徳川・織田を攻めた武田軍、実際には信玄の死よりも金欠が原因で撤退か [902666507]
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武田信玄の西上作戦はないない尽くしの超ボンビー遠征だった
https://hajimete-sangokushi.com/2019/12/27/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6%E8%B2%A7%E4%B9%8F/
武田信玄がボンビー遠征の末に病気で死んだのが西上作戦の真実というとにわかに信じられませんが、それは、それなりの根拠に基づいています。
信玄の根拠地である甲斐は石高二十二万石で、土地は山がちで耕作地も少なく、暴れ川が二本も走り、しかも内陸である為に、必要な物資を得るのに一苦労する土地でした。
当時の東国は開発が全体的に遅れていて、必要な物資は西国、それも堺さかい、大津おおつ、草津あしずのような港から運ばれていましたが、その主要ポイントを押さえていたのが信長です。当時東国への海上輸送は、太平洋側が伊勢と堺、日本海側が琵琶湖びわこを北上して、大津、草津でしたが、信長は、そのいずれの地域も抑えていました。
西国からの物資は荷止めされてしまい、信玄は欲しくても買えないという状況に陥ってしまいます。そのまま経済封鎖が続けば、戦う前に自滅してしまうでしょう。信玄は座して死を待つより、死中に活を求めた可能性があります。
しかし、信玄の西上作戦はその段階でも、すでに遅かったようです。
武田信玄は、戦国最強と恐れられた武田軍団を維持する為に領国内で増税を繰り返しており、国内は非常に疲弊ひへいしていました。
甲陽軍鑑こうようぐんかんには、信玄が西上作戦の軍資金の為に、未亡人や妻帯さいたいする僧侶にまでダメ押しで税金を掛けて銭をかき集めたものの、全体では銭二万一千貫(七千両)の軍資金しか集まらなかった事を記録しています。この二万一千貫という金額、信長が堺の豪商に課した矢銭やせん(軍資金)二万貫とほぼ同額、さらに信長は同様の矢銭を畿内の各都市に要求しているので、軽く十万貫は集める事が出来たようです。これだけ見ても、織田と武田の経済力の差は歴然と開いていました。
>>1
信玄軍は快進撃を続け、天方城、一宮城、飯田城、格和かくわ城、向笠城むかさじょうのような徳川方の諸城を一日で陥落させます。山県昌景軍も柿本城、井平城いひらじょうを難なく落とし秋山虎繁は東美濃の要衝岩村城を落として後、信玄本隊と合流しました。危機感を持った徳川家康は、遠江一言坂で信玄と交戦しますが多勢に無勢で敗北、浜松城に逃げ込んでしまいます。
ここまで物資不足の様子は微塵みじんもない武田軍ですが二俣城ふたまたじょう攻略に入ると、雲行きがおかしくなります。城兵1200名の二俣城攻略に二カ月もかかったのです。通常、城攻めには守備兵力の10倍の兵力が必要とされていますが、武田の西上軍は3万とも言われ、これらの小城なら余裕で落とせるはずです。ところが、10月16日から始まった二俣城攻略は、12月19日まで2カ月も掛かっています。
二俣城が落ちた事を知った家康は浜松城に籠城します。ところが信玄は浜松城を攻める素振りを見せながら、結局迂回して籠城戦を回避してしまうのです。これについても、信玄は西上作戦を急いだとか、家康の存在を歯牙しがにも掛けなかったとか、敢えて浜松城を無視して家康を挑発し野戦に持ち込んだ等の説があります。
