ベニート・ムッソリーニの死

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ロレート広場 編集
1945年4月28日の夜、ムッソリーニとペタッチの遺体は、処刑された他のファシスト党幹部の遺体とともにバンに積み込まれ、ミラノに向かって南へと運ばれた。4月29日の未明、バンはミラノに到着し、ムッソリーニらの遺体はミラノ中央駅に近いロレート広場の地面に投げ捨てられた[45][46]。ロレート広場では1944年8月、パルチザンの襲撃および連合軍の空爆への報復として15人のパルチザンが銃殺された後、その遺体が見せしめに放置されたという経緯があり、パルチザンがこの広場を選んだのはその意趣返しだった。ムッソリーニは15人のパルチザンが処刑された当時、「ロレート広場で流れた血のために、我々は高いつけを払うことになるだろう」と語っていたと伝えられている[46]。

ムッソリーニらの遺体は積み重なった状態で放置された。4月29日午前9時を回る頃には、おびただしい数の群衆が広場に詰め掛けていた。群衆は遺体に野菜をぶつけ、唾を吐きかけ、尿をかけ、銃撃し、足蹴にした。ムッソリーニの顔面は殴打され、変形した[47][48]。あるアメリカ人の目撃者は、これらの群衆を評して「邪悪で下劣、無秩序」であると述べた[48]。


逆さ吊りにされたムッソリーニたち。ムッソリーニ (左から2番目)、愛人のペタッチ (中央)、その他のファシスト(ミラノ、ロレート広場にて)
その後しばらくして、ムッソリーニらの遺体はスタンダード・オイルのガソリンスタンド(建設途中)の骨組みの桁まで持ち上げられ、食肉用のフックに引っ掛けられて、逆さ吊りにされた[47][48][49]。逆さ吊りというのは、吊るされた人物の「汚名」を強調するために北イタリアでは中世から行われてきた方法であった。ただし実際にムッソリーニらを逆さ吊りにした人々によると、これは単に遺体を群衆から保護するための処置であったという。ロレート広場での一連の出来事を記録した映像は、彼らの主張を裏付けているように見える[50]。


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9c/DeadMussolini.jpg/170px-DeadMussolini.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c7/Mussolini_e_Petacci_a_Piazzale_Loreto%2C_1945.jpg/350px-Mussolini_e_Petacci_a_Piazzale_Loreto%2C_1945.jpg
https://m.youtube.com/watch?v=TVr3iRqdZPE