1945年5月28日、ジョセフ・グルー元駐日大使は大統領が日本に降伏を呼びかける声明を発することがあるならば、降伏の条件として天皇制存置を認める文言を含むことをハリー・S・トルーマンに進言する

1945年7月1日、ステティニアスが辞任し、7月3日、新国務長官にジェームズ・F・バーンズが就任した。
トルーマン大統領一行がドイツ・ポツダムに向かった7月6日、まだ省内にいたバーンズに、天皇制存置条項をポツダム宣言に入れることを働きかけたメモを手渡した。

バーンズは、原子爆弾の力を使えば、ソ連に加勢してもらわなくても、本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)の前に日本を降伏させることが可能だと考えた。
もしそうなれば、戦後の世界でソ連の力を抑えることもできるし、ベストの結果となろう。
しかしこのタイミングで日本の降伏条件を緩和した場合、日本が降伏してしまい、原爆投下の機会を逸することをバーンズは恐れた。
そこで「降伏条件の緩和で日本の降伏を促進する」という路線については「原爆投下までは棚上げすべし」とトルーマンに説き、大統領を味方につけることに成功した。
こうして降伏条件を緩和することで、日本の降伏を促進すべしと説くグルーやスティムソンの陣営と、原爆を投下し、その威力を示すまでは、降伏条件を緩和すべきでないとするバーンズとトルーマンの陣営とにトルーマン政権は分裂することになった。