しかし、直前の1200名が籠城する二俣城でさえ、二カ月も掛かった火力不足の武田軍です。最初から浜松城は落とせないと諦め、先を急いだと考える事も出来ます。ここにも軍資金不足、弾薬不足の武田軍の事情が窺えるのです。
三方ヶ原で勝利した後、武田信玄は遠江浜名湖とうとうみはまなこ北岸の刑部ぎょうぶ村に滞在して越年、半月後の元亀四年1月10日に同地を出発し宇利峠うりとうげから三河に侵入し、豊川を渡河して野田城を包囲します。この野田城は川岸段丘を利用した堅城でしたが、守備兵は僅かに500名で、30000人を擁する武田軍なら一瞬で落とせそうでした。
実際に三河物語にも「藪やぶの内に小城あり」と言われるような小さな城だったようです。ところが、この有利な状況にも関わらず武田信玄は力攻めをせず、わざわざ甲斐から金山衆かなやましゅうを呼び寄せて地下道を掘り、水を絶ち切る方法を取ります。野田城の戦いは、1月10日以降に始まり、2月16日に城主の菅沼定盈すがぬまさだみつが城兵の助命を条件に降伏しました。
>>2
野田城は二俣城よりもずっと小さい城であり守備兵も500人しかなく、三方ヶ原で敗れた徳川家康の後詰も期待できない状態でした。にも関わらず武田軍は、その攻略に1カ月も費やしています。実はこの頃、信玄の病状はかなり悪化しており、その事が進軍に影響を与えたと言われてきましたが、しかし進軍なら兎も角、城を落とすのは信玄の指揮でなくても、名だたる名将が揃っているのですから、出来そうなものです。
間もなく信玄は病没し、武田軍は上洛を諦めて甲斐に帰還するのですが、信玄が死ぬ前から物資不足は深刻であり、それが進軍を鈍らせて、織田包囲網を失敗させたのではないかと思います。
これは信玄没後の長篠の戦いの前ですが、武田方の武将である穴山梅雪あなやまばいせつが配下の商人に対し、敵方の手下のふりをしてでも敵の商人と取引せよ、うまく鉄や鉄砲を購入できれば、馬は二百でも、三百でも用意する。と命じていますし、年代は不詳ながら信玄も、富士御室ふじおむろの神主に粗悪な銭があったら鉄砲の玉にするから収めよと命じています。
やはり、武田軍は城攻めに必要な弾薬や鉄砲が絶望的に不足したまま、西上作戦を取らずを得なくなり敗北を喫したのだと思います。追い詰められていたのはどちらかと言えば、武田信玄の方だったのです。
終わり 他の文明、他の時代でもこんな感じで泡のように小支配者が湧いては、あるいは併呑し或いは滅亡しながら時代を作っていったんだろうな
力不足を知りつつもいま仕掛けなければ相手が手の届かない高みまでいってしまう、という焦りなんかは古今相通ずるものだろう あれだけ武将やられてるのに撤退理由が金欠ですはないだろ 経済封鎖って当時も有効だったんだな
でも信長の野望では表現しにくいw 山岳戦は強いんだろうけど
平地だと経験が少なくて弱そう 長篠の戦いも武田軍の敗因は信長の経済封鎖による弾薬不足と言われてるよね。
以前は信長鉄砲隊の前に武田騎馬軍団が敗れたと言われていたが、実は武田軍も鉄砲の優位性を認識して鉄砲弾薬を必死に集めていた形跡がある。
しかし、集めきれずに長篠の戦いを迎えた。
本来ならもっと早く駿河に進出し穀倉地帯と海運を手に入れなければならなかったが、領内や周辺諸国との紛争に時間と金を費やした時点で武田の負けは決まっていたのだろう。 中国が一帯一路で借金させてからの各国のインフラの運営権奪ってるのもこのためよな NHK BSの英雄たちの選択だっけ、あの番組でもその説を中心にしてたな
有名な「敵に塩を送る」がそもそも(織田家による)物流規制を食らってる状況を表してるわけで 土地が広い割に米が取れないし、土地は痩せてるし
そのうえ封鎖されたらどうしようもないよね >北岸の刑部ぎょうぶ村に滞在して越年
