攻撃に対して誓約状の日付の翌4日に毛利氏と和睦した秀吉は自重して元将を救援しなかったため[注釈 4]、直ぐに日幡城は陥落し、元将は城を脱して秀吉の下へ逃亡した[12]。
あとwiki編集早い。マニアックだろ。
秀吉といえば
独眼竜政宗の勝新立ちション
NHKの女性スタッフには見せつけ
デカそうな渡辺謙からは隠す
>>39 秀吉はあの時代に戦略、戦術面が突出してるんだよな、現地調達が当たり前の時代に補給まで考えてるとか凄い。
秀吉黒幕説とかトンデモ説を信じてたトンキチはニュー速にはおらんよな?
信長、信忠親子が、僅かな手勢で京都に宿泊し、実戦部隊は各地で交戦中という、とんでもない一大チャンスを、人為的に演出するのはまず不可能。
光秀が信長に対して溜めていたものはあるかもしれないが、やはり千載一遇のチャンスに光秀が衝動的に乗っかったと考える方が自然。
とは言え、あの大返しが、ぶっつけ本番でできるかと言われたら、反証が難しいのは事実ですが!
秀吉は筆まめだからわりと書状は残ってるよな
しかし許可なく勝手に一国与えるとか言っちゃって 生きてたらまた信長に大目玉喰らうんじゃないのか
>>48 今そういう研究進んでるし実際やってる
あと公開して一般の古文書読める人に手伝ってもらうとかもやってる
明智方の毛利への使者が秀吉に捕まってなかったら、どうなってたんだろうね。
>>67 イケると思ってはいるが、先方がこう言ってるんでこの条件で契約しますたは私もするw
加え当時はダメなら後で本人らをやれば無かった事に出来るから最大目標達成ならいいんじゃないかな
元就の娘婿だけど側室の娘を嫁にもらってるから、当時子供の中で最年長になってた宍戸の姉とかうるさかったんだろう
>>76 翌日手打ちして
毛利が羽柴(豊臣)最大の同盟者になる訳だけど
この親族なのに裏切り者どうなったんだろ?
>>67 それが越前に居た柴田権六との差、
謙信死んでんだから
さっさと越前大返しすれば良かったんだよな
大返しは光秀打つためってより挟み撃ちにあうから必死に自分の領地に逃げたんだろ
命懸けの逃亡なら無茶するのも当然
>>37 大名→華族になった家は不況(株の暴落)や震災、相続税で資産散逸したのが多いが、細川は永青文庫って財団作ってそこで管理して今でも細川幽斎から続く宝物がたくさん残ってる。
>>77 離反したのは良いが援軍はこず、毛利に攻められて
ほぼ身一つで逃亡した上原元将はその後秀吉が客将として遇していたが
1584年に亡くなったと有る。
嫁が毛利元就の娘だったから、彼が裏切った事で毛利家中に少なからず動揺も有ったらしい。
亡くなった頃は既に秀吉が信長亡き後の政争に勝利し、
自身の政権を樹立してて、毛利家はその配下になっていた時期だ。
>>65 金がバカ上がりしたときに
思わず有り金突っ込んじまった
オレはミツヒデ
>>79 いまのような温暖化だったら越前にいても天下が取れていたのにな。
>>5 信長は明智光秀の軍団を連れて秀吉の援軍に行く予定だった。
コレは秀吉側からの「たっての希望」であり、当然援軍の通るルート上の整備(宿泊施設や兵糧や水補給更にウンコ・ションベンの処理施設まで)全て秀吉側が負担し準備しておく手筈に成っていた。
だが明智光秀はその援軍用の兵で信長を急襲して京都を占領したので、秀吉が手配した援軍用の通行施設は丸々未使用状態として残っていた。
秀吉自身はソレを使えば簡単に大軍を京都まで帰還させる事が可能だった。
むしろ日本史にはこの秀吉の中国大返しより遥かに大軍を短期間に移動させて足利尊氏の大軍を撃破した北畠顕家の例があり
(東北地方から600kmの距離を5万の大軍で約半月、1日平均40km近く移動してきた。
ちなみに秀吉の中国大返しはその約半分の2万5000の兵を約1/3の210kmを7日間、1日平均30kmぐらい)
