日本共産党スパイ査問事件 - Wikipedia

1976年、査問事件が国会で取り上げられると、改めてマスメディアの関心を集め、
取材が殺到した[20]。「週刊文春」で事件当時の袴田の供述書が公表され、
事件の一端が明るみに出た[20]。それまで宮本顕治から高く評価されてきた
袴田里見であったが、この件の責任を宮本から追及された[20][注釈 6]。
袴田は自己批判を拒否した[20]。
1977年(昭和52年)、当時党副委員長であった袴田が、
第14回党大会で中央委員に選出されず、失脚。
その後、事件に関して党や宮本を週刊誌などで公然と批判した。
袴田は規律違反(党外からの党攻撃)を犯したとして
同年12月30日共産党から除名処分を受けた[20]。
1978年の「週刊新潮」記事では、
小畑達夫に暴行を加えて死亡させたのは宮本顕治だったと述べた[20][注釈 7]。
袴田は、後に著者『昨日の同志宮本顕治へ』も発行している[23]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6


袴田里見「小畑達夫に暴行を加えて死亡させたのは宮本顕治!」