おさかべだろ >>15
同じ顔した影武者ホモがさらに12人も!! この話から学べるのは
食料自給と武器の調達を自国で賄わないと滅びるってところ 食糧安保は何より大事だし
周辺国の立場で言えば、ちゃんと自衛できなきゃ
隣国の食糧庫として略奪され、奴隷として売られるってこと 住血吸虫もこのころからいたんだろうか
ここ最近でいきなり発生したわけじゃないよな多分 >>25
調べてみると室町戦国時代の大きな港は日本海側、太平洋西側に位置していて海運の中心は日本海。
だから駿河遠江三河を抑えたところで…ってのはあるのか。
信玄が謙信との戦いに拘ったのも日本海側に出たかったからなのか、無理そうだから日本海側に目を向けたが時すでに遅しで力尽きたと。
でも悠長に港湾開発やってる暇もなければ、甲斐出身の武田家には港湾や航路開発を担える人材もいなかったのかな。 お前ら的にお母さんからお小遣い貰うのにケンカしちゃってもらえなくなる感じの経済封鎖 >>34
日本海側に目を向けた→太平洋側に目を向けた >>257
沼津千本浜に首塚ってのがあるんだが、これは1580年頃に武田軍と北条軍が沼津海岸で戦った戦死者を祀ってる(武田軍死者の首実験後の弔い)。
武田信玄没が1573年、勝頼没が1582年なので、勝頼後期って感じだな。 じゃあ家康が西日本抑えてた豊臣を圧倒できたのは何でよ? >>39
全然圧倒してないじゃん。
家康が早々に死ぬ覚悟を決めて首尾一貫の態度を貫いてやっと勝った。 農耕技術が発達した現代でも稲作は盛んじゃないからな あんな兵力で京都まで行けるわけないし当然維持もできない >>16
敵に塩を送るって言われてた謙信は、必死に信玄に塩とか戦略物資の流入の妨害をしてたんだよな 信玄が長生きしてもどう考えても上洛なんてできる
状況じゃないし徳川領占領くらいで膠着だろうな 本当かどうか知らんけど武田信玄が死んだ時に上杉が凄い奴だったと残念がったってエピソードは何か良いな 上杉と小競り合いし過ぎだよなあ
あれで相当織田徳川は楽ができた 尼子の上洛計画も無謀だったから織田以外はそんなもんだろ 肖像画も勇ましい白い毛付き帽子からマキタスポーツみたいな表情の
何処にでもいるおっちゃんに変わってたよね 野田城落とすのに一ヶ月もかけてたから、あのペースじゃ尾張につく前に浅井朝倉滅んじゃう。
金ないのも弾とか節約して進軍遅い原因だったんだろうな。 今プーチンが死んだらどっちが原因かわからなくなりそうだな 駿河東海道は京都へ侵攻する上で大事な軍用道路だったとは思う
なんせ、諏訪方面から攻めると山また山で日数はかかるし、物資輸送が難儀 いずれは経済力で弱小勢力になっただろうけど、この時の武田は強大だよ
織田はあまりにも多方面と戦いすぎて、武田が尾張まできていたら信長は終わってた 武田
甲斐22万石
信濃40万石
織田
尾張57万石
美濃60万石
伊勢60万石
今川
駿遠三 70万石
生まれのガチャってとっても大事なの >>17
漏らしてクソまみれて茶屋で金払わない案件 >>60
地理的にその辺にいないとどんだけ有能でも天下統一は無理だしな戸沢盛安とかもっと
中央に近いところにいたらな 長篠では、武田も織田軍と同じ鉄砲比率で戦ったが銃弾は用意出来なかった
寺の鐘まで銃弾に改鋳したが、弾丸が尽き、数量で3倍する織田軍に順当に敗れてしまた
ちな、織田軍の三段打ちはウソ 最大の失策は三国同盟崩壊させた上に
織田徳川にもちょっかい出したせいで四方八方敵だらけ
勝頼の代で上杉と手打ちできたけど焼け石に水だった 甲斐が貧乏すぎて蝗のように北上したのが領土拡張の始まりで長尾との緩衝地帯を見誤って泥沼化したのが転落の始まりだろうし >>25