コチラは何の事前準備も一切無しだったので、おそらく通り道になった村や街では凄まじい略奪が行われた挙げ句にそこらじゅう糞まみれ状態になったと思われる。
何度も言うが北畠顕家の強行軍に比べれば秀吉の中国大返しなど、中高校生の強歩大会程度だっただろう。
>>5 ざっくりだと1週間で200キロ強でなんだかんだ言われる
その頃柴田勝家は3日で180キロ移動したのに誰も不思議とは言わない謎
>>6 ひらがなだらけの手紙が多数残っているのよ(お察し)
>>56 信長が死んだ後の秀吉の織田家に対するヒドい仕打ちと露骨な野心的行動を考えると、
やはり明智光秀が本能寺の変を起こした最大の理由は『野心』だったと言わざるを得ない。
結局信長は明智光秀やその後の秀吉のように『野心・出世欲』の強い人物を部下として多く集め、特にその中で『ヤル気』のある人物を出世させる傾向が強かった。
だから織田信長の家臣団は強かったし、よく大胆な裏切りをする人物が出た。
そういう事だろう。
本能寺の変が起きずとも、信長が寿命で死ねば次の代(織田信忠)には何らかの大規模な謀反や政変が起きて織田家は没落する運命だった。
>>61 勝新と言えばよく中野で見かけた。派手なスーパーカーで渋い考え事してる感じで何回か見た。
>>6 秀吉の死後、豊臣家から離れて徳川家康に急接近して最終的には譜代の直臣と同じ扱いを受けるほど家康に気に入られた『藤堂高虎』も読み書きは出来なかったと言われている。
基本的に「耳文学」つまり他人から聞く事で学んでいたそうだ。
>>61 あの場面、コカイン仕込んでなかったんやろか
>>43 中身が死ぬほど下らないエロ文章だったらどうするんだろ
こんなんがネットオークションに出てるのか
面白いのが出るのずっと張ってるんだろうな
>>5 速度だけならそこまで速くない
すごいのは本能寺の変が起きてからの反転の早さ
>>5 秀吉と側近は馬を交換しながら姫路城に激走したがこの時間を全軍と勘違いしてる。
秀吉が姫路城到着した3日後に本隊全部が到着してるため、馬と徒歩と荷駄隊と海路で相当な時間差があったとわかる。
>>100 >>5 秀吉は家康がやった駿河大接待を超える大大接待を考えていた。道路整備は
>>87さんが詳しい
このため信さんの出発と現在位置や移動速度を把握して次の接待ポイントで名物なり酒を準備するための連絡網を整備していた。
この連絡網を悲報が通過した。
>>90 本能寺研究者を集めて議論したNHK「本能寺サミット」が面白かったが結論は「思いつき説」だった。
既に信長は信忠に家督を譲っており、信忠のカリスマ性を考えると信長だけを屠ってもまったく意味がない。
また、両者とも少ないながら精鋭を引き連れており、特に信長の逃げ足は神がかりに速い。それゆえ両者を確実に屠るためには大軍勢がるいる。
信忠は家康接待予定だったがタイミングが合わずに京都に向かい、やや遅れて自分が1.2万人の大軍勢で京都に向かう。しかも「信忠さんに馬備をサプライズする」と言う如何にもありそうな口実まで持ってる。
この機会を逃すと国替えで毛利領となるためラストチャンス。
>>85 本能寺の変は6月
冬場の北ノ庄に閉じ込められたのは
三法師様に逆らう信孝を秀吉が討伐した当たり
駄目だわ権六、
もし秀吉が越前で権六が備中だったら
越前大返しで上杉と和睦
毛利の攻勢で手いっぱいの姫路城を
尻目に信孝殺す秀吉って事に
そうなると姫路城は柴田勝家と共に
灰燼と化す歴史に
変わりに北ノ庄城が日本を代表する
城郭建築物になったりして
中国大返しで疲れてヘロヘロの状態で戦ってよく勝てたな
>>109 実際に戦った「主力」の中に秀吉の軍はそれほどいなかった
>>4 細い話よりそのナンバーだと伊達政宗の方がウケるしな…
羽柴秀吉「懐で草履温めてました!」
織田信長「気が利くな猿!」
…って時点でまさか…まさか変な話だった…?
