北イタリアの古都ボローニャから車で1時間ほど北上した田舎町からモレノが招待を受けたのは、日韓W杯の翌年、03年の盛夏だ。

 30年以上続く地域のサッカー大会の栄えある決勝戦レフェリーに、と知人の知人を介して請われたのだ。

 モレノ来訪を知った地域審判協会は嫌悪感情を爆発させ、大会へのレフェリー派遣をボイコット。ゲストの安全を危惧した主催者は、空路ミラノ入りしたモレノに送迎車と専属ボディガードを手配した。

 物々しい雰囲気の大会当夜、試合会場に本人が姿を現すと、けたたましいブーイングと抗議の指笛が浴びせられた。モレノが控室を出てグラウンドに入ろうとした途端、スタンドから生卵の雨が降った。

 約3000人の荒ぶる観衆を地元の名士である主催者がなだめて、ようやく試合が始まったのは真夜中0時近く。緊張の中で主審モレノは試合を90分間仕切り、何とか終了の笛を吹いた。

 ただし、“悪魔”を眼の前にした群衆の興奮は試合後も収まらず、セレモニーを前に呪詛の言葉を吐く老人がモレノへ赤ワインをぶっかける事態まで起きた。

 当時のローカル紙は5000ユーロの報酬があったはずだと伝えているが、どれほど侮蔑を受けても生卵とワイン塗れになっても、モレノは無表情のままだった。

 彼の怒ったところや笑った顔を誰も見たことがないまま、時が流れた。

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