東は伊勢まで織田徳川、西は伊豆から房総まで北条に抑えられてるから、東西で海上封鎖されたら駿河湾の奥だけ手に入れても塩と魚しか獲れない。駿河も石高は大した事ないし、結果火中の栗を拾っただけ。 >>6
>>1は武田信玄の西行作戦の話やぞ
長篠・設楽原の戦いは武田勝頼だぞ いつもノブヤボやってて武田の西上作戦てムチャだよなーて思ってた 山に囲まれて平な土地も少ないしな遠征は大変だろうな 上洛なんか狙わず勝頼への権力譲渡をしっかりやってりゃ武田は生き残れたかもしれんのになぁ
通説通り胃癌だったなら上洛作戦決行前には病状があっただろうに
信玄は次世代の事なんも考えてない
その意味でも謙信のいいライバルだわな 甲斐は普段の年でも年の瀬に餓死者は出るし不作の年になると大量餓死者が出る程の不毛の地だったので信玄の父の信虎の頃は年の瀬になると領地の農民を引き連れしょっちゅう駿河・相模に略奪ツアーに出掛けて略奪しまくってた
晴信の代になって甲斐よりは豊かな信濃を手に入れたが晴信が戦ばかりするので軍費の為に重税と兵にとられる為に農業の手が足りなくなり相変わらず貧乏
そんな貧乏軍団だから勝って相手から略奪して生活を豊かにしようと必死だったのが武田の強さだったが略奪のしすぎで攻めこんだ先の領民には蛇蠍の如く嫌われていたんだよね
特に三遠では武田軍が通った後は草の根ひとつすら絶え果てると言われたくらいに略奪しまくった
そこまで略奪しまくった三遠を経ての対織田遠征はそもそも維持が出来なかったのが事実で本拠の甲斐信濃あるいは駿河から略奪しまくった三遠の中を兵站を通す維持するのも無理だったので最初から京を目指す織田に勝つのは無理だったんだよね
信虎時代は不毛な甲斐の中で穴山や小山田と領地争いばかりし外には略奪ツアーに出るしかなかったから領地を増やせず増やそうとしても略奪しすぎて嫌われていたから不可能だった…まあ貧乏が悪い 九州の連中みたいに奴隷貿易をして火薬を買うこともできないし立地的に死んでるわ回りの大名とどれかと仲良くできてたらな >>37
米は取れねえ謎の風土病でやたら死ぬ、物流は届かねえで最悪な土地だな。金山は有ったんだったか? >>81
山師が来るよな
大久保長安が武田の山師で、埋蔵金伝説もあるな
前半生は猿楽師だったり、まさにヤマシ 信玄の実際の立ち位置って魔軍司令ハドラーみたいなもんだろ?
長は長だけど癖がありすぎる部下たちをまとめるので精一杯っていう苦労人 金が無いのになぜ上洛しようとしたのか?
織田とも同盟組んでたってのに 将軍とか朝倉とか本願寺が
来いやーハゲーってうるさかったからじゃね?上洛
ちょうど上杉と北条とも
何かいい具合に手打ちができたんじゃなかったっけ
その時期に 織田裕二が ドコモから KDDI の CM に切り替わったのは インパクトあったよね。 ドコモ 携帯象徴みたいなキャラクターだったのに 半年後ぐらいに KDDI のキャラクターになった >>8
初代の信長の野望だと鉄砲買い占めや米の買い占めで相場を操縦する事で、ある程度表現出来たのにな。 @t8Xv8nnxSr37UZa←この垢の本人なんだが女の子()が云々のツイートあるけどそれら全部ゴミだからね^^ >>15
現在コレは武田信玄では無い説が有力なんよ。 >>12
俺は食った事無いけど噂ではコレ抜群に旨いらしいな ほとんど山賊集団だよな
農耕効率も良くないし金山労働や重税で苦労させられて戦だ戦だと徴兵され槍持って前に出させられて
住民はこの世の地獄じゃんロシア以下の治世 三国同盟を継続してたらどうなってた?