>>109 それほど疲れていないってか、当時の兵士の体力を舐めてはいけない。
車も電車も無いのはモチロン、馬ですら高級品だった時代で基本的に移動手段は全て徒歩だった。
前レスにも書いたが中国大返し時の秀吉軍の行軍ペースは1日30km×7日間だった。
コレですら秀吉本人含めた主力だけの話で全軍では無い。
そしてほぼ同じ時代、徳川家康の関東移封後~以降の「鷹狩り」時の1日の移動距離は21~25kmだ。
コレを3日間連続して移動先で宿泊しながら、同じペース(つまり6日間)で帰城するのが家康の鷹狩り時のパターンだ。
この間、家康は鷹狩りを楽しみながら移動していて兵士達はその間決して休んではいないハズで、家康の狩りの手伝いで獲物を探したり追い立てたりしていたハズだ。
そう考えると秀吉の1日30km×7日は決して無茶苦茶と言うほどのペースでは無かった事が判るだろう。
秀吉の兵は疲れきっていたと言うワケでは無かった。早い話、当時の兵士達は現代人が考えるより遥かにタフだったし、ブラックな職場が当たり前だったって事だ。
>>109 姫路城までは早いんだが、そこからのんびりしてる。
>>87 > 通り道になった村や街では凄まじい略奪が行われた挙げ句にそこらじゅう糞まみれ状態になったと思われる。
これは違うな。秀吉は本体より先に早馬を出して、到着予定の休憩所や宿に水や食事を用意していた
物資調達には金をばらまいて急いで集めるように指示していた
>>113 https://www.engakuji.or.jp/blog/34576/ 履き物を懐で温めていた類似のエピソードがあるのと、草履取りをしていた事実が確認できないことから、創作じゃねーのと言われてるそうで
>>62 数千や1万規模の大名の軍勢となると現地調達では必要量の兵糧の確保は難しく、当時は言われてるほど現地調達に依存してた訳じゃなく、小荷駄隊って荷車部隊が付随してその荷車の荷物を食べ尽くすと撤退する感じだった。
秀吉はその上を行ってて長束正家とかの官僚を使って継続的に前線に補給物資を送る体制を作ってた。
勝家も北ノ庄城まではすごい速さで大返ししてるんだよな
そこから出陣までもたついてしまったのが秀吉との差
>>54 秀吉も秀長もこの人達っていつ休んでるのか分からないくらい生涯ずっと前線に居るので叩き上げよ
>>98 大学の古文書演習は未整理の文書使ってた
解読のきっかけすら掴めない文字が、○○○と△△△だったときは腰が抜けそうになった
まぁ、売券(不動産売買契約書)にはフォーマット要るよね……
>>54 17歳から信長に支えるんだが評価されたのは清洲城の普請で、特に建材や人足の指揮管理がうまかったようだ。
ここから各種普請や台所(食材や経理)を任せられ、この才能が墨俣城に通じるんだが秀吉は生涯を通して土木と兵站で戦うイメージが強い。
城攻めも強いんだが、弱点を突くカラめて攻撃や、付け城を作って食料を断ち、その上で地下水脈を切る降伏誘導も土木に通じる。
これに半兵衛、官兵衛、三成と優秀な人材が加わり、作戦のバリエーションが増えていく。
ふと思ったんだが、備後一国って鞆に義昭の亡命幕府があるのどうする気だったんぢろ
>>123 兵站ができる人って、地味だけど大事だよね⋯
そういうのを評価できる仕組みがないと
