
■ 「田沼は最初から大志ある男よ」
寛延2年(1749)に意次は御小姓組番頭となったのですが、その頃の意次の逸話が残っています。肥前国平戸藩主・松浦静山(1760〜1841)が記した随筆『甲子夜話』に載る逸話です。
大河内肥前守の父・織田肥後守が御小姓組与頭を勤めていた時のこと。田沼意次は、前述の御小姓組番頭に就任していました。肥後守と意次は同僚だったのです。しかし、意次は奥向きのことは
不案内として、その職掌に困惑していました。そんな意次を手助けしてやったのが、肥後守でした。意次は、肥後守に恩義を感じていました。よって、意次は肥後守を内々に推薦。
それにより、肥後守は小普請支配に任命されるのです。
自身の出世に意次の周旋があったことを知った肥後守は、感激し、御礼を述べようと田沼邸を訪問します。そして御礼を述べるのですが、その時、意次は面色を改めて、次のように言い返すのです。
「さても不料簡なことよ。拙者は今はこのような役職に就いてはいるが、何れは老職(老中職)にまでなる積もりである。貴殿は、今、3千石。拙者はそれには及びません(田沼は3千石以下)。貴殿こそ、
どのようにも昇進できようものを、小普請支配に就いたくらいで事足りるとは。さても見下げたものよ」と。意次は肥後守に苦々しげに言ったというのです。世間の人々はこの逸話を聞いて「田沼は最初から大志ある男よ」と思ったようです。
意次の発言は、今風に言えば「私は総理大臣に何れなる積もりだ」というに等しいもの。普通はそうしたことを聞いたら(何を馬鹿なことを)と思うものです。意次は実際に言葉通り、老中にまで上り詰めたから良かったですが、
そうでなければ、恥ずかしい思いをしたでしょう。それはさておき、前述の逸話から意次は豪胆な性格だったことが分かります。
しかし、そのくらいの豪胆さや大志を持っていないと大きな出世など無理でしょう。
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