武田今川で徳川ぐらい潰せた? 徳川が武田信玄にボコボコにぼこられたせいで
毎度の神君捏造で江戸時代に過剰評価され過ぎ持ち上げられてただけで
実際には大したことが無かったと言う事 >>99
信玄存命中は55万石程度だが、武田家滅亡時に120万石となり、この時に旧武田の武人を雇用して戦力アップ、江戸移封で250万石、関ヶ原後は400万石、、、そりゃ強いわさ。 熊 谷 俊 人 千 葉 県 知 事 はどうやら 穢 多 の同和部落民。絶対確定
天理市生まれのガチの天理教なのは確認済みであり周知でもある
関西人ならピンとくる名前。「天理の熊谷」
※天理西中学校事件
これが彼が怖いといわれる理由
明治の当時は可愛いぬいぐるみもなく、怖い狂暴な野獣。
今でいう 蛇沢さんと同じ感覚なのでこの苗字は普通はつけない。
熊谷俊人千葉県知事「中学生で政治家を志し」
屈託なく受験や部活をする中学生はふつう、こんなものは志さないです。
異様な政治厨は宗教や被差別系が多い。お父様が全国転勤のサラリーマンとのこと?
この方の軌跡を追うと天理市→浦安市→神戸市
これがありうる天理市の企業はりそな銀行ですがこの時はまだ合併前で奈良銀行である。
浦安に行くことはない。やはり天理教の職員とするしかない。
すると三つ目の移転先「神戸の須磨区の自宅で大震災体験」。もちろん部落の多い地域ですが、ここには【天理兵神大教会】がある
天理教は極めて薄給で最低賃金に近い。となるとなぜ中高一貫私立の白陵から早稲田に行けたのか?
謎に富裕ですが、同和利権と思えば符合する。数億です。そして就職は同和優遇が公務員と三公社 電電公社国鉄と専売公社
さてこのかたは?電電公社前身のNTTですね、全て符号。(^^)/
完璧証明。今の総務省から呼んだ黒野嘉之千葉県副知事。珍名黒野姓は愛知県西尾が殆ど。西尾市の大手畜産は黒野さん。
千葉市副市長の国土交通省から呼んだ青柳太氏の長岡市も壮絶な部落差別都市でやはり「青柳」姓は精肉畜産に多い名前です。
右翼風の名前の千葉県警宮沢忠孝本部長は?こうなると?同志結合が強すぎで、あまりにやりたい放題過ぎる
https://imgur.com/4XcvDcV
そしてやはりカルト教会が出てくる。中高一貫私立から早稲田へ下宿と富裕なのは数億の同和利権です
千葉一区立憲民主党田嶋要氏も神谷俊一千葉市長もまるで相続承継人のようにあれら系
奥さんは関西部落事情は知らずに結婚したんだろうけど長い年月の肉食で体臭が日本人とは違うとか。
近寄るとわかる。臭いとか。。
結婚相手として選ばないと答えた割合は六割。四割の人も周りに言われて思いとどまる例が多い。
ま いつ差別が完全に消えるのか知りませんが孫ひ孫まで何か言われるか?思うと勇気がいります。
四街道市長の鈴木陽介氏も大佐倉や酒々井あたりの人ですよね。凄い閥だ
ちなみに自民市長は千葉県警に逮捕され、そしてクリーン偽装獣が市長に。
でもこの方は何しても逮捕されない状況ですね?説明略
検索→@「愛知 田嶋 畜産」A「愛知 神谷 畜産」B「愛知 黒野 畜産」C「兵庫 奥野 畜産」D 「田嶋要 統一教会」E「神谷俊一 統一教会」
「奥野総一郎 統一教会」「熊谷俊人 統一教会」 で繋がる
立憲の田嶋要さん 本庄さとしさん 奥野総一郎さん
愛知 京都 兵庫。親のエピソードや幼少のそれがないですね
柏の本庄さとしさんの要請でしょう
泉健太代表がコソコソと近々、極右の核のモラロジーで記念講演するようですね
同和でも構いませんが同志でコソコソされると違うんだなぁ sdfghj >>76
大丈夫です
義興の時代ならペロッと飲み込める
美濃の次は尾張で織田はオワリです クソ貧乏だから跡部は金を貰って上杉との和睦を飲んだって風聞が生まれたんだろうな >>100
武田滅亡時は甲信上野は織田が持ってったから
徳川は駿河しか貰えずせいぜい70万石くらい
本能寺後のドサクサに甲斐と中南信攻め取って120万石 >>81
信玄の頃は金が産出できて地域通貨の甲州一分金を流通させていたが
勝頼の代には既に枯渇していた >>104
河尻秀隆は甲府から逃亡せず討死、滝川一益は前橋に残りボロボロ
やっぱ武田残党は底力あったのかね
てか本能寺から3ヶ月じゃ統治不安定もいいところか >>96
えのんボンビーなのねん!
