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台湾は明・清の時代から中国の不可分の部分であり、同国をめぐる問題は  「国内」の問題であるという中国の主張

まず独立共和国、フェルモサ

1894~1895 年の日中戦争で日本が勝利すると、北京の清政府は下関条約で台湾を永久に日本に割譲することに合意し、統治者・ 唐景崧を含む台湾のエリート層は現地の華族と力を合わせ、
日本の一部となることを防ぐために独立 したフォルモサ共和国を宣言した。

日本軍は圧倒的な兵力を有していたため共和国は短命に終わったが、特に台湾中部と南部の現地民兵は大きな抵抗を見せている。
正規軍の指導者は有名な「黒旗」司令官の劉永福であり、10 万人の兵士を率いていた。

それから台湾は 1895 年に日本の植民地となり、その後 20 年ほどの間に現地の閩南人、福建人、先住民による 日本統治に対する反乱や暴動が多く発生した。
しかし 日本人がインフラを整備し、道路、鉄道、港、病院、 学校を建設したことで台湾は1920年代までに良好な教育システムと医療を備えながらも厳格な統治を備えた豊かな模範的植民地となった。

1920~1930 年代にかけて蒋介石と毛沢東が中国の至上主義をめぐり争 いを繰り広げていたとき

国家主義者 も共産主義者も台湾をあまり 重要視しておらず、実際、蒋介石も毛沢東も 台湾の日本からの独立を支持していると報 じられていた。

1943 年 11 月のカイロ会議の準備段階 になってはじめて、蒋介石は台湾は「中国に 返還されるべき」と主張しており、
中国共産党(CCP)の指導者も遅ればせながら同様の発言 をしている。こうして台湾は、意見の食い違う 中国国民党(KMT)と中国共産党との間で弄 ばれる戦略的な駒となっている。

1945 年 8 月の日本降伏後、台湾の正式な地位は 曖昧なものとなった。1949 年まで、台湾は連合軍 に代わり中華民国(ROC)によって正式に占領 されたと見なされており、
その地位は、後に サンフランシスコ平和条約となる第二次世界大戦を終結させる正式な条約を通じて決定されることとなっていた。
アメリカ政府は台湾を正式に  「中国の一部」とはみなしていなかったものの、 蒋介石の国民党軍と中華民国が(困難に直面 しながらも)明らかに統治を行っており、

国民党政府自体は当然、1945 年 10 月 25 日の退位記念日に台湾が中国に「返還」されたという立場をとっていた。
しかし米国政府はそうした 立場を認めず、アメリカ陸軍のダグラス・ マッカーサー将軍などの一部の軍人は、国連の 後ろ盾の下で住民投票を推進し続けた。
マッカーサー将軍がハリー・S・トルーマン 米大統領と対立した後は助言が聞き入れられることはなくなってしまったものの、この議論は 米国がこの期間中「台湾は中国の一部」 という立場をとっていなかったことを示 している。



これが事実で実際は世界的には地位決定は曖昧なまま、ていうかまず日本政府が台湾を国と認めてない