>>87 秀吉が信長に援軍を求めて信長がその気になって秀吉が完璧に信長が安楽に移動できるように整備してたんだよな
信長は毛利を降伏させてすぐに毛利を先鋒に信長親衛隊の光秀軍と自身の軍で九州攻めを企画、光秀を自身の援軍の先鋒として派遣して秀吉と協力での毛利降伏を任せて
信長自身が到着時は毛利降伏がすでに実現かすぐに実現できる体制を目指して毛利を先鋒、光秀と信長で九州攻略、秀吉は四国攻略の援軍として四国も一気に攻略で天下統一成る
という戦略だったのだろう
こういう状況で特別に困難でもない中国大返しがーだの明智が四国担当を外されただの明智が秀吉の部下にされて恨んだだの頓珍漢な考察が多くて笑えるわ
当時の織田軍の流れを見れば普通に信長が天下統一の最後の総仕上げにかかったのは分かると思うけどね(関東東北はほぼ恭順、九州も恭順派がいる状態、越後も風前の灯火だし)
>>123 だろうな。秀吉は知識より知恵が特に優れていてその場その場で知恵を働かせて上手くやったんだろうな
そして経験を積んで勉強も相当したようだし知識も増えて優秀な家臣が出来てさらに知識が増え知恵を磨いて行ったと思われる
織田家で活躍することに夢中になって全てにおいて全力投球という典型的な天才型の人間だったな
信長が机上の空論より実際に何ができるのか?どんな実績を上げたのかで評価したので秀吉はガンガン出世できた
家柄がーとか知識がーという家に仕えてたら出世は難しかったろうな
>>126 日本はアメリカとの戦争で兵站を軽視してたのがなあ…、兵站を評価どころか「輜重兵が兵隊ならば、チョウチョトンボも鳥のうち」と蔑んでた
アメリカは兵站を最重要視してた。戦後の軍関係者へのアメリカを勝利に導いた兵器アンケートで出てくる兵器はというと
「ジープ」「スカイトレイン(輸送機)」「バズーカ砲」「テキサン(練習機)」などで、兵站系の兵器がしっかり入ってくる
決してムスタングだのエセックス級空母だのシャーマン戦車などは入ってこない
>>114 日華事変で中国国民党との戦闘の時も日本軍は歩兵中心で約30sの荷物を背負って毎日毎日広大な中国大陸を歩いていたとの証言が沢山あるしな
わずか90年前も似たような行軍をやってたわけだ
>>1 戦国時代はこんなの後で無かったことにするのなんて日常茶飯事だったから、貰ったほうも「あー、はいはい」状態よ
>>穢多非人か昭和生まれ中高年老害のボンクラパーのバカらの知恵遅れはそれ言うよな
相当ボンクラそうだし日本人じゃなさそう
>>6 穢多非人か昭和生まれ中高年老害のボンクラパーのバカら以外のまともな日本人なら常識だわ
京都岡山間なんて新幹線で1時間くらいだろ?
翌日になっても知らなかったなんてことある?
>>116 俺の書き方も悪かったカモ知れないが(あくまでも『カモ』だが)、
チョット落ち着いてよく読もうぜ?
とりあえずもう一度、な?頼むよ🙏お願い♥
>>127 でも、秀吉に対する嫉妬はあったカモなのよ?
そもそも秀吉は備中高松城を『水攻め』にしておいて信長に援軍を求めてきていた。
コレぶっちゃけ「奇想天外な水攻めを信長に見せたい」って言うゴマスリの意味も有ったよね。
織田信長は妹婿・浅井長政の頭蓋骨を漆塗り金箔張りして酒宴の席での見せ物にした、と。
コレが間違って伝わって『信長は浅井長政の頭蓋骨で杯を作ってソレで酒を飲んだ』って噂あるじゃん?
アレって実は元ネタがあって、ソレが中国の紀元前の歴史書・史記に出てくる「知伯と趙襄子」の物語で、
『知伯は晋の国の総理大臣で、同じ晋の国内の魏氏と韓氏を誘って趙襄子の立て籠る城を攻めた。
しかし趙襄子の城は手堅く、ソコで知伯は趙襄子の城を水攻めにした。
ソコで趙襄子は魏氏と韓氏を「私が滅んだ後はアナタ達が次のターゲットになる」
(趙家と魏家と韓家は晋国の名門貴族で、知伯は他の晋の名門貴族を攻め滅ぼして急速に勢力を拡大した新興勢力だった)
と説得し、魏氏・韓氏を寝返らせて逆に知伯を攻め滅ぼした。
知伯が滅ぼした後、趙襄子は知伯の頭蓋骨を漆塗りにして杯にして酒を飲んで楽しんだ』
と言う内容。
もし織田信長がこの物語を知っていたら?
浅井長政の頭蓋骨を漆塗りにしたのも、この話から得た発想だったとしたら?ソレほど信長がこの話を気に入っていたとしたら?
秀吉の「城の水攻め、本当にやってみた!」企画は信長の心にバズるの間違い無しなワケだ。
でも学が無い秀吉がコレやるのってどうよ?本来ならそーゆー他国の歴史書にも詳しいインテリがやるべきだよね?例えば明智光秀みたいな奴が。
そう、本来なら明智光秀みたいなインテリがやるべき高等戦術を、学が無い秀吉がゴマスリ目的でやって見せた。
と、成れば明智光秀の嫉妬心はチョット洒落にならんレベルで燃え上がっちゃうんじゃない?
まあだからって主である織田信長を謀反で殺しちゃうってのはチョット違うけどさ。
>>130 >>126 中期以降の秀吉兵站で力を発揮したのが石田三成なんだけど人心を掴む能力が不足してたと言うね。
>>138 自分はNHK本能寺サミットの結論である「思いつき説」を推す
>>105 光秀の年齢は(諸説あるけど)54歳、嫉妬や野心があったにせよ強いモンじゃないだろう。
それより「信長を殺して天下を取れる全ての条件がウルトララッキーで揃ってる」の方が大きかったと想像。
よーしこれから中国・九州大遠征に行っちゃうよー!
光秀頼りにしてるからな、先陣がんぶぁえ!!
って出発するその直前に光秀に
「あ、今お前治めてる超一等地は没収な
こんど新しく過疎地を褒美でやるからよ 励め」
ってノッブは素直に言っちゃうものかね?
ぜったい反感買うじゃん
そんな急いで近畿をノッブ直轄にする理由もなさそうだし
>>141 ただ、光秀の年齢である54歳を考えると「これからまた開拓するのかあ。ふう」と言う気になる気はわかる。そして
>>140に続く。
丹後の波多野氏討伐に結構苦労したのに、
更に大変そうな石見の山吹城とかその前に
月山富田城もあるしそこで戦死してそうだな(´・ω・`)
丹波没収の証拠ってあるの?
確かソースが江戸時代の小説でしょ。
>>25 付け上がった出自が悪いカッペを、室町幕府のラスボス(徳川家康)が征伐しただけの話
明智氏
明智光秀の家系は、実は進士氏から養子入りした一族
進士氏は藤原系熱田大宮司家の庶流であり、遠祖の拠点は三河
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=天海(明智光秀(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家)関係者か?)
三河の源頼朝は三河にあった自身の母方菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝が三河の母方従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
二条城で親王逃さずずっと人質に取ってればよかったのに
さすがに光秀も朝廷敵に回せんからなんも出来ん
そのうち周辺から救援来るわ
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