って、40年前のジャンプ放送局が元ネタw >>102
義興って誰や
美濃攻略は龍興の時代でもはっきり言って無理
実際には道三の頃から東濃に干渉はしてるけど
龍興の頃に織田と戦って敗れて結局手を引いた
仮に村上上杉と同盟結んで北信を諦めて美濃全振りとする。
まず上杉と敵対する北条との同盟がおかしくなる。
次にメインの侵攻ルートが三河経由しかないので
先に徳川、さらに織田をどうにかしないといけない。
そうなると織田徳川斎藤を同時に敵に回すことになる。
加えて、美濃斎藤家を攻める大義がそもそも無い。
北条や北信との因縁を抱えたまま縁遠い美濃に遠征しても
家臣や国人衆に必ず不満が出るし士気も上がらない。 >>15
信玄のホモ相手は、農民から大出世したイケメンの高坂昌信
信玄が浮気を詫びる手紙も現存してるw
まー当時の庶民にとって、超美形男子との衆道なんて、見果てぬ夢の世界だろなww >>86
信長に滅ぼされる未来が見えたからだろう
それに、武田の家臣たちは実質的にほぼ独立状態で信玄には軍事指揮権くらいしかなかったから
いつも戦をして家臣たちを統制するしかなかった
良くも悪くも信玄時代の武田当主は領主連合の議長でしかなかった
独裁権を確立しつつあった父信虎を家臣たちと共に追放して当主になったから
信長みたいに独裁権確立に走ることもなかった >>99
徳川が思いっ切り武田を持ち上げて過大評価が蔓延したしなあ
でも、優秀ではあったよ。独立性が高く、簡単に言いなりにならない家臣たちを上手いことまとめ上げてた
最初は軽い神輿として家臣たちに担ぎ上げられたところからのスタートだから大したもんだよ
ただ、信長や毛利元就や大内義隆や尼子晴久よりは下だろう。過大評価でそれらの大名と同格か格上扱いされてきたけど… 武田は乱取りで兵糧や物資を賄って居たから、活躍できたのは信濃と甲斐のみ。山賊が何も無い平地で戦うと補給ができませんw>>1 「甲陽軍鑑」って昔はあまり信用の置けない二級史料と言われていたが 最近では「やっぱり合ってんじゃね?」と一級扱いになってるんだとな
まったく歴史学者とか専門家なんていい加減なものだ コロコロ説変えやがる >>106
底力というか独立性が高く簡単に言いなりにならない連中だから信長が死んだとなれば
そりゃ牙をむいてくるわな。信長もそれが分かってたから簡単に手懐けられないとして徹底的に弾圧したわけだし
それで武田旧臣たちは恨み骨髄だしで河尻秀隆は突然、周り中敵だらけになってしまったわけだ
滝川一益は相手が小田原北条氏で突然、約5万と言われる大軍で攻撃してきたからどうしようもなかった
上州と信濃5郡を失って畿内に逃げ帰ったから最上位格の織田家重臣から転落してしまったな 猫の額ほどの甲府盆地水耕出来る土地なんて限られてる
物資の調達かて渓谷沿いの細道滑落に怯えやっと搬入やろな
皆貧しいけど頑張った感じする >>114
あれは国語学者が丁寧に検証して文体から当時の史料だって証明したんだよ
一方の歴史学者は「内容と史実の時系列が合わないから後世の偽書!」で顧みることも無かった
そも時計もカレンダーも記憶媒体も持たない田舎侍に一切の記憶違いをすんなってのが土台無理な話でして >>114
>>117
甲陽軍鑑著者である高坂弾正は上杉軍の抑えを担当してたため、長篠の戦いに参加してない。
ただ、勝頼や帰還兵からの話を丹念に聞いて改竄なくまとめあげてる。
又聞きなので時系列ミスや勘違いが散見するため信頼されてなかったが、個々の情報は丹念で正確だとわかった来た。
ネットから文章拾ってテキトーにまとめあげるチャットGPTに聞いてるみたいな感覚かもしれん。(どれが本当で、どれが嘘かわからねえが大体合ってる) そりゃ、近畿一帯を押さえている信長に経済力で勝てるはずがない
信玄なんかしょせん田舎大名だろ
神君家康を唯一完敗させた男だから、過大評価されてるだけ
信玄をけなしたら、それに負けた家康は何だってなるし
10年長生きしても、普通に甲州征伐で信長にやられていただろ どうせ山梨、山梨にしては良くやってるで片付けられるのは現代と変わらないんだな 時代劇では水戸黄門の敵役でしかない柳沢吉保は実は甲斐を救った偉大な名君だった… こういうの歴史家の妄想次第でコロコロ変わるから何の意味も無い 甲斐にしても土佐にしても薩摩にしても
そこを攻める経済面での旨味がないから周辺から狙われにくく
一度国内をまとめ上げたら防衛は無視して外征に勢力注ぎ込める、って点が強みになってた部分はあると思う 高坂弾正は武田信玄の情事を記録したチンコウ用軍艦も書いて残しておいてほしかった 日本史世界史どちらも人殺しを指示してる人間を美化するなよ思う近代史は悪い感じにちゃんと書くのに >>119
神君家康を唯一完敗させたとは言っても兵力3倍だから正面から激突したら勝って当たり前だしな
負けてたら面目丸つぶれだった。しかし、上手いこと家康をおびき寄せて正面から激突に導いた手腕は
高く評価できる。信玄の戦術勝ちだろう。まあ、家康もまだ若くて経験不足ではあったかもね
>10年長生きしても、普通に甲州征伐で信長にやられていただろ
信長としても勝ったところで畿内に比べれば貧しく統治しにくい土地しか入ってこないから
守りを固めて時間稼いでその間に豊かな畿内を制圧して行けばよかったから一向一揆や
朝倉・浅井に味方して一時期信長を窮地に追いやった延暦寺よりは組みしやすい相手だったと思う >>120
まあ、そうは言っても優秀な大名には違いないから、これからは家臣たちに軽い神輿として担ぎ出されながら
苦労に苦労を重ねてなかなか言うこと聞かない独立性が高い家臣を上手く束ねて晩年はカリスマ戦国大名に
なったんだから、それで信玄スゲーで行こうぜ >>132
それなりに収入があったがだんだん採掘量が減っていったと言われている
信長の経済活性化政策の方が莫大な収入を得られたようだ
あと、信長は貿易でも大きな収入を得ていた。これが意外とバカにならない良い収入になるようだ 資金足りないなら西に行かないで徳川滅ぼしたほうが良くないか そもそも徳川なんていつでも「金魚の糞」
まともに自力で勝ったことなんて無いし、武田には当然、弱小真田にすらコテンパン
勝った話のほとんど多くが格上の同盟主力軍の「金魚の糞」しただけの事を手柄話に捏造してるだけ
姉川も長篠も関ヶ原もどれも都合の良い歴史改変の江戸時代の神君捏造話 敵が強ければ強いほど、逆説的に徳川の評価も上がる寸法 武田軍は投石部隊と穴ほったり砦つけたりする工兵部隊が強かったみたいね お前らは戦国と昔のネットの話を始めると
生き生きしてるな
楽しそうでなにより だからその理論だと家康が近畿地方抑えてた豊臣に勝てたのはおかしいでしょうが >>134
徳川を寝返らせるか織田軍主力を撃破したかったんだろう
信長が助けに来なければ徳川が寝返って、信長が助けに来れば主力決戦で信長撃破の戦略
しかし、信長は来ず、徳川も寝返らないという想定外の事態に… >>139
だから普通にやれば東は勝てない
西が無能なだけ
結局、毛利輝元が無能で石田が嫌われてた
そら福島加藤黒田が東で前田を抑えたのが大きい >>139
あとは北条の治世が善政で北条攻めのときも豊臣の補給体制が万全だったので戦乱で荒れなかった
現地調達するぐらい領地が荒らしていたら家康はその立て直しからやる必要があった >>141
だから家康が無能とはならんわな。
家康は西側武将に囲まれてるような位置にどっしりと構えた。
一見不利だが、寝返り結果に変換すると西側を囲んでる陣形に変換される。
まあ、秀吉時代から黒田親子がすげえからなんだが、それを言い出すと秀吉も同じだしな。 経済封鎖されて干上がるのは家康も同じ事でしょ?
何が違うの? 信長岐阜を抑えたから東への経済封鎖は一応なったけど完璧ではなく
日本海側の海路と伊勢の商人は信長無視して東で商売してた
戦国時代の商人はたくましく大名と対等よ
言うことなんて聞かない
武田が問題なのは甲斐の商人は地元で金を落とさずに駿河や三河で金を落とすから
武田領では経済が発展しなかった
そして穴山氏は甲斐盆地の西を支配して笛吹川があった
この川が富士川に繋がるから木材など物資の輸送に活用されて
穴山氏は経済的にも発展し独立して武田では強力な力を持ってた。
信玄ですら穴山氏の言うこと聞かないといけないレベル。
義信事件でクーデターが起きたけど
首謀者に穴山氏がいたのは確実なのに兄は許され弟だけ誅されて終わり。
それだけ穴山氏の力が強かったのと武田宗家の力が弱いのがわかる
更に甲斐には小山田氏がいる。
この小山田氏もバックに北条氏がいるから甲斐で力を持ってた。
つまり甲斐では穴山氏に今川がついて小山田氏には北条氏がついて武田宗家に圧力を掛けてたと
信虎追放とか義信事件とか武田滅亡時に穴山小山田が裏切ったのを見ても
武田宗家の力は信玄時代でも弱い。
信玄は普段、トイレに籠って政務を行ってたという逸話があるけど
信玄は部下を信用していなかったのが分かる 経済力が軍事力の源泉であることに間違いないよね
戦国時代でも現代でも経済的見返りの無い戦争は破滅を招くんだろ
中国ロシアのジリ貧ぶりもまさにこの点に尽きるんじゃないか?
経済的見返りの無い戦争で消耗するだけ自ら衰退を招く愚行 そもそも戦争とは経済の争いか宗教問題の二択よ
経済で争って問題が起きたら外交やって外交が拗れての最終手段が戦争というカード >>1
豊臣秀吉の没落は、朝鮮出兵の際、少数精鋭の水軍の雄、李舜臣に日本軍を壊滅させられたことが原因
その関係で国内の武将の信用を失い、財力も無くし、あっという間に没落した
徳川の世を作ったのは李舜臣であるという歴史学者もいるほど >>144
毛利軍が西国平定を後回しにしてでも早々に木曽川防衛線を固めて東軍が東日本に封じ込めてられたら家康も経済封鎖されて危なかったと思うよ。 >>144
関東は関東で日本で最大の平野で石高も大きいから
西から経済封鎖されたって言うほど干上がらなかったと思うな >>152
いくら米があっても火薬や弾が無いと戦には勝てないからな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています