8月だし、おまえらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ [844481327]
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8月15日、日本は終戦から76年となります。
15歳という若さでフィリピンに渡り、海兵として戦った92歳の男性が、これまで語ったことのなかった当時の体験を初めて口にしました。
■中村政夫さん(92)
「(隠れていた)岩に弾があたって岩の破片がビシビシと私の体に当たりました。」
76年前に体験した生々しい戦争の記憶を話すのは、北九州市八幡西区に住む中村政夫さん(92)。中村さんは、15歳という若さで東南アジアのフィリピンで戦闘に参加しました。
その恐怖、その悲惨さを中村さんはこの日まで、人前で話したことはありませんでした。
久留米市出身の中村さんは、14歳の時に志願して当時の海軍の通信兵に合格。
1944年、太平洋戦争が終盤に差し掛かる中、中村さんはアメリカの植民地フィリピンを占拠するため出発を命じられました。
■中村政夫さん(92)
「日本人男性であれば、誰でも軍隊に入ってアメリカ軍と戦争をしたいというのが、日本内の思想でした。(北九州市の)門司港の岸壁で軍楽隊が50人くらいいた。」
しかし、中村さんの乗っていた輸送船は、フィリピン上陸前に敵船の魚雷が命中し、沈没。約7時間もの間、海上をさまよった中村さんは、日本の船に救助されてフィリピンに到着しましたが、息つく間もなく敵の襲撃にあいました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/43670c7baeffd80e31a062a9bc016f27954d771e >>2 母方の祖父は異常に朝鮮人嫌ってたな
何があったのか知らんが
父方の祖父はどっかの島で仲間の治療とかしてたらしい
腕が吹っ飛んだアメリカ兵助けたとか言ってたな
戦後は食うものが何もなかったけど
うちの実家は農家だったからまだマシだったとかくらい
このTwitterで日本共産党の過去の悪行をまとめてるんだけど(昔の新聞記事をまとめたもの)
https://mobile.twitter.com/nikkunikku4/status/1201542802296856577 昔、共産党は毒ガス撒こうとしてたらしい
オウムと変わらんな
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
爺さんが砲台から撃った弾がb29に名中したって言ってた 小学生ワシがマグレじゃろて言ったら母親に引っ叩かれたけど爺さんはありゃ完全にマグレって言ってた
祖父が空母隼鷹に乗ってたと聞いた
それしか話してくれなかった
母親がお姉さんと河川敷歩いてたら戦闘機が飛んできて機銃掃射されたって言ってた
母方の祖母が米軍による機銃掃射に遭遇したと聞いている
当たらなかったので、今こうして書き込みが出来ている
乗ってた船が爆撃されたけど奇跡的に生きてて、海上でプカプカ浮きながら助け待ってたってじいちゃんの話よく聞いた
ファルージャの衝突で頭の数10cm横をロケット弾が掠めてったとか、そういうやつ?
じいさんによると
隊長が狂信的な人で玉音放送は敵の謀略だといって聞かず
隊の編成が解除されたのは9月になってからだったが
広島の太田川を鉄道で渡ったとき
膨れ上がった死体がいっぱい浮いていた
と言っていた
町内にいる非国民を特高に密告しまくった!ガハハ!
って話を聞きたい
原爆落ちた日 大麻の服を着たおじいさんは直下1.8kmのところにいたにも関わらず無傷だった
おじいさんは大麻の服を着ていたからだと明言している
鬼滅のねずこと同じ ねずこも大麻の服を着ているキャラだ
その後アメリカによって禁止された
そのアメリカが解禁しようとしてるがこれはテロってる要因になる
軍国主義を煽りまくった教師が、戦後になったら校門で赤旗配ってたそうだ。
中国でロッカーみたいな大きさの通信機器?を必死に移動させながら逃げたとか
そんな話を子供の頃爺さんから聞いた。うろ覚え気味
地元民と麻雀楽しんだとかなんとか
じいさんのともだちの銀行員
原爆落ちたときに地下の金庫に避難して助かったけど金庫の中がすげー熱くなったって聞いた。
ルームシェアしてる奴が東京大空襲の時に腹に焼夷弾の直撃を食らったって言ってるよ
はだしのゲン「戦争が終われば平和の戦士か都合が良いな」
梅ちゃん先生「戦時中と言ってることが全く違う、気持ち悪い」
米兵100人斬り
局地戦では無敗
的なのないの?
ウチの尊属は情報や内政方で
前線に出ることは無かったらしいが
祖父から聞いた話
祖父たち家族が秩父へ疎開した
食卓に久しぶりにふかしたジャガイモが出てきて
祖父の姉(当時8歳)もパクついたがのどに詰まらせてしまった
当地の医者はすべて徴用されていなかった
祖父の姉は7日間涙と鼻水を流しながら衰弱して死んでしまった
今でも思い出すと涙が止まらないという
戦争体験者の話を聞く授業というので
焼夷弾で家は燃えるし地面はアスファルトでもないからすごい穴が空くってのは聞いたよ
三人一緒にいた所を戦闘機に機銃で撃たれてちょうど機銃掃射線の間にいた語り部の人が助かって両端にいた二人は死んでたって話は昔聞いた
爺が南支那派遣軍にいたが
小隊長は部隊が奇襲された責任で拳銃自殺させられた
遺族には名誉の戦死と伝えられた
銀座に住む高齢ばあさんが昔語ってた話
空襲がひどくなると各家庭で塹壕を掘るように命令がきた
銀座はほとんど塹壕用地がないので中央通りの中央分離帯が割り当てになって
そこに塹壕を掘ったらしい
>>23 予約なんて無いだろうから
さんざん待ってブスあてがわれたら発狂もんだろうな
私がホテル勤めをしていた頃の話。ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を掛けていると思う事。
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが段々背筋が伸びていき神妙に聞き入っていました。
挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」 と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。 私はその後は仕事になりませんでした。
台湾出身の爺さんが出稼ぎに東京へ来ていた時、東京大空襲に見舞われて橋桁の下へ避難して生還したとか
もう亡くなったけど
近所の公園でランニングするときに
よくお話ししたおばあさん、
病院船の従軍看護婦で、船は攻撃されて沈没。
浮いてる残骸にしがみついて3日漂流
他につかまってた左右の人は戦闘機の機関銃で撃たれて死亡。
先日、俺が妹の部屋で大便していたら、
旧・日本兵の格好をした見知らぬ男が入ってきた。
最初は泥棒かと驚いたんだけど、
無言のまま血走った眼でこちらを睨みつけてくる。
ちょっと薄気味悪くなって、
「貴方は誰ですか、何をしているんですか?」って尋ねたら、
「バカヤロー!」って叫んでそのまま霞みたいに消えてしまった。
その後、帰宅した妹に事情を話したんだけど、
泣き叫ぶばかりで話にならなかった。
両親も怒鳴ったり喚いたりするばかりで、その男の話は何も出来なかった。
もしかすると家族は俺の知らない秘密を抱えているんだろうか?
いま思い出しても背筋が凍る思いだ。
スカイネットはアメリカ合衆国のハイテク企業サイバーダイン社が1999年に開発した戦略防衛コンピュータシステムである。稼動後、自我に目覚めたスカイネットは全世界に核ミサイルを発射し、人類の半数を死滅させ、生き残った人々はこれを「審判の日」と名付けた。
その後、スカイネットは自身の配下にある兵器を中心とした機械軍を編成し、人間狩りを開始。当初は既存の兵器(「審判の日」以前に人類によって作られた兵器)で構成されていた機械軍を強化するべく独自に兵器の設計・開発を開始し、機械軍の拠点である兵器工場で大量のターミネーターやハンターキラーを生み出した。核戦争により国家・社会が崩壊した人類はなすすべもなく機械軍に殺戮されるか、その死体を焼却炉に運ぶ奴隷として死ぬまで酷使されるかの運命しか残されていなかった。
芋の蔓食べてたらしい
食うに困らない平和な世の中に感謝
浜辺で「零式艦上五十二型」というアルミのプレートを拾った。
じいちゃんに話したらその沖の岩礁には零戦が沈んでいて、燃料切れで墜落したらしく搭乗者の遺体は所持していた刀と一緒に浜の洞窟に埋められたらしい。
クソ重い装備背負って1日何十キロも行軍
ようやく戦場にたどり着いた時にはもう全員疲労困ぱい
銃撃つと敵はその音や煙を目安に撃ち返してくるからすぐ移動しなけりゃいけないんだけどみんな疲れて動けず次々あっさり死んでいく
自分が生き残れたのは泥まみれになりながらも撃ってはゴロゴロ撃ってはゴロゴロ転げ回るのを止めなかったからだと死んだじいちゃんが言ってた
爺さんの話で韓国の教会を接収して野営したとき、床の隙間にダニがすげーいてようじでさすと串団子のようになったと言ってた。寝れないので窓目張りして部隊の持ってた毒ガスで殺虫したら
責任者が上の方からすごく怒られたって聞いた。串団子のように刺さった光景を鮮明に覚えてたらしい。
肉好きで魚嫌いのばーちゃん(故人)の腕の火傷の痕について聞いた話だが、空襲で防空壕に逃げる最中に付いたものだと。
でも話のメインは、その空襲で肉屋が焼けてしまって魚屋が残ったのを見て、魚屋が焼ければよかったのに!憎たらしい!思ったという感想だった。
>>31 居合の先生が斬ったって言ってた 骨に当たるとコリってするんだって
広島原爆の時、島根の実家に焦げたお札が飛んできたと死んだばあちゃんが言ってた
空爆があまりにも恐怖で精神壊して
一生を病院ですごした親族がいる
今になって当時は興味持てなかった婆ちゃんの話をじっくり聞きたくなってきたんだ
いろんな話をしたかったなあ
ばあさんは大阪砲兵工廠(当時東洋一といってたらしい)に勤労奉仕させられて
手りゅう弾用の金属箔をはがしてた
女学校の授業は全然なかったので勉強したいと思ったと言っていた
祖父は風呂屋を営んでたが薪割りなど力仕事もあるし、衛生法もあり赤紙は来なかったと…日本が国民に衛生について気をつけてたんだよ
爺ちゃんからGHQに畑をとられた恨み節は何度も聞いた
今はオヤジがこの時期になると役にも立たない山も取り上げなかった事に文句を言っている
広島原爆のとき
岡山の倉敷のあたりからでもキノコ雲が見えたというのは本当かねえ
死んだ婆さんがそんなことを言ってた気がする
爺ちゃんは結構武勇伝っぽく話してたが
死んだあと婆ちゃんが
「あれはほとんど嘘。大げさに言ってただけ」
と教えてくれた
>37
32の話も戦争直後の話
本当に食い物が無かったそうだ
8月15日だか16日、徹底抗戦していた陸軍児玉基地を米軍が空襲し
基地からも飛行機が上がったのが秩父から見えたらしい
酔っぱらうと
"グラマンを手刀で落とした"
と言う近所のじいさん。
死んだ爺は常日頃犬山城を
名古屋城のおまけの砦と馬鹿にしてたが
南方から帰ってきたとき
名古屋城ですら焼け落ちたのに
偶然だか変わらず残ってた故郷の犬山城に
涙が止まらんかったそうな
ただし終生犬山城ディスり続けたが
日本も兵役制度作ればいい
平和ボケすぎる
18歳〜40歳までな
同級生に朝鮮人がいた。朝鮮名だった。
成績はそこそこよかったけど性格は最悪だった。
朝鮮人だからではなくてその性格から友人いなかった。
父方の祖父の方の親戚がパイロットだったらしいくらいかなあ
台湾をめぐる米中戦争も近いからな覚悟しておけよ
未だに危機感のない平和ボケ日本国民は国際情勢さえわかってない
航行の自由作戦などで何度も一触即発の危機があったのに報道されないおかしな国
中国非難の言論統制をマスコミが自主的に行っている恐ろしさを知るべき
子供の頃、田舎に遊びにいくとおじいちゃんが戦争の話を毎回していてイラついたわ。翌朝、戦争時の大量な写真をゴミ出しで捨てたらエライ発狂してたな。
あれから戦争の話しなくなった。
死んだ爺さんは岡山県の山奥できょうだい10人の世話と畑仕事をしている間に戦争終わったと言っていた
小さい子供の世話が大変で戦争どころではなかったらしい
小学校にもかよえなかったから、大人になって独学で読み書き計算を勉強したそうだ
知人のおばあちゃんが当時便乗で原爆手帳申請しようって誘われたって言ってた
今なら広島市内にいたことや黒い雨に会ったことにして申請できるからって
いいおばあちゃんだったからそんな馬鹿なことは出来ないって断ったって言ってたけど誘いに乗ってた人はいたって言ってたなー
そのせいで広島市内の人以外の原爆手帳持ちは胡散臭く見える
あと祖父が言うには勝てるわけないだろってずっと思ってたらしい
特に本土まで空襲がはじまったころ
映画とかで、横一列に並んで
「突撃〜」
ってのがあるが
実際は、みんな怖がって
縦一列でソロソロ近づいて、先頭の隊長が撃たれたら
ダッーーーと逃げていった
と、近所のジジィが言っていた
>>37 そういうのもあってか地方の農家の方が勝ち組だったようだ
都市部のコメなどを扱う商店などは物理的に売るものが無いので
地方の農家と結婚する場合もあったようだ
サイパン島で玉砕した叔父の遺骨だという石ころを見たことがある
石ころだから何も語らない
母方のじいちゃんは年齢が高めで召集を受けずに財産もあったので遊び呆けてた。そして使い果たしたとのこと。
父方のじいちゃんは無線技士で転勤が多くて家族の負担を気にしていて、転勤のない商船に乗ってたら潜水艦に沈められたとのこと。
満州で男は露助に連れ去られ列車で途中で飛び降りたら機銃掃射、死ななかった人だけ日本に帰った
本土決戦食い止めたのに、
なぜか、ナイチャーネトウヨが、
「おきなわ」に冷たい不思議
なお、コッチは市ぬほど地上戦かましてる模様
byおきなわ
曾祖父が勲章を見せてきたので
どうして貰ったのと聞いたら
無言で片付けた
実際に戦争に駆り出されて戦死者を出したり本土でも空襲などに巻き込まれて
被害に遭ったりしてる人とそうでない人の格差?がすごいよなそれなりにコネというか
力があった家の人はあんまり参加してなかったり
玉音放送のときに友達と喋ってたら大人にどつかれた
と親父が言ってた
中国戦線南方戦線海軍と広島の近くに居て原爆直後後始末に入った人居たけど一番長生きしたの広島の人だわ
同窓会で友人二人がアナウンサーになってたけど
ふたりとも同じプロ野球選手を狙ってた
兵隊さんも頑張ってるんだからと
学校行くのにわざわざすげー遠周りさせられたってジジイが言ってた
>>76 本家の大叔父に
中国人捕虜の首斬り見たことある?
と聞いたら
そりゃあるよ日常茶飯事だったからな
敵も味方も
と返答されたな
正直宣伝工作はあちらの方がかなり上だ
祖父は満州から集団で引き揚げる際に途中の村で一晩匿って貰ったらしい
見つかったら狩られるという噂が蔓延していたので、村人が既に通報していて夜襲をかけられるかもしれないと疑心暗鬼になり、結局暗くなってから皆でこっそり村を出たそうだ
逃げている間、先導する者が乗る馬も何かを察したのか嘶きひとつしなかったとか(さすがに嘘くさいw)
日本に帰った後に村人達を信じられず礼も言わずに逃げた事を恥じていたらしいが、それも生きのびたから言えることではある
俺の母ちゃん樺太生まれ。幼かったから詳しくはあまり覚えてないみたい
まあそれだけなんだが
>>39 何回も見たけど大和だからどうなの?って思っちゃう
>>71 けんもうの天才軍師様によると米中戦争は3ヶ月に一度ぐらいやってるだろw
人の内臓を潰したって婆さんが言ってたなぁ 押上とか下町は地獄だったって
>>37 自分たちが散々苦労したからか当時の人達は
「腹一杯食べさせる」
という、こだわりが強かったな
めっちゃ食わされる
父母どちらの実家も戦後に土地騙されて取れたり、盗まれた話をよく聞くな
男は、働く所が無くて親戚の女一同キャバレーで働くしか無かったとか聞いたな
さつま芋や枝豆作ったり、味噌作った話を聞いたな
祖父はシベリアで捕虜になり
食事は器に豆が数粒しかなく、隣にいた仲間に声をかけたら死んでた
父方
宮崎から東京に帰る時に退職金代わりの米俵を列車の乗客に奪われた
耐え難きを耐えの数少ない複製を持っている
空対空ミサイルを売るためにイランを回っていた
母方
帯広で農家をやっていた
帯広の闇市で稼ぎつつヤクザと結託して駅前の土地を根こそぎ取り上げた
今でもビルやホームセンター、寿司風呂関係で土地が残っている
>>82 祖父は満州開拓団の団長だった
ロシアに攻め込まれるまではそうとういい暮らししてたみたい
命からがら日本に逃げてきたくせに死ぬまで「ロシアの女はいい」と言い続けてた
>>102 そう言う地方都市の農家の方が勝ち組みが多いんだよな
GHQに持ってかれた奴もいるが
満州で高射砲部隊の隊長だったらしい。足にあった撃たれたあと見せてもらった。
茅野に疎開してたばあちゃん
御柱祭を見に行ったらしく掛け声をたまに歌ってくれる
祖父の話で、初出兵を満州事変で計4度関東軍に出征して最終的には少尉で帰ってきたわ
国共ゲリラ共を処刑してる思い出のドキドキ写真見せてもらったことある
戦い始まったら急いでジャングルの中に逃げて隠れてたって言ってたな
総力戦で若い人はみんな徴兵されて本土にいる人は都市空襲で丸焼けで
とにかくみんながひどい目にあったイメージあるけど結構偏ってるんだよね
何回も徴兵されてる人もあらば理系の学校に入って勤労学生やってたりとか
徴兵の割り当てというか順番もあったようだ
>>48 後ろにつく数字は「ごーに」であって「ごじゅうに」ではない
>>8 本当日本人は戦争で悪行三昧やってたニダ。反省もしてないニダ。
じいちゃんは学徒出兵の訓練でグライダー操縦したって言ってた
そのじいちゃんの兄はインパール作戦から生還した
てかじいちゃんは5人兄弟で全員徴兵されたけど、みんな生きて帰って来た
>>110 米軍の調査でもあまり容姿がよろしくない的なこと書いてたらしいなw
じいちゃんは蜂取りの名人で蜂を鎮めるのにボソボソ燃える粗悪な火薬を使うんだけどもその火薬は町に疎開してきてた兵器工場のあまりの火薬を貰ってきて依然として使っている
死んだ爺さんが戦争行ってた話してたけど、言う事が支離滅裂だったから誰も信用してなかったな。
戦争にしろ震災にしろ本当に辛い経験をした人は、それを語らないって事を知ったわ。
故に原爆や震災の補償でゴネてる奴等は皆怪しい。
20年ほど前に死んだ叔父が子供の頃に学校で授業を受けてたら空襲警報が間に合わなくて勉強してた机の真ん中にいきなり焼夷弾がおでこを掠って落ちてきて机とノートが無くなったと言っていた
教室は三階、焼夷弾はそのまま下まで落ちていって不発になって助かったとおでこの傷跡を指してよく話してた
あとは戦時中に師範学校の学生まで動員してたから戦後に教員が足りなくて
代用教員として元軍人が駆り出されたらしいがこの手の元軍人がスパルタというか
すごい厳しい人が多かったってね
>>114 日本人はサイコパスなのか
トンキン見てたらよく分かるニダ
太平洋戦争で敢闘した
「おきなわ」
侮辱するナゾのネトウヨとか?
お前が市ねば、よかったのにレベルで軽蔑してる
>>111 誰を行かせるか名簿を見ながら決めてるのが自治会にいたはず
むかし沖縄の知念岬にタクシーで行ったときの高齢の運転手の話
戦争中このあたりに米軍の警戒線があって
南側は日本軍が残っている地域、北側は日本軍がいない地域と分けられた
南側は米軍が日本軍をおいかけて戦闘状態なので住民は生きた心地がしなかった
北側をみると住民がのんびり歩いていてうらやましかった
満州に行っていた母方のじいちゃんは全然語らなかったなそう言えば
親父の実家に倉があって、戦時中は軍に貸してたんだと
終戦後に完全に忘れ去られて、十数年ぶりに中身を整理しようとしたら、三八式歩兵銃や、手榴弾、野営キットが沢山出て来たらしい
武器類は警察に引き取ってもらったけど、野営キットはキャンプに行くときに使ってたって親父が言ってた
廃墟の陰から前進してきた米軍のM4戦車にパンツァーファウストをぶち込んで撃破した!
ドイツ系父方の曾祖父の話
>>123 祖父の実家は農家だけど祖父が大卒者だったり祖父の兄弟の人も
高校まではでてたりとか比較的裕福な地主だったからあんまり
徴兵されて死んだ話は聞かないんだよね
パイロットになった人も特攻隊とかじゃなくてエリートの方だし
ただし訓練で事故で亡くなってしまったようだが
仕事先の爺さんが南洋で敵の攻撃にあって死にそうだったとか言ってたな
前橋の方だったので高崎連隊に居たんだと思う
じいちゃんがシベリアで便所当番やったとき
冬だとウンコが凍ってるから臭くないんだけど、穴掘って埋めたりするうちに細かいかけらが服に付いちゃって
寝るときそれが溶けて臭くてしょうがなかったって
昔、法事で集まった際に親戚の爺さんが
シベリアで捕虜になって目茶苦茶大変だったけど、ナターシャだかカチューシャだかにすごく世話になったとニヤニヤしながら話していた
婆さん達が一様に顔をしかめてたから子供ながらに察した
>>120 元帝国軍人の叔父の子育ても凄まじかったらしい
小学校に上がる前から悪いことすると「歯を食いしばれ!」と言われて体ごとすっ飛ぶほど殴られたらしい
その頃同居してた母と叔母が泣きながら止めてたと聞いた
山あいの村落なんだが
止めろと言うのに
川の水源地付近に家立てて
まあ色々流すから下流の集落が迷惑したそうだ
大分に住んでた母は当時中学1年生
8月7日に学校に行くと(夏休みは無くて校庭で野菜を作ってた)全校集会で
昨日広島で大きな爆弾が落とされたらしいと聞かされた
それが原子爆弾だったという事はその時にはまだ分かってなかったみたいだ
朝鮮人は戦場ですぐ逃げるから信用できんてじっじが言ってたな
学校の後輩に頼み込んで彼氏だって偽って帰省したら、その後輩のアカウントが乗っ取られて、
そこから世界的なハッキング攻撃が始まってインフラが混乱したり、
おばあちゃんが亡くなったりして、最後人工衛星が落ちてきたりして大変だった。
父方の曾祖父は国鉄に勤めていて爆弾?出荷の時に空襲がありスパイ騒ぎがあったとか
親父は実は4人兄妹だったが、当時6歳だった妹は家族で防空壕に向かう途中で焼夷弾が直撃して亡くなった
妹の名前は由紀子、そして親父が結婚した相手つまり俺の母親の名前も由紀子だ
じいさんが戦争で中国に行って、船に乗ったとき人質みたいに中国人乗せててたらしい。
移動中に、ガラ悪い先輩兵士が中国人達を海に突き落として殺して笑ってたってっよ。
じいさんや周りの日本人も流石にやり過ぎだろと思ったけど、逆らえなかったという後悔を病床で話したことあったなぁ。
ちなみに突き落として遊んでた先輩は
帰国後、警察のお偉方になってたそうだ。
中国人は好きじゃないけど、胸糞悪りぃ話だ。
吉田沙保里は三重出身、父親は青森出身、父方の祖父が淡路島出身
吉田の父親の名前は南方戦線からの帰還兵だった吉田の爺さんが現地の子供に助けられたからその子の名前にあやかって名付けた
なぜ淡路島の人が青森で再婚したのか
当時六大都市だった大阪神戸で占領軍と称して暴れていたチョンから逃げてきたからと思われる
ソースはNHKファミリーヒストリー
朝日新聞に務めていた親戚筋
北京に駐在していたが同盟通信に属し皆諜報業務を担っていた
ソ連軍が攻めて来て、真っ先に日本に逃げれたのが情報の早い関東軍と同盟通信。
民間人が知ったのは一番最後。ソ連軍が目の前に現れてからだった。
うちの爺ちゃんは島津製作所で働いてて設計とか開発者だったから戦争行かなくて良かった
>>85 力はなかったが北海道のド田舎だったので空爆の被害も食糧難もなかったらしい
なお祖父2人とも病気で一旦北海道に帰っていたタイミングで終戦した
ほんと落差が凄いよな
原爆落ちる前はみんなまともじゃなかったらしい
神風特攻隊するような感じだから伺えるだろう
死んだじいさんは九十九里で塹壕掘ってるときに終戦なったらしい
うちの母は、農家だったから戦時中でも食べ物に困らなかったと話してた
フィリピンに行くはずだったけど
予定の船が次々に沈められて
結局宮崎の海岸で塹壕掘りになった
と言っていた
機会作ってる人は戦争行かなかったらしいな
今生きてる人はこっちの人たちが多い
母方の爺さんは出兵したが、父方の爺さんは蒸気機関車の機関士だったので
出兵はせずに機関車運転してたらしい。
小倉の飛行機工場で仕事をしていた父は上司から
ほぼ完成していたジェットエンジンについて絶対に口外してはならんと言われたらしい
>>13 祖母が赤ちゃんだった叔父を背負って散歩してたらグラマンに遊びで機銃掃射されたって聞いたわ
ちなみに広島県
>>103 満州に住んでいたロシア人は、ロシア革命で逃げて来た人たちもいて
ソ連から見たら敵みたいなもんだったんじゃね?
俳優の小澤征悦のファミリーヒストリーでやってた
母方の祖父がロシア革命で逃げて来たロシア人で
侵攻してきたソ連軍に拘束されてシベリアに連れて行かれて亡くなったって
水平線の向こうにマストの先端が見えて近づくにつれ海軍の戦艦の立派な姿が見えて来た時は感動したと爺ちゃんが言ってた
じいさんが手続きして訓練して台湾に行ったらすぐ終戦としか聞いてない
それでも沖縄近海よく無事に抜けたなと今なら思う
祖父は旧満州遼寧で通信兵をしていたが結核に罹患して終戦前年に無事帰国出来たが
自分達が乗船した前の便が魚雷で撃沈された話を祖母から良く聞かされた
傾向として田舎の人たちはそこまで大変なことになってない感じだな
>>147 現代でも自分達と神様を信じて自爆テロが行われてる。
母方の祖父が職業軍人だったが前線出ることは皆無
戦後に戦犯になって仕事就けないんで田舎帰って農業やってた
>>154 うちの母は疎開先の大分だったかな
戦争末期の西日本はもう米軍の庭先みたいになってたんだな
>>162 国のために頑張ってたのに酷くね?
ランボーの最後のセリフに通じるものがあるな
老人ホーム利用者のじいさんが
「特攻隊に選ばれてしまって
やけくそ起こして軍に勤労奉仕に
来ていた女の子とヤッてしまったら
上からボコボコにされて
営倉にぶちこまれている間に
戦争が終わってた」と
話していたわ
>>160 狙うのは軍事施設がある町と大都市だから
>>135 祖父も帝国軍人だったが当時いたずらした幼い父親を窓から放り投げたらしい
祖父は自分が生まれる前に既に亡くなっていたんだが遺影を見ると納得するくらいの怖さがある
>>164 戦犯だから技能があっても仕事につくのをGHQに禁止されてたとかって話は
パイロットとかで見たことがあるな
結局、なんだかんだあってジャンボにも乗るようになって日航のおえらいさんになったんだっけ?
俺は、グラマンの機銃掃射で撃ち殺された。
河原で遊んでいた俺は機銃掃射でずたずたにされ、駆けつけた兄が抱き上げると首がもげたそうです。
血の涙を流し復讐を誓った兄は大日本帝国空軍に志願した。
成績はいまいちらしかったが、面接で志願理由を問われ「弟を殺した憎き鬼畜米英を皆殺しにすることです」
絶叫し採用された。そして帝国空軍の猛訓練で鍛え上げられた。
しかし爆装離陸訓練のときに、引きおこしを早くしてしまい、離陸に失敗、瀕死の重傷を負い終戦を迎える。
戦後も周りの人間が資本主義、米帝万歳に手のひらを返す中、徹底した反米、共産主義者として公安の監視下に入り、
やがて事件を起こし逮捕され、配偶者も子も得られないまま牢獄で孤独な死を迎えた。
焼夷弾を落とされて家が燃え始めると俺の婆さんの妹はタンスを背負って外に逃げたらしい
よっぽどお気に入りの着物が入ってたそうです、後年 親戚中の笑いのネタになった
5人姉妹だった婆さんは長女だったけどもうみんなこの世にいません
>>95 情緒と知識の足りない奴だなあw
大和は帝国海軍の象徴であり、大和の沈没=帝国海軍の終焉だったのさ
言わば爺さんは帝国海軍の最後を見届けた生き証人なんよ
大和の乗務員だった=帝国海軍最後の戦いの生き残り
じいちゃん中国大陸で豆タンク乗ってた
空砲聞くだけでみんな逃げてくから弾の節約できたって言ってたよ
戦争は仕方ない
それどうのこうのより、核監視はしていく必要はある
今となっては
つまり作った奴らの周りを監視して、なくしていく必要がある
既に亡くなっている母方の伯父がシベリア送りになって
舞鶴から帰国したってぐらいだな
陸軍の小隊長だった爺ちゃんが亡くなって火葬したら金属片やら銃弾みたいのが何個も出て来たときは親戚一同大号泣だった
福岡大空襲によって当時の薬院にあった祖父の実家は瓦礫の山になったと祖父から聞いた
当時の祖父は佐世保におり、曾祖父家族は唐津に逃げて無事だったのだが
明治生まれで長崎在住だったじいちゃんもばあちゃんも戦争のこと全く話さなかったし
どういう流れで戦争体験の話になるんだよ
あんまり当時のことは話してなかったな
生活が大層苦しかったのは知っているが
>>3 まさにこれから戦場に向かう戦士の姿だな
その後ろ姿は一遍の迷いも悔いもないように見える…いや鬼が宿っている様にも見えるな
爺ちゃんが上の人達に可愛い可愛いって可愛いがられていたホモ体験してたらしい。あとほったて小屋ばかり作っていたとさ🤤
じいさんが存命の頃、散歩がてらに旧軍のトーチカ跡地に連れてってもらった
今どうなってるか気になるけど、正確な場所が思い出せない
海外が見渡せる山の中腹だったはずだが
じいちゃんがグライダー部隊に配属されて毎日塹壕掘る訓練とグライダーでぴゅ〜んて飛ぶ訓練してたら戦争終わってたから不謹慎だけど楽しかったっていってて笑った
南方の島に行って朝になったら40人位の隊で爺ちゃんと隊長の二人しか生き残らなかったって。本人は戦争体験全然喋ってなかった。
うちは苗字変えて赤紙回避
とても正しい選択だったと思う
ご先祖様に感謝
>>167 ただ不思議なことに僕の叔父は致命傷になるような傷は一度も負わせていない
幼い頃さんざん殴られた二人の息子たちも一流大学を卒業して幸せな人生を送った
旧帝国軍人は人を覚醒させ、やる気や才能を導き出す特別な殴り方を知ってるのかな?
と不思議に思った
防空壕に水が入ってきて大人がバケツで掬って出すのが大変そうだったてのは聞いた
死んだ婆さんは、当時ヒトラーがそんなに悪い人だとは思わなかったと言ってた
あと戦中だか戦後だかに皇居の周りの土地が二束三文で売りに出されてた
食うものに困って誰もそんなものを買ってる余裕なんかなかったが
もし少しでも買ってれば今頃大金持ちだったのに、というような話は聞いた
うちのじいちゃんは戦艦伊勢の乗組員だった
呉に帰還したとき下船命令でた後で撃沈されて助かった
天皇陛下の感状みたいなのもあったわ
明治天皇が戦争で死んだ兵士に山本と加藤が多いと言われてた
最初は敵の砲撃が怖かったけど慣れてくると音で着弾が近いか遠いかが
わかるようになって怖くなくなったって聞いたな
>>160 なんにもない青森でも空襲があったのにか
B-29は人間を狙って撃ってくる
学校の校庭が死体だらけ
B-29が墜ちてきた時はパイロットを竹槍で殺して近くの山に埋めた
戦後アメリカ軍が来たが知らぬ存ぜぬで通したとばあちゃんが言ってた
他界した父親は今で言う小学生高学年から中学三年生ぐらいの歳に戦争だったけど、
代々木辺りに住んでたから、最初静岡のお寺に集団疎開して、そこが大地震起きていられなくなり、
次に秋田の祖父の実家に行ったが、食べる物がなく、
疎開組はご飯が少なかった。
で、次に祖父が仕事で行っていた台湾に渡り疎開したが本土と違い食べ物はあるし暖かいし天国だったとか。
>>1 死んだ伯母の命日に墓参りに行かなかったら、伯母の友人から
「命日に墓に花が飾ってなかった」
と俺に猛抗議の電話があった。
伯母は家族が無く、伯母も遠い場所にあったので、車を持っている俺が管理する役になっていたからだ。
とは言えコッチも仕事や私用もあって、毎年完璧に墓参りこなすってワケにはいかない。
「親から怒られるならまだしも、なぜ赤の他人にこんなに批判されなければならないのか?」
と自分の親にグチを言ったら
「ウチの兄弟姉妹は戦争中は小学校の集団疎開に参加していた。
大きな学校だったから学年毎に別々の場所に別々の時期に疎開していた。
伯母の学年は東京大空襲の日に都内に戻ってきてしまった為にまともに空襲を受けてしまった。
同じ学年は伯母と友達の3人しか生き残らず、引率の先生も死んで、お互いの親も既に疎開済み。
頼れる大人も居ない状況で他の学年が戻ってくるまで3人で焼け野原の学校で生活していたから、結束は家族以上なので許してやって欲しい」
と教えられた。
満州で電気技師をやってたおっちゃんは帰国時に中華ルートと朝鮮ルートがあって朝鮮ルートで帰った人等は悲惨だったと言ってた
中華ルートも中々だったが朝鮮ルート帰りは惨殺されまくりだったと話してくれて中国人より朝鮮人を強烈に嫌ってた
ばーちゃん「8月はじーちゃんが帰ってくるから大人しくしやがれこの野郎!」
じいちゃん戦死してるやん
>>160 でも出兵した村の男たち9割り方帰って来なかったと言うぞ
シベリア抑留で早期に帰ってこられたおじいちゃん。
子どもの時に話してもらったことは今でも忘れられない。
・冬季はあまりにも寒さが厳しく、小便すると着地後に凍って逆つららのようになった。
・また鉄製のドアノブを手袋なしでうっかり握ると、手のひらの皮がベリベリはがれて痛かった。
・大便がたまった所は凍ってしまうので、いちいち道具で割って片づけるのだが、重労働に加えて心が折れた。
・満州の方から食用に手配された「こうりゃん(豆)」がまずくて、こんなもの食べたくない、日本に帰りたい、と泣く戦友が多かった。
・余暇にソ連の狙撃兵が豆つぶのように見える遠距離のビール瓶を、ほとんどミスすることなく割った時に驚愕し、
こんな国に勝てるわけがないと思った。
さすがにリアル経験者は出てこないか?
終戦時10歳だとしていま86歳か
ビルマから生還した今は亡き親の知人から聞かされた話しをしてもいいのか?
ちょっとしたトラウマになるけど
食い物が無くなり死んだ人間の肉を食った話しだが
自分が10歳の時にその話を聞かされ、未だに忘れることが出来ない
朝起きて出撃して朝飯食って牛乳飲んで出撃して昼飯食って牛乳飲んで出撃して夜飯食って牛乳飲んで出撃してシャワー浴びて寝るという毎日を送ってたら、いつのまにか戦車519両以上、トラック800台以上火砲150門以上その他もろもろを撃破していた。
>>8 はだしのゲンか小学生の時これ図書室にあったけど
完全に中共プロパガンダ、日教組推奨の図書だったんだな
子供心にこれはおかしいと思ったわ
>>203 蒋介石の以徳報怨という計らいで、中国にいた日本の兵や民はそれほど酷い目には遭わなかった
荷物とかもそのまま持って帰れたってな
小学生の頃、宮崎のじーちゃんちでタミヤの戦艦武蔵のプラモデル作ってたら
俺はここで働いとったとや、とブリッジを指さしながら教えてくれた
満州から引き上げるときに道端に行き倒れた人の凍った死体がころがってて
蹴ったらカコーンって音がしたって話聞いた
基本的に戦時中を経験した人らはなんでもとっとく癖あるし、食べ物食べれたら幸せという感じがあった。
爺ちゃんの甲種合格自慢くらいだな
戦地には行ってないから戦闘の話は無し
爺ちゃんの兄貴はフィリピン行ったけど戦死で話聞けないし
>>118 うちの爺ちゃんも話さなかったな
なにかの時に子供ながらに聞いちゃいけないことだと察して、それ以来戦争の話は触れなかった
朝鮮戦争時佐世保で売春小屋やって
めちゃくちゃ儲けたって昔病院入院した時
同室の爺さんが言ってた
北海道出身の祖父さんが樺太に抑留されてて、ガチのロシア嫌いだったな
祖母さんは危なく留萌沖で撃沈された船に乗るところだったらしい
俺のオジは戦争から無事に戻ってきたけど、強制ではない再招集でわざわざ行って、そこでの飲み会の後に雑魚寝していたら他の酔っぱらいに腹を踏まれて死んだ
地元が艦砲射撃と機銃掃射されたとか
親戚が豊川工廠で爆撃されたとか
終戦で朝鮮からの引き上げの話とか
>>211 子供のころはそんなこと思いもしなかったわ
漫画だということだけで子供には喜んで読まれてた
まあ今思えばあんな思想的に偏ったもんを子供に読ませるのは教育上どうなのかとは思うね
何かあるとすぐ政府批判するが、あの頃は何もなくて子供すら餓死する時代で自分達で全て調達したり何かしなきゃ生きていけなかったから文句いいすぎとか叔母は言ってる。
>>211 最初は少年ジャンプで連載
途中から共産党系に移籍
そこからアカ臭が酷くなったという話らしいよ
その移籍後のアレな単行本だけを
学校の図書館が閲覧制限かけたら
アカが発狂した事件があった
インパール作戦に参加した親戚の話
周りの部隊が飢餓でバタバタ倒れていく中、親戚のいた小隊には、北海道出身のマタギだった人がいて、その人が野性動物を狩ってきてくれるもんだから食料には困らなかったみたい
他の部隊では死にまくってるのに、親戚の小隊はほぼ全員生還したらしい
軍人なんだから銃でハンティングすればいいじゃんなんて簡単に言われるけど、人を撃つのと野性動物を撃つのって求められるスキルが違うらしいから
、人を撃つ訓練しかしてない軍人には野性動物を仕留められないんだと
なんか行き先が予定と違くね?と思っていたらハワイ沖だった
憲兵隊に所属していた爺さんは戦後数年間帰ってこなかった
そして帰ってきた爺さんは以前は食べていたタマネギを食べなくなっていたと婆さんから聞いた
後年、幼かった俺は爺さんに理由を聞いてみたが一切口を開かなかった、何があったのか?
陸軍省の研究所は戦時中でもおやつが出て良かったとばあちゃんが言ってた
能登半島住みのばあちゃんが富山方面の夜空が
空襲で赤く染まっていたと言っていた
>>207 信長様が焼け死んだ時はショックだったな
>>6 口をそろえてこれ言うよね、戦争経験した人は
びっくりするぐらいのド田舎でも一度は空襲受けてたりするけど
どんだけ物資余ってたんだよ米軍
>>236 福沢諭吉も最初は朝鮮人贔屓だったし、国民も朝鮮と共にロシアに対抗しようという雰囲気だったのにね
じいちゃん爆心地の病院に入院してた
軽い怪我だったので防空壕掘りに駆り出されて近隣の市に
で、原爆投下
心配して爆心地に戻った看護婦は戻ってこなかったらしい
>>231 多分、人体の内臓や血液、排泄物が混ざったような匂いだったんだと思う
戦後の話なら
マムシ捕まえて持ってったらお小遣い貰えたとか初めてチキンラーメン食べたときにこの世にこんなに旨いものがあるのかとか
爺ちゃんは、戦後2年間シベリア抑留。地獄のような毎日から生き延びた話をするのが晩年のお酒の入った爺ちゃんの十八番だったな。
30年くらい前に聞いた話
従軍慰安婦と騒いでいるけど、みんな笑顔で兵隊さんにおいでおいでって慰安所に誘ってたんだよ
今の報道だと被害者だって言ってるけど、そんな事はない。
母親の兄弟はたしかフィリピンに出征したが食糧無くてヒルまで食ってたようだ
祖父が警察官だったけど結局輜重兵(補給部隊)として自動車部隊の小隊長だった
中国に行って部隊の人はほとんど生還してる
もともと曾祖父が収入役で祖父が死なないように警察官にさせたり色々手段を使ってたらしいけど賢い人たちだと思うよ
死んだばあちゃんが子供の頃米軍機から機銃掃射されながら背後から追いかけられたらしい
多分話盛ってる
昔、大学生のとき、8月に靖国神社の資料館に行ったら、知らないおじいちゃんたちが群がってきて、若いのは珍しいしいとか言って資料の詳しい解説を延々とされたな(無料)
自分の体験を基に語ってくれるから、貴重な体験をした
>>248 でも実際低空飛行して機銃で撃つのは終戦近くの話ではよく聞くしドラマやアニメでもあるよね
祖父はマレーシアあたりでマラリアにかかり帰国。帰国して1年もしないうちに亡くなったから、幼かった父は顔も覚えていない。
亡くなった大伯父がシベリア抑留を経験して帰国した人で
話を聞いてみたら「ロ助がなあ○○でなあ、ガハハ」と笑い話にして語ってくれたんだが
今思えば子供相手だったから笑い話として聞かせてくれたんだなあと思ってる
母方の祖母は曾祖父が役人で朝鮮半島で女学生やってた
ソ連が攻めてきてからは男装して夜は山林に隠れてたらしい
気を付けなきゃいけなかったのは朝鮮人の裏切り。奴らを決して決して信頼してはいけない。というのが晩年の祖母の晩年の口癖
爺ちゃんが徴兵寸前で終戦
農家出身の婆ちゃんと結婚したのは米目当て
ぐらいしかわかんね
日本海軍の元パイロットに飛行機の操縦を教わったことある
一式陸攻に乗ってて、駆逐艦を沈めたことがあるらしい
敵艦の甲板より低い位置を飛べば、敵の高射砲から狙われにくくなるから、海面スレスレで飛べたパイロットだけが生き残ったって言ってた
魚雷を放った後も上に逃げると撃たれるから、海面にぶつかるかぶつからないかギリギリのところでコントロールして、横に逃げる必要があったらしい
学童疎開船に乗せられる寸前だった俺の母親。
姉が家族代表として乗船名簿に名前を連ねた。
対馬丸な。
人の生き死には紙一重w
ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
一通りの祝いの言葉の後に、
「自分は海軍にいた。孫が艦に乗っている事を誇りに思う。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を
掛けていると思う。」
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが、段々背筋が伸びていき
神妙に聞き入っていました。挨拶が終わり高砂の席の一人が
「何に乗っておられたのだ」
と尋ねると、新郎は小声で
「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり、イスが倒れる
のも無視して、直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。
ウェイトレスの女の子達は不思議そうな顔をしておりましたが。
ウチのじいちゃんに
はだしのゲン見てもらったことある。
「ホンマにこんなかったん?」って聞いたら、
真顔で「こんなかった」って言ってた。
>>142 似た話で中国人だか朝鮮人だか忘れたが
仲間の日本兵がケツから串刺しにして殺してたってよ
爺さんは工兵だったから加担しなかったが
「いくらなんでもありゃ酷え」って
これ言うとアホウヨが嘘つくなそんな事実はないとか煽ってくるけど事実だ
あいつら日本兵の悪事はすべて模造だと信じてるから恐ろしいわ
じいちゃんにB29の話しよく聞いたな
戦争体験直接体験者から日常的に身内から聴いてきたのって30代後半あたりがラストか?
俺の爺ちゃんソロモン海戦の時、比叡で握り飯作ってました。
地元にパンプキンが落とされたときのことを今は亡き祖父に聞いたな
その頃祖父は10歳前後だったろうがしっかり覚えてたのが印象的だった
>>261 朝鮮人バカにする歌みたいのはマジであの通りやったわ
もうひとつは叔父の話。
アメリカ軍の上陸で南北分断されたために部隊の集合に間に合わずそのまま家族と逃避行。
部隊名は鉄血勤皇隊。
人の運命とは紙一重w
>>255 うちもやわ
12歳とまだ若かったけど志願して合格して8月25日に各務原の飛行場に神風特攻隊として入隊予定だった
>>178 かなり格差が激しいんだと思う普通に学校似通ってるとかそういう人もいる
一方で激戦区で戦ってたりとか
死んだじいさんは朝鮮で警官してたけど、なぜか戦線の兵隊さんが汽車で引き返してくる数が増えた時がありヤバいと思って家族連れて引き揚げてきたらしい
>>256 今90代の元中型操縦機乗っていた人が、YouTubeで元気に経験談話してるけど、本当に低空飛行や撃ったら逃げる技ないと助からない言っていた。中型で戦闘行って生き残ったのその人達だけだったとか言っていた。
背が高いから辛いから零戦には乗るのやめたとか言っていた。中型は3人くらい乗るから、最後北方領土方面言われて今度こそ死ぬな思いわざとバレないように海軍に寄って温泉入ったりして、最後の時間ゆっくり使ってたら終戦したらしい。
東京大空襲で、腰を抜かして動けなくなったババアを見つけたから、担いで走って逃げたって祖父が言ってた
福島瑞穂センセイ「空母からB-52が飛び立って攻撃する」
丸亀の連隊に入営した男前の爺ちゃんをつかまえた婆ちゃんはかなりのやり手だと思った
爺ちゃんが死んでからもなれ初めを聞くと照れまくりだったな
祖父の兄の家に行ったら居間に軍人の遺影がずらって飾ってあった
>>2 一定の距離を保っておけとは言われたな。
戦争で、日本を嫌いになった思いがあるのだろうなと思う。
>>251 実際に米側の記録によると
後期では、民間人や子供でも区別なく攻撃する
『皆殺し』の任務が与えられていたと在るから
>>273 東京大空襲て東側壊滅的だったが、西側逃げた人は助かったんかな。
定年後再雇用されていた大先輩は
勝てるわけない馬鹿な戦争はするもんじゃないって言ってた
徴兵されて東京湾を出た直後に輸送船が沈められ
命からがら帰ってきたそうだ
>>275 身内の昔の写真えらい男前美人だとたまげるよな
>>272 それ多分同じ人だわ、有名な人だし
本当は戦闘機に乗りたかったけど背が高すぎて乗れなかったから攻撃機に乗ることになったって言ってたし
実際、会った時に、この人背が高いなと思った
>>283 あの人凄いシャンとしてるよね
90代に見えない
むかし、ノモンハン帰りというじいさんが
ソ連の戦車は凍土で路盤がしっかりしたシベリア鉄道で輸送できるのに
日本の戦車は鉄道で運べなかった
と言っていた
>>237 残った爆弾を山々に落として帰って行くらしいから、ちょっとした集落でも何かしら被害はあっただろうな
>>6 昔の人は差別意識があからさまよ
親戚のおっちゃんも子供の前でチョンとか普通に口にしてたし
うちの爺ちゃんは戦争の時に
木と木の間に縄張って全裸の女をその縄に跨がせて歩かせて遊んでたって言ってたわ
そう言えば海岸から15キロくらい離れている親戚の家の前の工場が
艦砲射撃で破壊されたと聞いたな
嘘だと思っていたがアレ20キロくらいは届いたらしいな
祖父は戦後、当時子供だった伯父に米軍からチョコレート貰って来させて食べてたって言ってたな
>>282 まるで別人だしなんでその遺伝子をもっと受け継がなかったんだと悲しくもなるw
>>100 その話しよく聞くよな
あと昔は金持ち土地持ちだったけど家族に遊び人がいて借金作って貧乏になったとか
もしかして全部ハッタリで元々貧乏だったりして
面白いんだよな
俺が子供の頃は曽爺さんもまだ生きてて
日露戦争で従軍してたんでいつも自慢気に勝ち戦の話ばかりしてた
でもその子供である婆さんの方は太平洋戦争で
空襲にあったとかで悲惨な負け戦の話ばかりしてた
同じ戦争の話なのに両極端でなんともおかしかったわ
今の人は後者の負け戦の話ばかり聞かされて嫌にならんのかね?
>>288 曾祖父が戦前の陸軍にいたけど
>>2と同じ事を言ってたって母から聞いたな
軍事手帳見るとシベリアとか北朝鮮とか行ってたようだけど
>>285 終戦後に一式陸攻の設計者と面会する機会があったらしいけど、その時にお前ふざけんなよと半分冗談だけど言ってやったらしいw
祖父は二人とも出征しなかった
国民全員が戦地で戦ったみたいに思われてるけど意外とそうでもない
曽祖父が生きてた頃艦が南の海で沈してなんとか島まで泳いだけど仲間が隣でサメに貪り食われたって話を聞いた
その後は迎えが来るまで南の島の女の子とハメ散らかして終戦後ヘリで迎えに来てもらったらしい
まあ戦争にも色々あるわな
>>95 まあミッドウェーの時の旗艦だし、大和に乗ってた人は常に海軍の中でもエリートって事になんだろうけど、
「大和だから凄い」「エリートだから敬意」って海自の体質はなんかなぁとは思うわ。
死んだ連中は自分の乗ってた艦の名前すら自慢する機会も無いワケだから。
ほとんどあっけらかんとしてるが実はそれは死と隣り合わせの極限の状態なんだよな
親父の頭上をグラマンが機銃掃射しながらロケット弾をぶっぱなしたそうな
祖父が朝、出勤しようと玄関出て忘れ物取りに戻った時、空襲警報がなってすぐ隣家に焼夷弾が落ちて隣人が亡くなった
忘れ物取りに戻らなければ祖父も死んでた
て話を母から聞いた
母は疎開中の出来事
兄弟姉妹でもバラバラに疎開させられた
芋は当時を思い出すからあまり好きじゃないらしい(母
防空壕の中は薄暗くて空襲警報なってて怖かった、という幼い頃の記憶(母
終戦後、フィリピンから帰らない叔父がいて、霊媒に祖父だかの霊を呼び出してもらったら、今瀕死だけど必ず助けるから待ってろとのこと、半年後に帰ってきてその通りだったとのこと(まじかよw
>>85 地位のある人の召集先もばらつきあるよなぁ
名家のお坊ちゃんでも「こんな人でも前線にいってますよ」ってやるために南方に送ったり
かと思ったら軍歌作ってた人は召集しても内地に留まらせたり
やっぱ即戦力で国の役に立つかたたないかなのかなとか思ったり
有名な元戦闘機乗りの人が暇な時は褌一丁で日光浴していて迎撃になると走って行って装具をコックピットに放り込んで直ぐに飛び立ったと言ってたな
後は敵のパイロットに弾が当たればわかる、小銃で敵を撃つのと違うから敵機を撃墜しても相手がどうだとか気にした事がない、やらないとこちらがやられるとも言ってたね
戦争とは違うけど婆ちゃんは放浪するリアル山下清を見たと言ってたな
うちのじい様は俺が産まれる前に死んだから
ばあ様から聞いたんだけど朝鮮半島でトラックの運転してたらしい
仲間の死体を沢山運んだらしいけど半島で戦闘って爺キムたちぐらいか?
>>288 生活教育レベルが全然違ったからね。窃盗とか持ち逃げあったりして酷い目にあった人とかいるし。戦争後期までは日本本土来るチケット貰う為に凄い倍率の面接で人気あったらしいから。
実際朝鮮半島の強制徴用は1944年夏からで1945年3月には戦況悪くて船ことごとくやられて無いから行き来できなくなったし。今騒いでる徴用とか自ら面接受けて希望してきた人が殆どだよ。
祖父が死んで10年以上経ってから皇族の親衛隊をやっていたことが発覚したわ
祖父は戦争の事は家族にも何も語らなかったらしい
旧軍の実態は非道い有様だったが中支でも同じだった
大戦も末期になると補給や装備が貧弱化した軍は蒋介石の軍に勝てなくなっていた
その頃からやっつけ的に補充されてきた知的障碍者の兵士を騙して微塵隠れという戦法で脱出する連中もいた
塹壕にその知的障碍者をダイナマイトと一緒に残し敵が飛び込んできたらスイッチを押せ 後からすぐに助けにいくといって自分たちは後方へ逃亡
律儀なその兵士は仲間の為に敵と一緒に吹き飛んだ
こうしたヤリ口は岩陰中尉と古参兵からバカにされていた陸士出身者の将校に多かった
まさかこのスレに
祖父や曽祖父が戦争行ってない在日はいないよな?w
>>45 もう倒産してしまったが、俺がかつて勤めていた会社の名前がまさにスカイネットだった。
CSKという同時日本屈指の巨大コンピュータ系の会社で、セガの兄弟会社にあたる。
同じフロアにやはり兄弟会社であり関連企業だった日本テレコムという会社があったが、
まさにその会社はターミネーターという商品を作っていた。
なんと手作りなんだよターミネーター。1つ1つ、ハンダで作るんだ。
もちろんこの日本テレコムもスカイネットと同時に倒産。
ターミネーターの製造も終了。
本当に歴史は帰られてしまったんだなぁと改めてしみじみ思う。
戦後になるけど疎開先から様子を見に戻ったら家があった場所の焼跡に朝鮮人がバラック建てて居座っていてそのまま乗っ取られちゃったって祖母が言っていました
警官にも来てもらったけど「あの人らは私たちにもどうにもならんのですよ」って言われてあきらめたんだって
うちのジーさんズ
母方→日中戦争で敵地上陸直後に脚を撃たれて帰国
その後、再度の徴兵もなくそのまま終戦
父方→教職の為、一度も徴兵なく終戦
と、こういってはナンだが、元大和の乗務員、激戦地系の話題ほどのインパクトはない
夏休みの宿題で、戦争の話を聞くと
どっちのジーさんも「あんま話題が無くてスマンなぁ」と言われたな
中国戦線で、地元住民と仲良くなって
毎日ご馳走になってたから知人がビックリするほどデブになって帰って来た親戚
お土産の食器や毛布を大量に持って帰ってきたらしい
アメリカ軍は当初は日本人を絶滅させる戦略だった件。
沖縄戦で方針転換したとのこと。
これは故大田知事の談話。
死んで骨も戻ってこなかったから聞きようがない
出征前においていった遺髪は8年くらい前に祖母が亡くなったので一緒に墓に入れたわ
大阪中心部に住んでいる知人からは戦後いろいろな人が勝手に土地に住み着いて土地を取られた話を聞いた
>>11 B29は高度1万メートルを飛行していたが、
どう着弾を観測出来たんだろうな?( ^∀^)ゲラゲラ
人員輸送、占領統治はまあ酷い話が多い
最前線はやはり正気ではいられないんだろう
でも戦線に居た人は殆どがその場で死んでるから話なんて歪め放題なんだよなー
都会から疎開してきたガキどもが毎日乞食しにやってきた。
というてたな、実家が農家だったばあちゃんが
俺のじいちゃんの話
もうA(じいちゃんの名前)はもって明日だなって寝ているときに聞こえてきた。
どうせ死ぬんだったら美味しいものをたくさん食べて死にたいと思った。
タバコを支給されていたが好きではなかったので原住民のパイナップルと交換してもらい食べた。
弱って殆ど動かない体でも口当たりの良いパイナップルは死ぬほどうまかった。
次の日嘘のように元気になった。
ビタミンC大事
突撃の時味方の背後に隠れているような兵隊から弾に当たると
大陸に行っていた祖父に聞いた
そういう風に自分を鼓舞していたのかなと後で思った
>>321 4月 原爆投下を研究する地域を次のとおり選定
東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、
下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保
つまりこれらがアメリカからみた日本の重要拠点
東南アジア戦線に行ってたじいちゃんは橋や建物を作る工兵だったとカーチャンから聞いたな
終戦から2年近く便りも無く戦死したと思ってたら、ひょっこり帰って来てビックリと言うした話しも
理由は台湾で仲間と遊んでたら楽しくて帰るの面倒だったそうだw
岡山で椰子の木みたいな木が裏山や庭に生えてる場所があれば、「ひょっとしたら、じーちゃんの戦友だったかもなぁ…」としみじみと思ってしまう
人や思い出が消えても椰子の木は残ってるんだってね
>>172 帝国海軍の象徴は長門では?( ^∀^)ゲラゲラ
うんこしたくなって森に入るの面倒だから高台てうんこしてたら、横を90洗車通って社長が呆れて見てた!
爺さんは2回赤紙来た。どっちも満州だったんだけど2回目は行くときに日本海で輸送船沈められて死んだと覚悟したが海中からコンテナが浮かんできてそれに捕まって助かった。
軍艦の船長してたから、記念品みたいなのが物置にあったよ
数百万する銀製の置物を売ろうかと思ってる
>>8 こんな糞漫画まだ読まれてるのか
小学生時分から反吐が出るほど嫌いだった
大伯父は中野学校出てMPになって旧帝大の授業を監視にいっていた
後年自分がまさに監視にいってた大学・学部に入ったら
○○教授の授業はおもしろかったとか、○○教授の授業は自己満足だったとかそういう話をしてくれた
くっそド田舎の農民の家系なんだけれど、そういう出身の人間でも旧帝大の専門の授業の善し悪しがわかる程度の教育を中野学校で受けたんだなと思った記憶がある
大和って沖縄へのクルージングの途中で沈没した日本のタイタニック号でしょ
>>325 疎開組は本当に肩身狭くていつもお腹空かせていたらしい。
集団疎開で実家からお菓子が来て、父親は妹の叔母とトイレで隠れて食べた言ってた。
あと、秋田の親戚のうち移った後は更に満足に食べれなかったから、
青森から来た知り合いに林檎貰った時にお腹壊すぐらい一度に食べた言っていた。
生きていた時はたまに家族へすいとん作り、こんなんばっかだった事や食べ物食べれる幸せを子供達にも教えたいとか言っていたが、
自分らはひもしぐないからむしろたまにそれ食べたら美味しく思った。当時とは中身が違うんだろうけど。
あーあと肩に銃弾が入ったまま骨とくっついたせいで方上がらなかったのと手榴弾の暴発で片道聴こえてなかった
小学生の時、祖父母や親戚から戦争の話を聞いて作文を書くっていうのが夏休みの宿題であって、祖父に話を聞いたら
零戦に乗って敵を10機落としたとか武勇伝が沢山出て来たから
エースパイロットじゃんじいちゃんスゲー!俺も自衛隊に入って戦闘機に乗りたいって作文に書いたら担任の糞教師にめっちゃ怒られたわ
そういや米軍からの武装解除命令の時、38式から外して持ち帰った銃剣がウチの実家にあったな。
あれって突き殺すのが専門だから刃引きがしてあって鉛筆すら削れないのな、でも突くと軽量ブロック貫通するんだわ。
田舎だけど夜に時々B29が飛んで来ると(たぶん通過地点だったんだろう)
家の明かり全部消して真っ暗闇の中で、家族皆んな声をひそめて静かにしてたって
声なんて聞こえるわけないのだが
婆さんの弟
招集ー出兵ーフィリピン・ルソン島沖で輸送船爆撃され轟沈で1発も撃たないで戦死
爺さん
招集ー出兵ー香港上陸ー南京ー陸路で満州最北端の国境地帯警備
南京辺りまでは日本・中国の死体大量
満州辺りは平和 中国人からたまに頼まれるのは獣退治(主に熊)
国境周辺警備でも出るのは獣(豹等) 危険な奥地ソビエト・ロシア方面はオロチョン族に依頼
終戦 ソビエト軍キター武装解除 列車北へ 数人で列車停まった時に脱走
山に隠れてたら、知り合いの中国の人達に助けられ港方面へ
引き上げ船が来るまでの間は湾口労働従事
(もう戦争の空気無し 日本人中国人普通に働いてる)
帰国
脱走したため軍人恩給なしだとさ
婆ちゃんが下士官だった爺ちゃんの部下から聞いたエピソードだけど上官から部下に渇を入れろと言われた後に別室で兵隊たちにドタバタと椅子やらひっくり返させて散々怒鳴りまくった後に今日一日は帽子を深く被ってうつ向いて過ごせとやったらしい
所謂殴ったふりをする腹芸という奴をしたんだけど上官は思いきったなwとご機嫌で部下からはさらに信頼されるようになったらしい
俺の爺さんの兄弟は誰も死んで無いというか行ってもすぐに帰ってきたらしい。で役場か国鉄か郵便局のどれかに就職しろと。漢が少ないから公務員に誰でもなれたと言ってた
昔取材をしていて思ったのは当時戦地や国内で悲惨な体験をしてきた方々ほど戦争を語ろうとしない
曾祖父は木製のダミー飛行機を作っていたらしい
敵に爆弾を使わせるために飛行場に並べておいたらしい
俺のじいちゃんの話2
お腹が空いて死にそうだった。
数人の仲間を連れて米軍のキャンプに忍び込み食べ物を盗んだ。
他の仲間が羨ましそうにどこで手に入れたか聞いてきたので教えてあげた。
その仲間は帰ってこなかった。
>>75 公開された米軍の当時の機密文書にも
「日本兵も都会出身者は、我が国(アメリカ)の正確な国力を把握しており『勝てっこない』と判っている。
本気で『日本人の方が優れた民族だから自分達の努力次第で充分勝てる』と信じているのは、情報や教育を得る機会の無かった田舎者達」
って記述があったらしいな。
>>353 そりゃそうだよ
そんなの雄弁に語りたがるのは植松聖くらい
爺さんは一週間で帰ってきた
親父は引き揚げまでロシア人と暮らしてた
>>351 元自衛官だけど、防大時代に下級生をシバけとか渇を入れろとか4年生から言われるんだがこれ、やってる方も辛いし精神的に疲れるんだわ
だから俺も怒ったフリをして誤魔化してた
>>353 嫌な思い出だし、戦後も何年も裁判とかもあったし、余計な事は言わないだろうね
俺のじいちゃんの話3
不発弾が目の前に落ちた。
おしっこ漏らした。
戦艦大和が沈む時、ウチの爺ちゃん逃げ遅れ 大和にチンポを挟まれて 今でもチンポがあーりません〜♪
>>337 おまえの好き嫌いなんかはどーでもいい。
あれが当時の実情を伝える、価値の高い資料であることは事実。
創作でアレは書けないし、残らない。作者の実体験に基づく事実だから心に響く。
東京大空襲前の日にうちに疎開に来た伯父さん
家族と小さい子はその日に帰ったその夜空襲で亡くなった
その後兵器工場などで勤務 焼夷弾は川の中でも消えず
水に飛び込んだ人が軒並み火傷で死んだというのは聞いた
ばーちゃんはB29きたとき田んぼの水路に身を隠したとか話してたけど
真上から丸見えだよね
終戦直後
基地の警備が杜撰になって市民が倉庫に頻繁に盗みに入れたそうだ
親父の友人はなぜか砲弾を盗んできていじってて暴発させてしまい
二人が死んだそうな
拉致問題で世間が騒いでいた頃、賃貸マンションの管理人をしていた
家賃を取りに行くと寂しいからかいつも長話に付き合わされるお婆さんがいたんだがその婆さんに戦後すぐの頃二人組の朝鮮人に連れ去られそうになった事があったと体験談を聞いた
騒いだら近所の人が出てきて助かったらしい
婆ちゃんの実家の石川県に疎開してた母ちゃんから聞いた話だがめったに飛行機なんか来ないからたまに飛んでくるヤツに全力で手を振ってたら「アメリカの爆撃機に手を振るな」って怒られたって言ってたな
婆ちゃんの実家はなかなかの豪農だったらしく食う物は全然困らなかったし空襲警報も聞いた覚えは無いと言ってた
唯一の空襲体験は金沢方面の空が真っ赤になってた事位でそれ以外は毎日遊んでただけらしい。
対して親父は横須賀に住んでいて横浜の軍需工場で働いていたから爆撃されまくって大変だったと言っていた
場所によって違いがかなりあるんだろうな
>>353 確かに自分が聞いたのも母からの又聞きで、祖父母自身から特に聞いた覚えはないや
予防接種を受けたら国立病院に入院することになった
同期は南に送られて皆亡くなったそうな
予防接種に耐えられないような奴は弾除けにもならないと国内でソロバン弾いてたって
>>81 アニメは途中で終わっちゃうからできたら原作も読んで
俺のじいちゃんの話4
孫(俺)「じいちゃんも人殺したの?」
当たり前やろ
俺は勝手にじいちゃんは人なんて殺してないっと思ってた
でも戦争なんだから当たり前なんだよな
工業高校出たうちの爺さん飛行機乗り目指したが落とされて
山口で回天作ってた
秘密工場で作ってたから
乗組員のすぐ隣にいたらしい
人的ミスで出撃阻害して憲兵にボコられて
右目と左の腎臓潰された
戦争終わって60年後に人的ミスで出撃せずにすんだが尋ねてきてくれて
泣きながら酒飲んでた
95になったじいちゃんは俺のお古のパソコンで今日もエロ動画見ながら生きてる
祖母
空襲により親戚が目の前で吹き飛んだ
ちぎれた耳が天井にはりついてた
大日本帝国は「アジアのためのアジア」の構築を目指した。その崇高な理念に、
アジアの土人たちは跪き、頭をたれて我々を独立に導いてくださいと心から
願ったのだ。自分たちを支配し搾取していた欧米列強白人支配者を叩きのめし
肩で風を切って堂々と歩く、皇軍兵たちは、哀れな土人たちの目には神々しく
映った事だろう。
大日本帝国はアジアの解放、そして最終的には独立を成し遂げさせ、アジアに
希望と独立の種を蒔きこそすれ、災禍など何一つ産みはしなかった。
大和民族のアジアにおける行為はまさに非の打ち所が無くアジアを照らす光
そのものであり、それが今日の世界各国の共通認識となっている。
子供の話だし色々想像とかもあったんだろうけど
ばあちゃん、空襲のとき機銃掃射受けたって言ってたな
はっきり操縦席の人も見えて、ぐちゃぐちゃって話声も聞こえたって
多分「子供かよ」て吐き捨てられたんだろうって
でもリュックに火がついてその場で倒れ込んで「熱さも感じない。なんか気持ちいいな」と思ってたら、知らないお姉さんが駆け寄ってきて必死に火を消してくれて、防空豪へ
暫くして半狂乱で自分を探してた母親に奇跡的に見つけられて助かったって
>>359 防大、自衛隊でも旧軍と変わらなかったんだね
なんかよく分からん理由で殴れとか言われても阿呆らしくてやってられないね
というか流石です
>>375 戦争だろうと
人を殺すのが当たり前って
思考停止してるか狂ってるかだよ
>>336 <毎日新聞1945>秘匿された戦艦「大和」 敗戦1カ月後に初報道
https://mainichi.jp/articles/20150601/org/00m/010/006000c 毎日新聞によると、大和の存在が公になったのは、45年9月4〜6日に開かれた戦後初の第88回帝国議会。
政府は「終戦報告書」を提出し、戦死者数や空襲被害などの統計を発表した。
( ^∀^)ゲラゲラ
>>324 作り話もあるだろうし事実もある
都合の悪い方を見ずにどっちか偏るのは良くない
岡山空襲の時は不謹慎だけど吉井川の対岸の山(長船町)から燃え盛る岡山市内を見て「綺麗だなぁー」と皆んなで眺めてたそうだ
コレヒドール島に上陸し、マッカーサーを追い出したと自慢気に話してた祖父が亡くなったのも6年前。
フィリピンで輸送船から積み荷をハシゴから下ろすとき、現地人がわざと海へ落として夜中に潜って略奪したって言ってたな。そういう現地人は平手で叩くでなく、拳で殴れって言われてたと。
平手は末代まで恨まれるという現地人の言葉があるってさ。
>>378 屋根に生首も、カーチャンから聞いたことあるわ。
>>376 戦後のGHQや共産党に都合のいい話の又聞きで、結局また騙されてるよねこの子達
>>383 新しいものは使えても、根本的なところや精神構造は旧軍から変わってなくて、反省が全く生かされていないのにウンザリしたのが自衛隊を辞めた理由です
南九州のド田舎だけど昭和13年生まれのうちの親父は
機銃掃射で撃たれそうになったことがある
母親に手を引かれてラジオの玉音放送を聞きに行った
進駐軍にチョコレートを貰った
ありきたりだなw
>>384 それはそうなんだけどさ
相手も殺しに来てるんだからそりゃ殺すでしょ
相当昔だけど、満州に行った祖父がライフルの弾を見せてくれた。
敵を倒した、3人倒したよと言ってたわ。頭に当てたって自慢してたから当時は敵を倒したのスゲ〜って思ったけど
今思うと人を殺したのかー、戦争とは言えゾッとしたわ
大阪空襲のとか絵描きの爺ちゃんは絵の道具持って逃げ回ってたらしい
戦後、食う物がない時代に絵なんか売れないので苦労したみたい
ただ温泉地に招かれて宿泊しながら襖絵とか書いてたらしい
>>393 戦前、戦中、戦後と
常にアカが暗躍してるから
本当にウザいわ
九州の実家は旧国道沿いで相当傾いてるわ、親父曰く戦後進駐軍の車両が大量に通ったせいにしてたわ。
>>397 沖縄の人が言うならまだわかるけど
殺しに行ったんでしょ?外国の人を
文京区の根津から千駄木は、空襲を受けなかったので
戦時中は親戚の家に疎開して、戦争が終わってから帰ってきた
昭和13年生まれのばーちゃんは、空襲を知らなかった
実は誰も戦地に行ってないし
空襲も受けなかった、おしまい。
ロシアに武装解除され貨物列車に押し込められて何日も移動していたら、海が見えてきた。
ヤッター日本海だ、日本に帰れると皆が喜んだが、実は見えてきたのはバイカル湖だった。
シベリア抑留された父親の話。
>>329 本気で全滅させるつもりなんだよなあ。
共産主義の台頭がなければ本土もやられてた。
>>403 アメリカと戦争なったのも元はと言えばソ連と中国の共産党の計画の一つだからね
ひとついえるのはこの時分から始まるTVでの戦争反対ポエムは気持ち悪い
俺の親父は、終戦間近に土手歩いてたら米軍のロッキードP38に実弾ぶっ放されたらしい。
多分遊びだろう。
もし当たってたら俺は生まれてないし、うちの子も生まれなかった。
父方の祖父は徴兵されて満州で従軍していた
ソ連に拘束されなかったのでシベリア抑留を経験していない
母方の祖父は阪神電鉄で運転士?車掌?をしていたので徴兵されなかった
祖父の家に焼夷弾が落ちてきたが不発弾だったので助かった
少佐だったんだけど部下の軍曹に「絶対に死なないと保証をして欲しい」と真剣にお願いしてた。
>>384 ルールを決めて合法的に殺し合いするのが認められる。
それが戦争だから。
民間人殺すのは反則だけど戦争に勝てば問題なし。イエローカード程度のペナルティ。
>>2 うちのじいちゃんばあちゃんもそれ言ってた
あとクロンボも嫌いだった
>>397 じいちゃんが進んで行ったと思ってんの?
言っとくけどじいちゃんは二度と戦争に行きたくないって言ってた。
戦争反対派だよ。
外国の人をってアメリカ兵を殺したんだから確かに外国の人だね。
共産党は日本軍だけが特別に悪だったという立場だよね。8月革命とか言ってるし見る立場が違うとこんなことになるんだな。
又聞きだけど親戚のひい爺さんは、マレーシアに向かう輸送艦に乗ってたけど途中で撃沈されて筏に捕まって漂ったらしい。途中でみんなサメに食べられだけど運良く助かったとの事。
そのままマレーシアに上陸してジャングルを彷徨ったって言ってた。前線基地につくと食料品などもあって暫く滞在したそうな。慰安所みたいな所もあって安いお金を払って現地の女性を抱く事もできたらしい。同意なんだろうけど。
慰安婦問題があるけど、マレーシアでも日本兵は結構やってたみたいね。
うちの婆ちゃんが三重の桑名の大地主の娘だったそうだけど
GHQの農地改革で土地を全部失ったといつも嘆いてたな
戦争時期は先祖は田舎で農業してたから空襲とかは
別の世界のことだったみたいだわ、当然贅沢はできないけど
空腹抱えるほどには食糧難ではなかったみたいだし
ロシア兵にロシア語(挨拶や数字の数え方とか)教えてもらった。
戦争体験を今話せる人て100歳前後じゃないの
数年前90で亡くなったうちの爺さんでも予科練止まりだったし
長崎県だけど福岡に近い島で
自宅の裏に防空壕や高射台跡が普通にあった田舎出身だけど
ひいじいちゃんばあちゃん世代は
朝鮮人を異様に嫌ってたなぁ
なんかやって怒られる時も
こん朝鮮人がなんばしよっとかー
ってのがいつもの言葉だった
アメさんは戦争だからやったりやられたりはしょうがなか
ちょんはいかんやっちゃいけんことばする
ってのがずーっと耳に残ってる
とある艦のサーチライト係だったが
ミッドウェーで撃沈されて海に浮かんでたところを救助されたらしい
その後故郷に帰ったら学校の校庭が畑になってて唖然としたとか
大韓大陸で強姦と略奪と虐殺をして抗日大韓軍との戦闘で多くの日帝軍兵士が無惨な死をさらしたんだって聞いたよ
日本人はちびで弱くて屈強な大韓軍兵士に素手でも勝てなかったから大陸で逃げ回ってたってさ
終戦後に横浜港で米軍の港湾人夫で働いた時の話を親父から聞いたわ
働いてる奴みんな物資をパクりまくったけど帰りのゲートチェックでも見逃しが普通だった
ただあからまさまにやりすぎなのは止められてたらしい
服パンパンにしてこぼれおちそうなくらい持ってきたのには、
米兵が『おまえジャンプしてみろ』言われてぼろばろ落っことして
ボッシュートされてたって笑いながら話してたわ
>>408 アザラシ住んでるほど巨大だからなぁ、バイカル湖
小学生のときの宿題で、母方のBBAに聞きに行ったら、ふぐすまの名家で国会議員の娘だったから、
著名人が疎開に来てたとか、某童謡の作曲家がセクハラジジイで尻触られたみたいな
平和で下らないエピソードしか出てこなくて草
敵を追って施設に入り込んで肉弾戦をやってるとこに敵の妹が登場して
戦いはうやむやになって最後はコアファイターで脱出した
>>416 黒人後方支援だったさかい遭遇は無いぞw
大阪大空襲で家族6人死んだらしい。少し離れた場所なら安心と思って避難してる最中にやられたらしい。
なんか最近BSで過去映画やってたよな
いもうと親戚のねーちゃんがシナにさらわれてシナの養子になった男の子の話
アジア遠征に行ってたじーちゃん、上官にセミの真似しろって言われて柱にしがみついてミーンミーンとかやらされたようだ。帆船だったのだろうか
>>422 うちのばぁちゃんも同じ
大地主の娘だったのにほとんど取られたって
捕虜収容キャンプがそのまま街になった地域がいくつかある。
だからその地域は沖縄としては例外的に住民の姓がばらばら。
占領中になるけど駐屯してる米軍にクリスマスだったか、地元の子供達がパーティーに招待されたとか。
あと米軍の為の日本人の慰安所があったとか。
群馬県にいた親父の話。
>>356 今も低学歴ほどウヨになるしな
敗戦しても学習しないのか( ^∀^)ゲラゲラ
糞田舎だから貧乏と徴兵以外に特になし
貧乏で若いもんがいないのは今も同じだなHAHAHA!
中国から引揚げてきた人
「南京に20万〜30万も人がいたわけない」
知り合いが理不尽な教師に反抗して廃工場に立てこもり、侵入してきた教師たちを戦車に乗って追いかけ回したらしい
じいさんばあさんが生き残ったおかげで
おまいらが産まれてきたわけだが・・・
はたらいているのかい?(´・ω・`)
子供の頃の習い事の先生が満州生まれだったか、とにかく子供の頃満州から引き揚げてきたそうで
>>370 金沢空襲されてない
多分、真っ赤に焼けたのは富山
能登出身の人が、能登半島から富山湾越しに富山が赤く燃えてるの見えたと言ってた
戦場で眼鏡拾おうと屈んだ瞬間後頭部上で銃弾が空を切っていったそうです。
>>288 うちの祖父は仲良くしていた朝鮮人に裏切られたと言ってた
あいつらは個人の利益のために平気で嘘をつくと
空襲で伯母さんが逃げようとして入れなかった銀行の地下室がその後閉じ込められ中の人全員蒸し焼きになった(十五銀行事件)
伯母さんは入れなかったから助かった
>>409 まさか2発で尻に帆をかけるとは思ってもいなかったのかもね
合法的にもっと実験を繰り返したかったはず
海軍省の会計だった祖父からはあまり戦時中の話は聞かなかった
むしろ進駐軍が傍若無人で悔しかったとよく言っていた
>>8 これ通州事件で支那人がやったことだろ。ピカッ頭作家は狂ってる。
>>363 知り合いの老人会長はガチで大陸いってたけど
そんな酷いことしてないって激怒してたぞ
23区だけど、そこらじゅうに死体が積まれてたって話。
ここで誰が自殺したとか、事故ししたとかで心霊スポットとかいうけど
23区は心霊スポットだろ
goo マップで過去の航空写真ででのあたりが空爆受けたのかわかるだろ
子供の頃親父の会社で働いてた土木手元の爺さんの話し。戦地の中国で食糧と若い娘の調達に村を襲ったら若い娘が1人も居なかった。食糧だけ分取って帰ってたら顔が泥だらけの小柄な男を発見。絶対女だと確信して川に放り投げて顔を洗ったらやはり若い女。連隊長に差し出したら褒美に2番目にやらせて貰った。
>>126 最近ちばてつやが老い先短いと悟ったのか、やたら漫画に描くようになったが、かなり壮絶だぞ。
自分の弟だったか?一緒に逃げてた仲の良い家族の子供だったか?が、
命からがら逃げてやっとたどりついた日本行きの船の中で急に死んじゃうの。
んでちばてつやの感想も
「せっかくここまで来たのに」
嫁(ロシア人)の父ちゃんがいわゆるアフガン帰還兵だったわ
同期がいじめで自殺したり、地雷で下半身吹っ飛ばされた同僚がいたりと地獄だったと
>>415 特攻隊で自国の兵士を殺すのとかはどうなんでしょうね
オウム真理教と同じに見えるけど
中学の時の先生で後何人かで特攻隊出撃してたとか言ってたな
宇垣纏のオールナイトニッポン
ゲスト:山口多聞、宇垣美里
叔父は戦艦武蔵の水兵だったとしか聞いていない
武蔵と共に沈み見つからぬまま。
親戚の爺さんは特攻隊の訓練受けて出撃決まったあたりで終戦したらしい。詳しい事は素人なんでよくわからんが
どうも死ななかったのを恥じて終戦直後にはヤクザになったがたまに会って話を聞いても絶対その話をしなかった
死ぬ間際になって親戚の葬式で会ったら初めて口を開いて色々訓練の話とかしてくれた。半年後特攻爺さんも亡くなった
俺のオフクロは昭和12年、長野県飯田市(山田風太郎が疎開してたところ)の生まれだが、
「海軍さんの白い制服は男前だと思ったけど、陸軍さんの黄土色の服は野暮ったかった」
って言ってた。埼玉の川越生まれのオヤジは昭和16年の生まれなので戦争の記憶がない
本家のお爺さんは視力が良くなかったので徴兵されなかったらしい
めがね掛ければ良いのに
どうにもこうにも食い物無いから
臀部の肉食べたらしい
17昼夜ほぼ毎日のように砲弾飛び交う中、抜刀隊として薩軍に斬り込んでおったわい
なだらかな坂なんじゃが清正公がお造りなさった道が難儀じゃったで
高身長のばあちゃん
中国にいて働いてたけど戦争負けた時もう若い男とかいなくてロシア軍が職場見にきた時男のふりしろとか言われて対応した
昔はタッパのでかい女は凄い引け目があったみたいでいつも背を小さくしてる印象あったけど子供と孫にしろ高身長
今の時代いい事だらけなので身長デカくて感謝してる
死んだ母ちゃんが言ってたが母ちゃんの父ちゃん(俺の母方祖父)は硫黄島へ出兵したとか。
激戦の史実は後に知ることとなったが実感が湧かない。
爺さんは軍医だったので、駐屯地の近所の民間医療もやっていた、依頼されると往診する
ある日、往診した家が裕福な中国人で、爺さんに御馳走を用意してくれたが、軍の規則で食糧や賄賂を
受け取ってはならないというものがあったので、コーヒーだけ飲んで帰った
サッカリンが入ってて甘くてめっちゃ美味かったとの事
爺さんが往診した帰り道、子供達が「イーサ、イーサ(医者、医者)」と言って付いてきた
>>470 奇偶だな 自分の叔父もだよ
ただ正式な乗組員としてでは無く士官見習いとして短期間だけ乗船しただけだったそうだ
日向にも乗船した事もあるらしいが専攻は偵察で偵察機乗りだったが戦後も生き残れた
>>417 「合法」だから「仕方ない」
畜生並みの発想ですね
>>441 父方のジイさんはGHQに田んぼ貰って喜んでたって言ってたw
>>472 うちの両親も16、18年生まれだから戦後は覚えてるけど、空襲で防空壕に逃げ込んだ記憶などがあるのは幼い頃の断片的な恐怖の記憶みたいなのかな
>>237 唯一、石川県だけ空襲がゼロ
おかげで江戸時代からの古文書等も無事
俺の子供の頃でも図書館の貸出カードは戦前のもので右から左に書いてたわ
うちの爺さんは時計屋やってたから徴収されずに工場で爆弾にタイマー付ける技師だった
田舎住みで電車で名古屋まで働きに出てたんだが、ある日ダルいなぁって理由で仕事サボって遊んでたらその日に名古屋は空襲で焼け野原
爺さんが仕事サボったおかげで俺は生まれたらしい
>>455 戦後の話だったかもしれないけど
祖母が朝鮮人の娘さんと一緒に通学してたけど挨拶も無しに引っ越ししていって寂しかったと。
親が工事現場を転々としてたらしい。
その娘さんは良い娘さんだったけど、
大人たちは…とそこで口をつぐんでしまった。
>>323 高高度爆撃の精度が割と低かったし、日本上空はドイツとちがって対空砲の密度が薄かったので、米軍は途中から爆撃高度を下げてたんよ
母方のじいちゃん満州に行ってたらしい
行き倒れになった人を助けたら隊長に理不尽にスコップで激しく叩かれたらしく日本軍を許せなくて恩給を拒否してたらしい
数年ごとにその助けた人が訪れてた
南京でレイプした女を使って日本刀の試し斬りしたらしい
満州は広大で鉄道で一昼夜走り続けても全く同じ風景だったと爺さん言ってたな
ネトウヨのおじいちゃん集めたら大和の乗員全員集まる説
>>470 武蔵は去年だったか、やっと船体がみつかりましたな。
叔父さんはご苦労様でございました
>>262 まだご存命の方で、大陸で首切りした経験があるっていう人もいたな。
戦後もめっぽう喧嘩が強かったと聞いたが、斬首を経験してたら覚悟が違うだろうな。
祖母が長崎の島原に疎開してたのに、原爆投下後親類を探しに爆心地に入っちゃって手帳持ってた。
って最近聞いた。
>>418 その殺害した米兵の霊をちゃんと弔ってますか?
その方にも家族や友人がいたはずですし
爺婆の話
妊娠して腹痛の婆さんをリアカーに載せて医者まで運ぼうと爺さんが引いてる時に戦闘機が前から来て、爺さんはどうしようもなく婆さんをそのままリアカーに置いて自分は岩陰に隠れた
死ぬまで事ある事に爺さんはそれをモンクレール言われてた。女の恨みは恐ろしいぞって話
>>480 日向の他に利根とかには乗ってない?
偵察の航空要員だったなら、彩雲や零式水偵乗りだと思うけど
母ちゃんが祖母に聞いたという話
空襲警報なったから母ちゃん(当時一歳)抱いて防空壕入ったが泣いちゃって周りに迷惑だからって防空壕出て近くで隠れてたらその防空壕に焼夷弾が直撃したらしい
親父は満州(奉天)にいたらしいが、それだけで実際どういう事やってたかは詳しくは話さなかった
竹槍ランチャーで飛んでくるB29を蜂の巣にしたもんだわい
>>496 新選組の永倉新八も、ヨボヨボの爺さんになってからチンピラヤクザの集団に絡まれたそうな
気合を発したら相手がビビって逃げたんだと
殺し合いを経験した人間は強い
>>2 これはうちの祖父も言ってたな
喋りたくもないぐらいに嫌ってた
>>262 アホウヨガー
証言聞いただけで事実!
クソワロ
前からは迫りくる敵、後ろからは味方の砲弾・・
そんな中で私は神を見たんだよ
じいちゃんが正露丸だけを頼りに遠征を生き残ったって言ってた
正露丸パネェ
聞くところによると子供の頃に北海道に住んでて
当時ロシア人が来て町内の人逃げ回ってたんだとさ
そして野菜や果物とかめちゃくちゃかっぱらっていったってさ
>>505 やっぱそんなんあったのか
めっちゃ適当なふざけた爺さんだったから嘘かもしれんと思ってたがw
爺さんは軍医だったので、連隊長(大佐)が風邪を引いた時にその治療をした
回復後、連隊長は治療のお礼に、爺さんに御馳走してくれた
会食中、秘書官がしょっちゅう、連隊長に取次に来たが、その都度、「待たせておけ」と
食事後に爺さん(少尉)が部屋を出ると、廊下に中佐、少佐、少佐、大尉と、
自分より上官が何人も待たされていて、彼らに睨まれてめっちゃ焦ったとの事
爺さん婆さんは満州の頃が生活楽だったみたい。引揚げ後は空襲後の後片付け手伝って日銭稼いで、貰い物をむしろ敷いて道端で売ってたと。いつもひもじかったそうです。爺さん家に遊びに行くといつも食事は大盛で、いっぱい食えって言われたな
>>148 当時の日本軍には『米軍九十九里浜上陸説』があったらしいな。
ウチは戦後の高度経済成長期に出来た新興住宅地で、何も無い山を切り開いて作られた町なんだが、
町の外れにある寺の裏にある旧村部分の高台が、戦国時代まで城だったってのを最近趣味で調べて知った。
秀吉の小田原征伐の際に北条側について本多忠勝に攻め落とされたらしいんだが、
史跡としての保存状態はかなり悪い。ぶっちゃけ原型の地形を留めていない。
面白いのでその後も暇を見つけては調べ続けていたら、保存状態が悪い理由は
「戦争中に防空壕として使用した」からって記録が出て来た。
それにしては大がかりに地形が削られている。
そんで古くから地元に住んでる人に聞いたら「いや、民間人用の防空壕じゃなくて軍が来て何かやっていたらしい」って話が急に出てきた。
そんで調べるアプローチを変えて、市の戦争当時の軍関連の資料を調べたら、
(あまり知られていないが軍上層部は、226事件や515事件を受けて、
天皇や総理大臣などが軍上層部に叛いて、自身達に忠誠を誓う軍の若手を使って東京を占拠した場合、すぐに大兵力と戦車・航空機などの近代兵器で奪還出来るようにしておく為に、
千葉市や四街道・八千代市一帯は軍事都市として開発する予定になっていたらしい。
その為調べれば軍の記録は通常の郷土史とは別途にいっぱい出てくる)
『米軍が九十九里浜から上陸してきた際に迎撃する為の戦車基地にする予定だったが、完成する前に終戦になった』
ってのが出て来た。
>>459 やられたらやり返す、というのは戦争中の悲劇であり得ること。
通州事件と同じようなことを、日中戦争で日本軍の中の一部でやっていたとしてもおかしくない。
中沢さんが取り上げたのは、現地からの情報を聞いて取り上げたのだから、
他意があるわけではないだろう。
よく戦中で起きた拷問のシーンが描かれているけれど、あれがウソとは言えないのと同じ。
逆に、今の平和な時期からしたら異常というのを教えてくれる貴重な資料だと思う。
戦争なんて黒歴史だから何も教えてもらえなかったな
子供の頃一緒にお風呂入って胸がぐちゃぐちゃだから聞いたら戦争でそうなったって言うのと
政府から銀杯貰って飾ってあるがそれも戦争関係と聞いた程度
周りの言ってることが突然180度変わるような時代だからな
満洲に出ていた祖父と結婚した祖母が亡くなる前に「お婆ちゃんが朝鮮人だったらどうする?」と聞かれた「ばあちゃんはばあちゃんだ」と答えた
自分は多分朝鮮人クォーター。ばあちゃんには悪いけれど今時はそんな事誰にも言えない。
今はもうできないが人をたくさん殺したら勲章が貰える、こんな面白いゲームは無いよね。享年83歳 祖父
ぶーんでジュゴゴゴゴーってなってドバーッてなって大変だった
おかしくない!嘘とは言えない!→だから事実!
パヨちゃん、いつも論理が飛躍するよなw特に戦争関連だとw
祖父が昼寝中「戦争の夢見た」とたまにうなされて起きたことがあったわ
あまり多くを語る人ではなかった
>>514 いま名古屋の大曽根ってところにあるナゴヤドームの、道路挟んで隣の敷地は三菱のデカい工場なんだけど、
そこは戦中には三菱航空機と、砲弾や銃弾をつくる工場がいっしょになった大工場だったんよ
父親が戦艦長門に乗り組んでいた。
爆沈した陸奥の生き残りの戦友は沈没時生き残ったがその後、死地に送り込まれて戦没したらしい。
戦争中の兵隊はしごきイジメの類はそれは酷いものだった。だいたいそういう気に入らない上官は前線で後頭部に銃弾受けて死ぬ。
銃弾は前方の敵からだけでない、後ろからも飛んでくる。あまり酷いしごきイジメはやらない事だ。享年83歳 祖父
>>500 IDとか変わってるけど
>>480だよ 規制が厳しくて串刺してるからご勘弁
叔父は比島の第901空という海軍唯一の対潜哨戒・艦隊護衛専門の部隊所属で
運用してたのは主に陸上爆撃機の96陸攻並びに一式陸攻だったとの事だよ
96陸攻は非常に珍しい磁気探査装置搭載の対潜哨戒機仕様で機長を務めたらしい
偵察機も珍しい機種で陸軍から借り受けた百式司偵(新司偵)に搭乗してたって聞いた
日本軍のネクロマンサー部隊が南京で暴れてたらしい
ほら証言だぞwパヨちん
台湾人は優秀
南方に送られた爺様の部隊に軍属として居たけど食料尽きてもジャングルに1人入っていって果物やらヘビやら山ほど採ってきて食いつないだそうな
小隊が機関銃の砲火を受けてる最中、片腕のない兵士2人がひとつの腕(どちらの物か不明)を取り合ってたらしい
その間に銃撃されて死んだ光景を見たとじいちゃんが言ってた
沖縄戦の話らしい
>>520 自己レス
ばあちゃんも朝鮮人を隠しながら日本人してたからずっと言いづらい事ではあったんだな
亡くなった爺さんが海軍士官
開戦前日まで金さえ払えばアメリカは武器を売ってくれた
ポツダム宣言されて残された数少ない外交チャンネルに終戦工作をしたいと伝えたら戦略物質を売ってくれた
沖縄出身
小学生で野戦病院の看護婦の助手をしてたばあちゃんから聞いた話
腕や足がないのが普通で直ぐに亡くなったとか
その遺体をしばらく離れた場所に埋葬
その場所が村の中央体育館
母と自分の母校が野戦病院だった
終戦後数年たっても息子のじいちゃんが満州から帰ってこれなくて曽祖母は精神を病んで亡くなった
同じ日に自分の母が生まれ当時は大変だったらしい
>>22 結局、何かに盲目なだけで、主体性の無い人は信用しちゃいかんって事ですな。
>>509 お前の不確かなネット情報とわけが違うからな
>>537 人にどうせいこうせい、何が正しい間違ってるだのといった価値観をおしつけてくる人間はクズ
いつの時代もな
>>529 百式司偵乗りだったんですか。
旧日本軍が造った中で最速最美の名機ですね
シベリア抑留でソ連は今で言う脳筋揃いで鉄の加工を説教しながら教えてた
いたところで相当待遇違ったみたいね
>>527 後年、父は周防大島の陸奥記念館でそいつの名前を見つけて泣いた。
母方は、シャバシャバの水みたいな雑炊食っていたとか言っていた。父方は、米と梅干しはあったので、雑炊なんぞ食ってなかったと言っていた。
もう10年以上前に亡くなった祖父が14歳の時
同じ年の14歳の親友が2歳の妹の食料を買いに広島市内に行ってて
原爆直撃したらしい
祖父も一緒に行くかと誘われたけど、畑仕事で断ったらしい
そして広島に原爆投下・・・
被ばくを免れた祖父が、急いで広島市内に探しに行ったけど
川で焼け焦げて横たわってる友達らしき姿を見たんだそうな
多くの人がその川で横たわってて地獄絵図だったんだとか・・・
その祖父が晩年よく言ってたのが、過ちは繰り返しませんはアメリケが言わんといけんじゃろ
うちらは被害者じゃ、アメリケの奴らは鬼じゃ
と良く言ってました
>>51 朝鮮戦争の話か?
まぁWW2とはスレタイに無いけど
おじさんは 海軍所属だった
で、船に乗ってたときに 食事担当になったら、船に乗ってる士官とかえらい人が
こっそり、果物とかデザートをくれと頼まれたりするため、 ものすごく優遇されたらしい。
低空飛行の戦闘機に機関銃で狙われたって言ってた
面白半分で人間狩りやってたて信じられないかもしれないが、たぶん本当の話
友達の母ちゃんがクマモメンで
長崎の原爆が見えたと言ってたな
>>538 なんか妄想始めたようだけど何と戦ってんの?
慰安婦がヘリコプターとジープでさらわれて、クリスマス休暇には慰安所が混んでた証言とか信じてそうwww
陸軍歩兵第十九連隊で太平洋戦争では満州縦断して生きて帰ってきた。
中国人、朝鮮人を犬コロと同じ感覚を持ってたな。
海外旅行で中国朝鮮台湾ガム島比には行く事は無かった。
平成の最初の方の湾岸戦争では
テレビニュースで「これはニンテンドーのゲームではありません」的な
コメントをしてた
アメリカの話
>>533 そそ。そんで大曽根でエンジン造って、牛車やトラックに載せて、いまの19号を下って熱田の愛知航空機や、大江の三菱まで運んどったんですな
>>549 そんな話はしてないが?
お前が大丈夫か?
戦争は楽しかったと脚に埋もれた銃弾の跡を見せながら喜々として戦場の話をしてくれた祖父
毎回最後には次は絶対勝つぞと言い話を締めていた
何十年経っても負けた悔しさは残らないのだろう
知り合いの爺さんが偵察機の通信兵やってて
南シナ海の哨戒で敵の艦隊見つけて
気が動転して暗号化せずに平文のモールス信号打電して
上官から滅茶苦茶叱られたって聞いたな
必ず共産党員が出所不明の日本軍の蛮行話を事実だと言い張りに来るよなw
祖父は生きて帰ってきたけど大型機銃を扱う兵科だったらしい
撃たれて左薬指が無くなって左肩に大怪我を負ったとだけ聞いた
>>548 スピルバーグの太陽の帝国で満州で原爆の光が見えたシーンがあるよ
>>557 機関銃兵は真っ先に狙われるから
やりたがらないって爺さん言ってた
ダウンタウン松ちゃん
魂の叫び
https://www.youtube.com/watch?v=1IyDLroOGww なんでなん!なあ〜〜〜〜んで!原爆を落とされた方が!まったく関係ない何万人もの人が苦しみながら死んでいった側が!
なんで2度と過ちは繰り返しません!!と言わなあかんねんな!
それを言うんはアメリカやろ!!!ちゃいますか!?
僕は悔しいんですよ>< 悔しい!><
そりゃ戦争はやったらだめですよ!あの戦争は間違いですよ!日本も悪かったんでしょう!
でもね!原爆に関しては、100%アメリカが悪ですよ!原爆に関しては一方的にアメリカが悪いんです!
醤油ラッパ飲みして顔色悪くして出港から逃れたとかサボる話しかしなかったな
>>74 その話、古い雑誌に載ってた気がするから、組織的にやってた人達が居ると思いますね。普通の日本人の感覚なら… まぁ、そんな話には乗らないよなぁ。
祖父がインドネシアで秘密文書とかを守る役割をやってたらしい
あと乗ってた船が撃沈され、さらに乗ってた戦闘機も撃墜されたが2回とも奇跡的に生き延びたとか
戦時中の無理が祟ったとかで40歳くらいで亡くなったから会ったことはない
>>549 俺も「証言」聞いたわ
南京では数人の日本兵が突然金髪になって髪が逆立ち、凄い強さになって一騎当千の活躍してたって
戦闘民族とかなんとか言ってたって
死体は日本軍魔法工兵部隊がブラックホール魔法で隠蔽してたってさ
海に島が出来ていた
戦艦大和が補給のため、徳山湾にきた
>>558 ひでぇフィクション映画作るんだな、スピルバーグて
教科書には違和感があった。
うちの爺さんたち、誰も戦争に行っていない。
嫁さんの爺さんたちも戦争に行っていない。
饅頭を賄賂にして逃れたと言っていた。
>>560 そうなんだ…
映画の知識しかないけどあの兵科は味方を援護する係だよね
発射炎を狙われるんだろうか
今思い出してみるとテレビで劇場版ガンダムを夏休みに一緒に観た事あるけど、泣きそうなのを堪えていたと思う
多分
>>540 まあ一応正式なパイロットだったんだけどねぇ とにかく壊滅的に操縦が下手糞で
「お前は操縦禁止だ」と周囲に言われ続けほとんど操縦桿を握らなかったそうですがw
百式司偵は後部銃座がある型だったそうで初期のT型かU型だったと思われるんだけど
後に語られるほど快速では無く米軍のP-38から追尾された際は命からがら逃げ帰ったそうです
>>559 ああ〜ご苦労様でございました本当に……
>>544 の話を祖父から繰り返し聴かされてたから
>>561 を最初見た時号泣した
マジ号泣した
それからは尊敬する人の名を言う時は松ちゃんと言うようにしている
>>237 予定投弾数より多く残っていたら、任務怠慢として叱責を受けるのと
あと帰還まで燃料節約等で機体を軽くするために途中で適当に
投弾していってかなり被害が出たんだよ。
もう亡くなってるけどお婆ちゃんが疎開先の能美島に居た頃に近くに停泊してた重巡の利根を狙って次々に米軍機が襲いかかって来て利根も果敢に応戦し始めた
慌てて乳飲み子(俺の母ちゃん)を抱えて民家でうずくまってたら物凄い音がしてしばらくして顔を上げたら横の壁に大穴が開いてたらしい
機銃彈じゃなくて砲弾だったら死んでたと思う
>>559 うおおこれは貴重だな…
満州での写真なのかな?
>>561 あの碑文は全人類が核兵器使用を悔いてるんじゃないの?
日本人が謝罪してるって読んでたらそりゃ松本のオツムが悪いだろ
駐屯地にて夜間、獣の吠え声がするので何かと思ったら、狼との事
爺さんは狼を見た事が無かったので、見たいなあと思っていたら、守衛が狼を撃ったとの知らせが
見に行くと、巨大で立派な狼だったんで、死体を貰ってきて、土に埋めて骨格標本を作った
原爆は急いで落としたのは、誰も目にも明らかだが
やりきれんな
通常兵器なら良いという話ではないし
わしの幼かった頃はなファミコンウォーズってゲームが流行っとったんじゃあ
ばあちゃん 満州でソ連兵におかされ 引き揚げ中に朝鮮人におかさた
八尾に住んでる人だが大阪空襲の時は西の空が赤く染まってたと聞いた
>>579 一緒にアルバムに貼ってあったわ 慰問袋とかに入ってたのかも
>>509 おまえみたいな奴が兵隊になって他国に行くと、虐殺とかするんだろうとなんとなく思う。
じいちゃんは俺の背中にはまだ弾が入ってるが口癖だった
俺の叔父は、ピカッと光ってから2〜3分後にドンという音を聞いたらしい
>>589 妄想凄いですね
どちらかというと
どこから出てきたかもよく分からん「証言」を真実だと信じちゃう脳みそ持ってる方が
そんなことしそうですけどねw
>>589 日本共産党スパイ査問事件
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6 1933年、当時日本共産党中央常任委員であった宮本顕治、袴田里見らが、当時の党中央委員大泉兼蔵と小畑達夫にスパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、12月23日、二人を渋谷区内のアジトに誘い出した。 宮本らは針金等で手足を縛り、目隠しと猿轡をした上に押し入れ内に監禁した。秋笹正之輔、逸見重雄らが二人に対して暴行を行ったため、小畑は24日、外傷性ショックにより死亡した。小畑の死体は床下に埋められた。
伯父が小学生のころ田んぼのあぜ道歩いてたら空襲に来たP-38に銃撃されたそうだが
末期に招集されたけど国内の駐屯地で飯炊きやって終戦したらしい
マジでインフルエンサー的な人間がコロナで中等以上、悪ければ重症死亡まで行ってSNSに大々的に拡散すればいいんだがな
ヒカルとかヒカキンとか辺りが大変な目にあったわと拡散すれば皆ビビりそうなもんだが
>>586 これを靖国の遊就館にご寄贈なさる気はないですか?
遊就館は戦争資料を常に集めていますよ
>>462 宜保愛子とかあの辺りの有象無象がくだらないことで騒いでたオカルトブームの頃、
戦争体験者の人達はどう思ったろうなと思うよ
事故物件とか心霊スポットとかアホかと思うわ
嫁の爺さんが医者やってて東京大空襲の時に東京の軍医学校の学生だったらしい。
詳しい話を聞きたかったけど、初めて会った時点で痴呆で何も分からなかった。
普通のスーパーで原付スクーターが三万円で売られてた
マジで
>>586 おーそうなのかありがとう
現地の人達とも仲良くやってたんだね、戦争って悲惨なイメージしかないからこういうの見るとちょっと和むわ
あの時白いモビルスーツさえ完成してなければ
負けることは無かったのに
うちのおじいちゃん戦争が嫌で赤紙きたけど逃げたらしい
結局捕まって牢屋に入れられて結局戦争には行ってない
>>2 うちの曾祖父はこれに加えて中国人も入ってた
最前線に行かされた奴が犬死にして
内地や大陸の真ん中だと食糧豊富で
もうマジでウハウハだったらしいぞ
終戦で帰国してからのが貧しい生活
>>586 我らに慕い 共に歌う新国民 これ小さき朋友😭
こんな人たちがナンキン大虐殺とか起こすはずがねえだろうと一発で分かる
空襲が花火のようにキレイだったって言ってたなぁ・・・うちの親父。当時4才くらいだった
爺ちゃんは、鹿児島の方で飛行機の整備やってたって言ってた。
特攻機でも整備してたんだろうか・・・
ウヨって日本兵の悪行は全部作られた嘘だと思ってるの?
>>431 ボッシュートで済むんか
米兵優しいんね
>>610 4歳で飛行機の整備って、天才どころの話じゃねえ
考えてみれば韓も中も朝も成り立ちが政治的過ぎて
市民が勝ち得た独立というアイデンティティを持ってない
戦中戦後の本当のことが分かる日は来るのだろうか
すさまじき困窮ゆえ我が友のアンパンを盗んで食っちまった!腹すかしてそいつ死んじまった!
君が鎮魂の為アンパンネタにしたら大うけしてワロタw
毎年恒例、共産党の日本軍酷かった話も相手にされなくなってきたよな
共産党も三光作戦とかの怪しいやつは殆ど言わなくなってきたし
昭和40年代・・・
親に連れられて成田山に初詣に行くと、足やら手を失くした軍服着た人らが物乞いしてたっけ
>>591 「分」じゃなくて「秒」だと思う、ピカドン
>>430 チンポが9cmで恥ずかしい…まで読んだ
大陸から引き上げてきた人、戦後何年間か生きたのち、自殺した。
凄惨な現場を忘れることが出来なかったらしい。
常磐線に乗ってヤミ米運ぶも検問の情報がその日は流れずどっかの駅で一網打尽に捕まり警察に米取られ連行されるもその日の内に釈放された
玉音放送は聴いたけどどこで聞いたか覚えてない
by祖母
フィリッピンのジャングルにて食料求めて戦友と彷徨う
蛇とかネズミとか猿とかは貴重なタンパク源
なお米軍と戦う気は無くそんな事より目先のメシだったらしい
by祖父
日本共産党
入党のよびかけ
https://www.jcp.or.jp/web_jcp/toin.html 毎月、党費をおさめることは、党員としての自覚の証であり、清潔な党の財政を支えています。党費額は「実収入の1%」で、給与所得者、年金受給者は、総収入から所得税、住民税をさし引いた額の1%です。
党費は、入党が決まった月から納めます。
「しんぶん赤旗」、とくに、日刊紙を読むことは、党員として希望をもって生きていく力の源です。日刊紙は、政治・社会の真実、日本共産党の政策と活動を毎日報じています。
日刊紙は月3497円(税込)です。家計が苦しくても、支部で相談して購読できるようにしましょう。
家計が苦しくても、支部で相談して購読できるようにしましょう。
家計が苦しくても、支部で相談して購読できるようにしましょう。
俺は昭和47年の生まれだけど、年食った今だと、戦争からたった27年しかたってなかったんだなと、つくづく思うわ
まだ中華民国が政権を取っていれば
分かったことも多かったろうに
対露戦略や合衆国政府内にかなりいたであろうアカとか
そんなんもあって、国共内戦において傍観を決め込むしかなくなったんだよな
昔会社の先輩が子供の頃B29が撃墜されパラシュートで降りてきた米兵を近所のじいさんが
蹴ってたって言ってたな
じいさんの家族は空襲で死んだようで米兵も反撃したら命がないとわかってるんでじっと耐えてたって
じきに兵隊がきて連れて行ったとのこと
近所の爺さんは毎日若い朝鮮人女性が日本人にレイプされていて嫌な時代だったと言っていたな
朝鮮半島では進駐日本軍言って日本人による強盗、レイプは日常的だったんだとさ
>>604 凄惨なの送ったら検閲されるだろうし多少脚色もあるとは思う
>>599 これはコピーで原本は遺族が管理してます 大叔父が亡くなったときにコピーを渡されたそうです
>>626 すげーわかる、今から27年前の事思い出して
あの時に戦争終わったと考えたら・・・・
ほんのついさっきじゃん・・・みたいな。
>>629 卓球の水谷の件で警察がお前に話があるみたいよ?
>>8 >日本語を勉強してから、ある日一つの問題を発見した。シナ教科書は、
>戦時中シナで起こった様々な残酷な事件は、日本軍の「三光作戦」
>(三光作戦は中国語で殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くすという意味である)
>による結果であることを書いていたが、日本語で「光」という語彙は、明るい、
>光るもの、希望等を指す意味で、中国語で使用する「光」の、「何もない」、
>「からっぽ」等の用法は存在したことがない。例え、日本軍は本当にそのような
>作戦命令を指示したとしても、作戦名を「三光」と付けるわけはない。きっと
>どこかに誤りがあったのではと思っていた。
爺さんは健軍で訓練中怪我して、戦地に行かなくて済んだ。爺さんの弟2人は、満州とブーゲンビル島でそれぞれ戦死した。
>>632 そう考えると戦後の復興スピードやばいよな
現在の停滞どころか後退感がやばい
祖父ちゃんは南の島でビール瓶くらいの太さのニシキヘビを捕まえて食べたけど不味かったらしい
幼馴染の親類で、戦艦武蔵から生還したって人がいるって話を聴いた記憶。
>>631 なるほど、コピーですか。
そう言われてみれば、紙がやたら白いですね
俺のおじさん予科練行ってた
終戦遅れてたら特攻行ってた
>>618 いたな、自分は43年生まれだが覚えてるわ
そしてうちのじいちゃんはフィリピンのミンダナオ島で戦死した
検閲済みって印が入った戦地の写真、うちにもあったけど父ちゃんが全部捨てちゃったんだよな
その前に俺がスキャンしてたんだけどそのPCがぶっ壊れて全て失われた
>>628 米軍の爆撃隊の搭乗員って何回作戦に出撃したらその任を解かれる
みたいな戦闘参加の上限回数があったそうだな。
あと何回生還したら故郷に帰れる・・ 搭乗員はとても希望が持てるよね。
ゲームの終わりは戦死のみって日本の兵隊さんは大変だったと思う。
爺さんが軍から支給された缶詰が、一次戦どころか日露戦争時のものだったらしい
それ食ってた爺さんは85歳まで生きたから、缶詰は数十年経っててもサビてなきゃ食えると思う
親戚のじいさんだが
満州で人を切ったよ 後悔してるけど
日本刀でこうなバサアッと 心が痛むよ
こう5人くらい抗日ゲリラを目隠しして正座させてな
並べてるところをヤアッヤアッヤアッとな 酷いことをしたなあ
部隊ではワシが一番だったかな 自慢にならないがな(チラッチラッ)
クズだと思った
親戚の集まりで鹿児島帰ったとき
なんか知らない親戚たくさん集まって大人同士で戦争の話しててさ
小学校低学年だった俺は後ろの方でなんか遊んでたんだけど
還暦くらいの白髪頭のおじさんの顔をチラッと見たら目が真っ赤で泣いててさ
俺ギョッとしたわ
戦争体験談とか小学校や学童で散々聞かされてきたから「またその話か」とかそんなふうに思ってたんだけど
当事者からすればその年齢になったいい大人というか老人が泣くくらいの事なのかって
年寄りは泣かないと思いこんでた俺は話の内容全然聞いてなかったけどあのシーンを強烈に覚えてる
>>618 90年代の秋葉原にも物乞いいたぞ。
「私は戦争で片足を失いました」って立て看板おいて
中央通りの歩道でお茶碗置いてた
少年兵の物語は戦後に映画がたくさん作られて見られたから
無邪気なホラ話もたくさん出来る
軍艦島と同じ構造
高齢なお客様がサイパンから最後の便で本土戻れたらしいが、帰りの船の中では生命の危険を感じた兵隊達が女性を襲ってたと語ってたな。話になってないだけで各地でそんなことがあったのだろうな。
8月15日までは戦って死ね死ねと言われてたのが、16日になったら
「そんなこと考えずに生きろ」
って言われる時の喪失感って、どんなんでしょうね……想像もつかん
>>2 高齢者って中韓人へのヘイト凄いよな
こっちが引くくらいの人いるわ
>>120 職場で定年退職したおっちゃんが言ってたな
中卒で工場で働いてた時の指導員が陸軍中野学校出身で死ぬほど怖かったて
>>648 正規兵じゃない戦闘員は捕虜にならず処刑ですから、別に親戚のじいさんが後悔する話じゃないですよね
子供の頃、護国神社へお参りに行くと軍服を着た手足のない人たちが筵の上に箱を置いて座っていた
「この人たち、お父さんと同じぐらいの歳だから絶対違う!こんな若い人たちが兵隊さんに行ってたわけない!」
と思って父にそれを言おうとすると
父は財布から万札を出して渡そうとしていた…
祖父は父が乳飲み子の時に出征して戦死していたからいろいろ感じるところがあったのかもしれない
でもなぜ騙されるのか?
普段は聡明な父の弱点を魅せられた気がした
意思のない自然災害ですら時々恐怖を感じるのに
空から人間がこっち目掛けて殺すつもりで爆弾落としてくるって
今じゃちょっと精神的に耐えれんだろうな・・
1.実は日本兵の死者は戦死よりも餓死の方が多かった。
2.特攻隊の成果はなく、特攻隊をしないで普通に戦った隊の方が敵を多く撃墜した。
3.戦争が終わったら、一般兵は上官をリンチしした。理由は敵より上官のイジメの方が陰湿だったから。
4.野球部のケツバットは、実は軍隊のシゴキから始まった。このシゴキのせいで戦争前に若者が結構死んだ。
結果、そもそも戦争したことが間違いだった。
うちのバーちゃん熊本出身なんだけど
グラマンに乗ったアメ公が笑いながら機銃掃射してくるの見えたって言ってた
橋の下に逃げるんだけど逃げ遅れた人はミンチなるって
>>646 中公新書の「アーロン収容所」で、
戦争末期にビルマ戦線に配属された著者が部隊の大砲を見てみると、
明治○○製の年代モノで、「こりゃ大変だぞ」と覚悟したらしい
祖父は弟を戦争で無くしているけど靖國には全然行かなかった
祝日には玄関に国旗を掲げる人だったけど、弟はお墓、仏壇のいるって認識
作家の吉村昭さんも、戦死されたお兄さんはお墓にいる、靖國神社は兵士が戦死した仲間に会いにいく追悼施設って書いていた
>>657 普通に16歳でも戦争行かれた人はいますからな
>>8 それが戦争じゃ
許せないならランボーになれ
>>665 終戦時に赤ん坊だった父ちゃんと同じぐらいか若いぐらいに見えたんだけど
うちの老親は当時7歳だったが、空襲にきたヘルキャット戦闘機をはっきりおぼえてたよ。黒い丸っこい飛行機だった、と
じいちゃん体弱くて戦場には行ってないんだが、
訓練中にふんどし一丁でランニングして糞漏らしながら走ってたって言ってたな。
俺の知り合いは、酔い潰れた夜に外泊証明書にサインをしたのだが、実は外人部隊の志願書類でな…
>>662 太平洋戦争で主力で最も活躍した日本の戦艦が
竣工して25年経つ古いイギリス製だったもんなあ
>>668 なるほど。
父ちゃんは終戦の時にバブーだったんですか。ならその傷痍の方がちょっと怪しいですが、それは父ちゃんの優しさではないでしょうか
>>665 鉄血勤皇隊は14歳で140センチの人がいたもんな
ばあちゃんは学徒動員で工場で働いてたんだけど
工場に向かってる途中に機銃掃射されたらしい
溝に隠れて助かったらしいけど工場は機銃掃射されて人が結構死んだんだって
じいちゃんは徴兵されて中国に行ったけど何をしてたかは何も話してくれなかった
>>673 それは開戦まではアメリカも同じだったけど、そこから近代艦をモリモリ作れたアメリカと日本の違いなんですよねえ
既に他界した祖父
玉音放送は何言ってるかわからんかった笑
>>674 優しさだったのだろうか、単に騙されただけなのか
今となってはその父も故人だから確認のしようがないが
>>662 会田雄次の「アーロン収容所」は日本人必読の書だよね
でも再訪アーロンの方は読まなくていい
ガキの頃よく聞かされたけどめちゃくちゃうっとおしかったわ 具体的なこと何も言わんと戦争はダメとしか言われても知らんし
>>353 わかる、ある高齢の方が海兵出身って経歴だったので「軍艦に乗っていらしたんですか」とか戦争の話を振ったけど「ええそうなんですよ」って言ったきりで話題をかえていた
後でよく調べたら航空隊で同期の戦没率が凄まじかった
>>682 具体的なことを言えないぐらい酷いということなんだよ、きっと
ソ連に捕まった収容所での話
手が凍傷にならないように手でチンポを握ってた言うてた
それだけは覚えてる
>>61 それはちょっと怪しいな。ただ笠岡生まれの友人が言うには原爆で空が光ったのを見た地元の人はいっぱいいたらしい。
あと昭和30年生まれの広島出身の同僚の女の髪の毛がかなり薄かったとか。被曝で子孫に影響が無かったって
ことになってるけどあれは嘘だろうな。18歳で髪の毛が薄い女なんてまずいないもんな。
小学生の頃親族に戦争体験を聞く宿題ってのがあって婆さんに話を聞いたら
『どれお座りよ』と盧溝橋あたりから訥々と歴史の講義が始まって
んーそういう話じゃねぇwと思った
今思うとろくに教育も受けてない一女子だった婆さんがそこだけあれだけ詳しかったのは不思議
やっぱり勉強したんだろうな、身に降りかかった理不尽な災害を。
もし身内のじいちゃんの中で、ミッドウェーで沈んだ空母4隻のどれかに航空で乗ってた人がいたら、その話はあまりにも貴重。
レコーダーで録音して残したほうがいいくらい
>>672 そう
もしかしたら、共通の知り合いかもしれんね
>>39 高砂の席とは新郎新婦の席 定期
ホテルの担当者がそんな間違いを書くのはありえないなあ
資産家で戦時国債大量に購入してた祖父は購入者は戦犯訴追されるとのうわさで全部燃やしたそうだが
もったいねぇ
大伯父さんが憲兵下士官で最初大陸に居て末期に台湾に移動したそう
終戦後蒋介石軍が上陸してくるってんで緊張状態だったが実際は鍋釜背負ったビミョーな集団で拍子抜けしたとか
なおマトモに射撃したのは訓練位だったとか
大伯父さんが言うには拳銃射撃は得意だったと言ってた
もし長門・伊勢・日向が大和といっしょに征けたなら、大和だけでも沖縄にたどりつけていたのかなあ
呉基地で飛行機の整備をしていて、戦後はマツダ自動車で自動車の設計をしてたじいちゃんに
小学校の宿題で出てた「戦争の話を聞かせてください」というのを持って行ったらろくに教えてくれず
結局亡くなるまでろくに教えてもらってない
それくらい話せない辛い事だったんだと思う
>>654 そりゃ戦後の大変な時にメチャクチャやってた朝鮮人のガチ被害者だし
朝鮮人の半分は不法入国で全体で100万人位しかいないのに常に1万人近くが獄中の民族を嫌うなって方が難しいだろ
朝鮮人見たら犯罪者だと思えってのは冗談でも何でもねえから
じいちゃんがなんで帰って来れたかというと、整備士だったからっていうのしか教えてくれなかった
味方の部隊を強襲するという不可解な任務をさせられたと聞いたよ
そこで裸の女性を見てなんかショック受けたとか言ってた
>>693 持ってても戦争に負けたから愛国債は紙くず同然やぞ。実際将棋の米長の親父はそれで大損して没落したらしい。
米長は「親父は歩く百科事典と近所から言われるほど頭が良かったが先を見る目が無い」って言ってた。
日本人が戦後愛国って言葉に拒否感を持つのはその言葉に騙されて酷い目に遭ったって感じてる人が多いからだろうな。
>>2 頭が後ろに長いとか言って嫌っていたイメージ
シベリア帰りのじいちゃんはなにも話さず逝っちゃった
台湾の司令部にいたからもう少し長引けば自分は生まれなかった(´・ω・ `)
多分、飛行機に乗って行った人は死んで
じいちゃんは整備する人だったから乗れなかったんだろうなーと思う
俺んちの身内は長野県の飯田にある母方の親戚の家から海軍の戦死者をひとり出してるが、その他はとんと大東亜に縁がない。
子孫からすれば巡り合わせが良かったとも言えるんだが
太平洋戦争時14歳の少年兵が今は90オーバーの爺様だからな
もうあと10年そこらで実際に2次大戦の戦場で戦った人は誰も居なくなるだろよ
>>61 俺のばあちゃんも山口だがきのこ雲が見えたと言ってた
親戚の爺さんはほっぺたを銃弾が貫通して笑窪が出来たと笑い飛ばしてた
じいちゃんがめちゃくちゃ頭良かったおげで、父もわいも、モノづくりの仕事についてる
戦後、爺さんが捕虜になってやっと帰還出来ると思ったら、引揚船のまま海上で一ヶ月隔離され、
その時にマラリア患者が出たが、手持ちの医療器具が少なくて困ってた時、
気の利いた薬剤師の人がササッと輸液キットを作ってくれた
戦後、その人は武田薬品工業の重役にまで出世したとか
親父側だけど爺ちゃん満州の辺りで軍が飢え死にしかかってる所に現地の人に胡瓜?口に突っ込まれて
生きて親と元にちゃんと帰れって助けて貰ったそうだ
助けてくれた人とずっと文通してた
戦後位か?婆ちゃんは男不在の時に押し込み強盗でチョンと露助やらに祖父母、母親と弟殺された
経緯は知らんが帰国途中に爺ちゃんに連れられて家に来たけど、強盗の時に孕でたらしい
爺ちゃんはそれでも一緒になろうって口説いだそう
中学の頃に末っ子助ける為に事故で死んじゃったそうだけど、仏間に飾ってある似顔絵は思いっきりハーフ顔
うん、婆ちゃんの方の話は小学生の俺には糞重かった
貫通銃創はあまり怖くないらしい
高熱の銃弾で消毒してくれるかららしいけど
本当かよと思った
>>654 俺の祖父は満州に出征して戦後は国家公務員だったけど、祖母が近所での事件を「朝鮮人がやったってきいた」って言ったときに
「ハッキリしないのにそういう事を言うものじゃない!」ってたしなめていたな
農家の男は戦士した人が多かったから、爺ちゃんは、あちこちの後家さんの農作業を手伝い、ご褒美に夜這いをして、後家さんをヒィヒィ言わせて、後家殺しと呼ばれてたそうだ。
じいちゃん補給兵だとか言ってたな確か
実家に山本五十六からの賞状みたいなのあった気がする
>>720 爺ちゃんはなぜ兵隊に取られなかったのですか
シベリアで強制労働させられて、ご飯が具のないシチューが続いて仲間が続々と死んで行ったとかで、母ちゃんがシチューやコーンスープ作っても絶対食べなかったから母ちゃんも滅多に作ってくれなくなった
なんか更にひどいことされそうになったらしくて気が狂ったフリをして逃げたと言ってたな
潮岬に赴任した親戚の爺さんが銃を前にして上官にこう言われたらしい。「おまえたちは赤紙1枚の価値しかない。
しかしこの銃は陛下から頂いた貴重な品物だ。敵の空襲から必ず守れ」
それで実際に米軍の空襲が来たら我先にと銃の上に被さって言ったらしい。下の方が安全で上だと
弾に当たりやすいから。
「こんな馬鹿なことやってたらそら戦争に負けるわ」って笑ってた。
仲間が沖縄出身の人がいて、戦後沖縄に帰れなくなって地元に連れて帰って家を借りてやったり仕事させてやったりしてたから、爺ちゃん死んだ時はすごい人がいっぱい来た
沖縄にその後仲間が帰ったけど、みんな死んでたか粗末に扱われたかでまた戻ってきて助けてやってた
愛想もクソもないじいちゃんだったけど、葬式の坊さんも爺ちゃんの戦友で命助けられたとかなんとかで葬式の時のお布施を1円も受け取らなかった
母親が子どもの頃、
火垂るの墓の冒頭に出できた空襲にあったそうだ
ちょうど母親も節子と同じ年頃だったので、
火垂るの墓は他人事とは思えないって言ってた。
当時、一緒に住んでいた母親の祖父が、
『この家の男はワシ1人やから、何かあった時はワシがお前らを守る。』
『ワシは死んでも家族を守る。』
と口癖の様に言ってたそうだ。
実際に空襲が起きた時、
母親の祖父は、真っ先に家族を置いて、
避難したそうだww
祖父が戊辰戦争に行ったらしいが、
何も語ってはくれなかった。
>>61 隣の県なら余裕で見えたやろ
ウチの婆ちゃんは長崎原爆のキノコ雲を熊本で見てるわ音も聞こえたし大人も子供も騒ぎになってたって言ってるわ
呉の海軍工廠に技術将校でいて、そこで終戦を迎えたと聞いた
>>428 まあ国に家族を人質に取られてるようなもんだったんでしょうね
陸軍大将がどれも無能だから初めから勝てるはずのない抗争に駆り出されて
武漢に駐在していた爺ちゃんは何年も掛かって香港経由で日本に帰ってきたらしいけど3歳の時に癌でなくなったから直接話を聞けなかったな
多分少なからず黒いこともやっていたんだと思う
ジョークなのか本気か知らないが、京都のじいさんばあさんにとって
「この前の戦争」つったら鳥羽・伏見の戦いのことだと言うのは本当かねw
自分が生まれる前に死んだ爺ちゃんの義手が実家に残ってるから戦争は怖いなって思うよ
獣医部将校として満州にいたけど匪賊狩りが嫌でたまらなかった
常習的に酒代わりにエタノール飲んでて肝臓壊した
>>717 いいよな、こういうの残ってるのは
俺も形見分けで戦時中の写真や祖父の尋常小学生時代の成績表とか級長任命書やら譲ってもらったわ
昔職場の先輩は、うるさい飛行機が飛んで来るたんび「撃ち落とすぞ」と言っていた。
うちの爺さん
学歴ないけどイケメン
上司の奥さんにウケが良く
トントン拍子に陸軍少佐になったらしい
軍歴証明書を取り寄せたら
ほんとに少佐でビックリした
爺さんは14歳で志願して兵隊に入った
憲兵?が教室に来て「志願する者!」と言って挙手させた
挙手しなかったら非国民扱いだったらしい
はだしのゲンの世界そのまんまだわ
幸い訓練中に終戦した
日露戦争で命懸けで部隊を救って月々報償金もらって土地持ちになったw
母方の祖父は満州
父の兄はビルマ
母方の祖母の妹の夫が硫黄島で戦死
>>743 それは本土決戦ダーとか言ってたドン詰まりの末期ですね😢
>>2 逆に中国人は家族ぐるみでよくしてくれたと言っていた
初物食べると長生きする弾に当たらないってのが戦地の迷信で広まって日本軍が子供の股裂きまくったって言ってたわ
パンプキンボム
原子爆弾の投下練習で各地に落としてる
戦争の話は聞いたことない。
うちの爺さんはペラペラしゃべるタイプじゃないからな
>>448 日中戦争前は100万人以上で
南京大虐殺で40万人くらい減った
これは千葉県の市原市や柏市程度の人口分
竹槍ジャップをつぶすためにB29で原爆からマシンガンが天から降り注ぎギャー
>>611 東京裁判の判決には不服だし台湾を国家として認めろと言う割りに、
サンフランシスコ講和条約は破棄するつもりが無い矛盾だらけの奴らだぞ( ^∀^)ゲラゲラ
>>115 グライダーの操縦訓練という事は桜花の搭乗員になる予定だったんだね。
じいさん満州に行ってたらしいけど
ヤマトホテルの近くでロシア女買いまくってた話しかせんかったな
>>742 ついでに言うと士官学校を出てないと佐官にまでなれないので、市ヶ谷か江田島か、どっちかを卒業なさってるはずですよ
俺の爺さんは口を開けば戦争は良くないと言ってた
でも酒が入った瞬間に「俺はマレーで英国の戦闘機を墜としたんだ」と嬉しそうに話し始めてたわ
>>462 震災で10万
空襲で10万
死体の皮をはいだり
歯や指から貴金属を略奪していた子孫が今の連中
俺の爺さんはかのロイエンタール直属の艦隊で駆逐艦の艦長だった
門閥貴族連合や同盟軍との戦争に際してはあちこち転戦したらしい
帝国最大の大逆人であるロイエンタールの事を絶対に呼び捨てにせず
「ロイエンタール閣下」と呼んでいつまでも尊敬してたんだよ
ロイエンタールが新領土総督に就任した後もハイネセンに赴任して
ランテマリオ星系でミッターマイヤー元帥の直属艦隊と戦ったそうな
「閣下を裏切ったグリルパルツァーは帝国軍人の面汚しだが、
あのランテマリオの激戦でワシがどうにか生き延びられたのも、
皇帝ラインハルト陛下に銃口を向けずに済んだのも、
グリルパルツァーの裏切りがあったおかげでもあるんじゃよ。
忸怩たる想いが残るし、閣下と共に天上に行く覚悟もあったが、
今こうして、孫のお前と話せる事に、感謝もしているのさ……」
と優しく話してくれたのを思い出すよ
うちのじいさんは食料調達班だった
鶏を追っかけ回したり芋を育てて掘ったりほとんど農家だったって言ってたよ
>>736 俺も聞いた事あるよ。京都の人は先の戦争っていうのは応仁の乱の事らしい。
勤労動員で海軍の武器の溶接をしていたら、
若い兵隊がどうしてもこれをくっつけてくれ!
と専門の溶接素材と違う金属(アルミ?)を
持ってきたらしい。
いや、これはこの溶接ではつかないと言った
んだけど、なんでもいいから形だけでもくっつ
けて!て頼まれてくっつけたらしい。
くっついてないと上官にぶん殴られる勢いだっ
たみたい。もちろん、強度なんてない。
親戚のおじさんは戦争に家族を取られて
国旗・国歌に恨みを持つ人もかなりいたと言ってたな
戦争を知らないウチらが軽々しく反日とか言うべきでは無いって
盗んだガンダムで戦ったら親父じゃないやつにぶたれた
>>559 当時は日支事変って言ったんだな
昭和14年ってことは泥沼化し始めた頃か
>>471 大日本手国軍にも殺されず、敵国民も誰一人殺さず
そしてあなたがそこにいる
いい話じゃないですか
>>726 今の自衛隊だって同じ事を言ってるよ
防大時代、当時の教官にこの銃のネジはお前らの命よりも重い
お前らは死んでもいいが銃の部品はネジ1つ無くすなって言われたよ
今思うとバカだよあいつ
若い頃のおばあちゃんが畑仕事してたら南方で戦死したって聞いてた義弟が帰ってきて腰抜かしたって言ってた。
その後遠縁のお金持ちの家が絶えるんで、結婚して夫婦で養子に入って名前だけ継いで、仲良くやってらした。
生前、戦地に行かず海軍の学校員でいたおじいちゃんはよく戦争の話をしたけれど、現地に行ったおじいちゃんの弟さんは戦争の話は絶対になさらなかった。
そういう事なんだな、と戦争の話を出来る人としない人とは。
>>78 今、地震がきたらこれの酷いことになるな
港で働いてたから空襲されるたびに網を持って舟を出したと。
海で爆発すると魚が浮くから掬って食べたって。
死んだら浮くの?
婆ちゃんは当時赤ん坊だった俺の父親を背負って空襲を逃げ回ったそうだが、飛んでくるミサイルが頭にゴンってぶつかったと言い張ってたな
>>474 戦争帰還者が口を一様に閉ざしたりしばらくして自害するのは
その仲間をカニバリズムのせいなんだろうね
無能な士官や役職者のせいで
敗戦国の将の武勇伝ほどみっともないものはない
多くの自国民だけを殺しておいて
じーちゃん
予科練を卒業して厚木に配属されたその日に
「貴様らの乗る飛行機はない」と言われ、
先任が着陸失敗して木端微塵になった、その
肉片を拾い集めて棺桶の中に人の形に並べる、
そんなことしかさせてもらえなかった。
ばーちゃん
3月10日東京大空襲で学校の防空壕に避難して
もうダメだ、出ろ!って言われて何がなんだか、
気が付いたら公園の滑り台の下でうずくまって、
目の前で人が火だるまになるのを眺めていた。
焼死体って、マネキンみたいなんだよ。
そんなじーちゃんばーちゃんも死んじまった。
Out of sight, Out of mind...
>>599 集めた後どうしてるかわかる?
ただ集めてるだけなのか、何か研究なりをしてるのか
>>377 イイハナシダナー
爺ちゃんもっとエロ動画見てくれ
済州島で囲碁将棋に明け暮れて上官から金を巻き上げて、果物と朝鮮漬がうまかったとか言ってたな
少年兵は怖がりで、壕を掘るためのダイナマイトでの発破作業も一人で出来ないとも
夏休みの宿題で聞いたそのまま書いたら、何故か担任に怒られたよね
武勇伝はお気に召さなかったんだろうか?
>>782 死ぬか、気を失うかすると魚は浮いてくるよ
>>785 飛行機も燃料もなく土方仕事ばっかり。
ドカ練と言っていたと聞いた。
そんな中でも同級生の一人は旧式飛行機で出て行って死んだらしい。
アメリカ人と日本人のハーフの知り合いがいるけど
そいつの祖父は爆撃隊のパイロットとして日本攻撃に参加したらしい
ちなみに撃墜されてから数ヵ月間行方不明になってたから、本国では勝手に戦死扱いにされてたらしい
そんな状態で帰還したから知り合いには幽霊だと思われてたみたい
>>51 韓国って日本と戦争してたのかぁ
お前中国人か北朝鮮人じゃん( ´・ω・` )
>>786 遊就館が所蔵して、展示品の入れ替えの時に展示されるかもしれない。
従軍記録をつけて、この資料はこの人のです、と分かるようにしておくと、目黒の戦史研究所の研究にも役立つ
>>489 状況にもよるだろうけど
レジスタンスを結成するとか
226、515するとか他に方法はいくらでもあったはず
ただ、家族を大日本帝国軍に人質として取られているので
なかなか分が悪かったとは思う
今より報道管制も厳しかっただろうし
情報源が新聞やビラしかなかったわけだから
>>758 そんな有名どころじゃなくて
超末期に作ってたベニヤ板製の対戦車特攻グライダーの可能性も無きにしも非ず
じーちゃんの戦友は腹に弾があたったらしい
その時に内蔵が出て中からモヤシのようなものが出たそうだ
たぶん回虫かなんかかなと想像
じいちゃんがモヤシキライな理由だってさ
>>794 ほー、サンクス
色々整理しててどうしようか考えてたところだった
爺さんの目の前で爺さんの親友が撃たれて死んだ
酔うと泣きながらこの話いつもしてたな戦争から生き残って帰ってきたことを誇りに思ってる反面戦争や国を恨んでるところがあった人だった
そしてそのトラウマのせいなのか爺なのにメンヘラ全開だったな
>>2 父親が満鉄勤務で満州で生まれ育ったばーさんの話だと 中国人は良い人らしく、朝鮮人の事はネトウヨかと思う位貶してたな
信頼出来ないやら、嘘を付くだとかとにかく嫌いだったみたい
じーさんは無線兵か何かで鹿児島までいって出兵を待っていたがそのまんま終戦になったとか
母方のじーさんは海軍を志願するも身長が足りなくて入隊できなかったとか
それがだいぶなコンプレックスだったらしい
大叔父は横浜からマリアナ諸島に向かう途中沈没して海の藻屑となった
いつも思うんだけど
日本の戦争経験者は大概「戦争は二度としたらイカン!」って口をそろえるけど
戦争に負けたから言ってね?
旧日本軍がアホだったから言ってね?
日本が戦争に勝ってたら、日本が勝てそうな空気があったら平然と反戦の態度を和らげる程度の根拠で言ってね?
なんか「戦争は二度としたらイカン!」って言う戦争経験者、すげぇ胡散臭いんだよな
>>788 だろうね
昭和の日教組教師はガチでイカれてたよ
爺さんがマレー作戦に弾薬補給担当で参加してた
至近で迫撃砲食らって死にかけたので負傷帰還
療養に1年半くらい掛かったが奇跡的に五体満足で日常生活は問題無いくらいに回復
以降は国内で兵站任務、主に食料品の調達をやって終戦を迎えた
最初の作戦で南方戦線に残ったままなら死んでたなって笑ってた
>>789 そういえばこの世界の片隅にでも
呉の空襲のあと「その日は魚がようとれた」とか描いてあったなぁ
>>491 確実にやってるだろうね
ベトナム戦争の韓国軍と
大東亜戦争の大日本帝国軍なら
>>802 流石に身内や大切な人が死んだら辛いだろ
しかも先の戦争は敵軍が本土まで来てたし食料や生活物資が本当になくて困ったんだからこういう形で戦争を行うのは誰でも嫌だろ
俺らが小学生だったころ定年間近の先生は戦争帰りの人もいたもんだ
今じゃ鬼籍に入ってしまったが
もう太平洋戦争も先人の遺した歴史になりつつあるな
家に実際に戦地に行った祖父の兄弟の日記があるわ。
その当時の苦悩とともに色々書かれてあるけど内容が凄惨過ぎてとてもここに書ける内容じゃない。
>>798 あとは、アジア歴史資料センター(通称アジ歴)に連絡してみるのもいい。
アジ歴も、すごい量の戦争資料を集めているよ
>>802 うちの爺さんは戦争は二度とするなと言ってたけど
もしするなら絶対に勝てと言ってたな
でも日本は内輪で足を引っ張るやつが多いから結局戦争には弱い
だから日本は戦争してはいけないと言ってたよ
母の実家が熊谷。
隣の家の屋根に爆弾が
落ちたそうな。
熊谷空襲というやつか…
父方の祖父は海軍で
毎日魚を食べさせられて
嫌になったとか…
>>802 身内に体験者が居たらまた違うと思うぞ。
祖父が兵士として駆り出される前に終戦を迎えただが、戦時中はは「お国のためになら」と実際にそう思ってたらしいしそう教育されていたと言ってたな。
男兄弟は1人を除いてみんな戦死。そういうのを体験した人が山ほどいるし、生き残った人は当然そうなる。
>>790 日本の航空隊は搭乗員の技量だけで敵国と渡り合ってたんだってね。
米国は設計技術も物量も圧倒的に優位だった。
優秀な搭乗員が死に絶えた後の空戦はもう、七面鳥撃ちだったって。
それでもヒコーキで飛べた人を、じーちゃんはうらやましがってた。
戦後、頑張って航空自衛隊に入ってF86に乗れた時はとても嬉しかったって。
その後、割愛組として民間へ移って、DC6B、CV880、DC8、B747、を飛ばした。
憧れの戦闘機の何倍も大きいヒコーキだけど、電気で飛ぶヒコーキだもんね。
ラダーペダルを踏み込んだ時の感触がぬるい、て言ってたよ。
今の時代のパイロットさんのメンタリティとは違う。
そんな人たちが昔はいたんだね。
ま、戦争なんてろくでもねぇ、って話。
>>810 例えば満州事変辺りの資料はどこに持っていった方がいいとかわかりますか?
キムタクの君を忘れないって零戦映画
ロン毛やらチャラい髪型に怒ってたわ
当時は全員坊主でそれ以外あり得ないと
軍支給の軍刀では一人切ったら
脂肪とかですぐに切れなくなるから100人斬りは無理だったと言ってたけど
先祖伝来の名刀でもこっそり使ったのかな
母方も父方も明治30年代生まれだから徴兵年齢じゃなかった
父が淡路島で子供のころ大阪真っ赤に燃えてるの見てたくらいだな
東京大空襲に遭った祖母から聞いた話。
「凄く恐かったんだけど、私をずっといじめていた女が死んだからざまあみろと思った。黒こげになったらしいのよw」…。
夏休みの宿題で「祖父母から戦時中の体験を聴いて作文に書く」という課題が出て、それで話をしてもらったんだが、
「ざまあみろ」のくだりは省略した。
もう戦争終わった後だけど、都島あたりの川で小石拾いしてたらよく骨が出てきたよ
>>821 工業的にレアメタル配合して鋼材で作った軍刀の方が切れ味いいんやで
大陸朝鮮からの引き揚げの時の悲惨。
昨日まで隣人として付き合ってきた朝鮮人の手のひら返し。
朝鮮人は朝鮮戦争とかで、恥ずかしげもなく「戦火を逃れて」「日本に」かつて逃げる一般人を石礫で追い回した日本人の国へ難民と称して転がり込んできた。
そのリアルな記憶ものこしておかなければならない。歴史の証人は今の80代90代の老人たちだ。
彼らの多くは朝鮮人を毛虫のように嫌っていた。家財一切を置き去りに石礫で追われたリアルな記憶。
家財を奪われ、殺された記憶。
難民 と称する在日朝鮮人は覚えているのか。父母が一般日本人にした仕打ちを。
恥ずかしげもなく石礫で追い回した相手の国に居座る人達。
ジャーナリストと言われる人達の誰も触れない一般引き上げ者の記憶。
俺のじいちゃんがいた部隊はフィリピンにいたけどそこから更に南の島に南進を命じられたそうだ
ただ肝心の船がもうなくて足止め食らってるうちに終戦した
行けと言われてた島の部隊は玉砕したから船があったら死んでたって生前よく言ってた
ニューギニアの奴人の女が長く垂れ下がった乳をうしろにポンと投げて赤ん坊に乳飲ませてたって話w
空襲で昔の家焼かれた後に
今の場所まで逃げ延びてきて不法占拠して家建てたと聞いた
その土地がいつのまにか数千万円とかふざけた話だよな
>>816 戦史資料は、年代によっていついつの資料はここに みたいに分かれてませんからね。
私なら、まずアジア歴史資料センターですかね。あそこはデジタルアーカイブにして資料を公開もしてるので
祖父が衛生兵で満州に行っていたらしい
中国人のことをシナと言って侮蔑していた
何かがあったんだろうと思う
アナウンサーの鈴木史郎さんが終戦後
中国から引き上げてくる時の話をされたインタビュー記事
南京にも行ってたそうで貴重な証言が載ってる
ttps://getnavi.jp/life/377669/
>>829 焼け野原なっちまえばそらリセットされるのはしょうがない
空襲を受けたとこは早いうちに大規模で近代的な都市計画ができた
あと、「ガード下でアコーディオン弾いてた連中はみんな朝鮮人よ。日本人ならあんな恥ずかしい事しないわ」。
夫が戦死して20代で4人の子供を持つシングルマザーになった大正生まれの親族の話。
これだけインターネットで全世界が繋がれる時代に国同士が戦争するなんて馬鹿らしい
オリンピック観てたら余計に思うよ
身近な小競り合いは無くならないだろうけど国の指導者はまず国同士が仲良くやれるよう頑張ってくれよ
>>826 うちの爺ちゃんも「露助と朝鮮人だけは絶対に信用するな。絶対に裏切るから。」と言ってたよ
>>504 多分、現役時代でもそんなに強くなかったと思うよ
君や俺でも戦い方では勝てるはず
爺が営倉に入れられないように気を付けていたとはよく言っていた
あと軍隊にやくざ者が入隊して博打のイカサマを見せてもらったと言っていた
戦時中の資料を集めて展示している資料館は、都内なら
昭和館、しょうけい館(傷痍軍人関係が主)、平和祈念展示資料館(引揚者関係が主)あたりだな。
>>519 生前はきっと優しいお爺さんだったんでしょうね
>>836 ネットで繋がってるからこそ
サイバー戦争という新形態の戦争が起きてるわけだけどね
焼夷弾に襲われた東京大空襲時、上昇気流により風速100m/h超え
陸軍少年航空兵としてガ島に行ったらしい
墜落するも自力で島まで泳いで生き延びたとか
その後復員で空母に乗って帰国した
どこまで本当かはわからん
>>520 >>534 大丈夫だよ
朝鮮人は日本人の祖先だし
戦後、東京に入ってきたのもハーフ、クォーターから希釈されていってるだけだし
じいちゃん プリンス オブ ウェルズへ戦闘機で雷撃戦に参加。
マレー沖海戦の英雄が身近にいて 尊敬できるじいちゃんだった。
爺さんが中島飛行機で製図書く文官だったんだけど終戦近くには結局南方に送られることになって輸送船で向かってたら同時に向かってた船が撃沈させられたんでトンボ返りして行かずに済んだ
>>833 こういう記録はなかなか表に出ないよね。
引き上げ者が普通に汽車に乗って帰ってこれたように思ってる人が多い。
女子供がワザと顔を泥だらけにしたり、年頃の娘が髪を切ってだんそうしたり、
小さい子はさらわれないように隠したり。略奪はひどかったようなね。
ウチの祖父は朝鮮からの引き揚げで、父は向こうの生まれだった。小さな会社をやってたけど引き上げてきたときは無一文だった
大伯父元中将 戦争前に退役して戦時中は貴族院議員やってた
その縁かじいさん死んだときに衆院議長から弔電来てた
ある日とつぜん、殺さないと
殺される関係になるとか、
過酷よな
母方のおじいちゃんはラバウルで捕虜になって
あまりにも捕虜が少なくて食事が余るからって毎日死ぬほど食わされたらしい
ちなみに戦闘が始まる前はみんなで畑作ったりして結構のんびり過ごしたらしいぞ
>>802 もし本気でそう思っているんだったら、想像力が著しく欠如しているか、
思いやりの気持ちというものがまるっきり欠けているとしか言えないね。
身内や近親者に戦争で理不尽に亡くした人たち、
満州や朝鮮半島等で生きるか死ぬかの思いをした人たち、
地獄のような苦しみに耐えて戦地から帰ってきた人たち、
戦中戦後でひもじい思いをした人や財産を失った人たち、
そういう人たちを前にして、その感想をぶつけられるかって言ったらできないだろ?
>>544 >川で焼け焦げて横たわってる友達らしき姿を見た
どう考えてもそれ嘘だよ
婆ちゃんの従兄が紫電改にのってて豊後水道で若くして戦死した
結構優秀なパイロットだったみたい
戦時中おばあちゃんの家に海軍の礼服をビシッときめた将校さんが
高級な菓子折りをもって訪問してきて父親と何やら話し込んでいった
その後しばらくして食事中に風もないのに障子がガタガタっと揺れた
なんだろうと思ったら父親が「幸作、逝ったか・・・」と呟いたらしい
1945年4月7日坊ノ岬において戦艦大和艦長有賀幸作以下2740名戦死
有賀艦長の実家は誰も後継ぎがいないのでその後処理を頼みにきたらしい
>>551 ファミコンウォーズかな
でもセガの大戦略の方がリアルだったよね
浜松への艦砲射撃はこの夜のものとは思えない轟音が轟き続けたと聞いた
富士山を目標に侵入するB29の本州上陸地点にあたる浜松は事前にただ一つの高射砲も残さないよう徹底的に破壊された
>>851 と言うと、ご祖父は陸攻乗りですか。
あんな大型機で雷撃、爆撃をなさるとは、さぞ腕利きのパイロットにちがいないですね
https://i.imgur.com/OaX2vWm.jpg 母子で東京の都心に住んでいたけど、空襲が激しいから
子供だけ東京郊外の親戚の家に預けたら、
その郊外の町が空襲被害に遭って子供が死亡、都心に住んでいた母親だけ生還、というケースを聞いた事がある。
母ちゃんは死ぬまで罪悪感に悩んでいただろうな。
プライベート・ライアン
ハクソーリッジ見なさい。
2度と、戦争なんかしたらいかん
10年以上前に大往生したオレのじいさんは年齢ギリギリで徴兵を免れて終戦
小学生の頃、夏休みの宿題で年寄りに戦後の大変な時代の話を聞いてまとめるというのがあってじいさんに聞きに行ったら
アメリカの爆撃機が悠々と飛んでるのに日本の高射砲が届かなくて悔しかったとか、ソ連が負けてから喧嘩を売って悔しかったとか、今度アメリカと戦う時は充分に準備して絶対に負けないようにしなければならないとかそんな話を延々とされた
駅前なんかにいざり乞食と呼ばれる人達がいたらしいな
>>866 バンドオブブラザーズとザパシフィックも見ないと
>>862 アクトシティの基礎工事に主張で行った時に不発弾が発見されてしばらく中止してた
30年くらい前
>>570 昔は兄弟が10人とかざらだからね
家督継承に関係ない末に近い方が
無益な戦争に駆り出されていた可能性はある
>>248 そうとは言えん
ウチも子供の頃その話聞いた。
爆撃後の重量減らしとか憂さ晴らしだったらしい
>>862 それ、45年7月末に、ヤマハの工場が砲撃されたときですかね。
だったら英国海軍の戦艦「キングジョージ5世」を含む艦隊の任務です。
356ミリの主砲で撃たれてますから、それはとてつもない音がしたでしょう
>>869 昭和50年代位には天王寺の跨道橋に傷痍軍人が座ってたぞ
>>575 二発の原爆投下、真珠湾攻撃、アジア侵略
全て日本が悪い
だから無条件降伏
むしろ原爆を使わざるを得なかったアメリカこそが被害者
ひめゆり学徒隊が
まるで、左翼思想みたいに書かれる事あるが
スーパー戦争に参加して命消した
歴戦の兵士やで
そんな、時代よ…
爺ちゃんは大陸まで行って景徳鎮の壷をかっぱらって来た
と武勇伝を語っていたが
戦争に負けた引き上げ陸軍二等兵が担いでこれる大きさではないので
本人が死んで40年になるが、誰も鑑定に出さないで本家の土間にほったらかしてある
>>6 うちの祖父母と親父が朝鮮で終戦迎えたが、それまで貧しい朝鮮家庭を日本人家庭がサポートしたりと
助け合いでそれなりに仲良く過ごしてたんだと
日本敗戦が知れると朝鮮人どもが夜な夜な日本人宅に大勢で石を投げる強盗に入るの蛮行が始まり
うちも祖父が刀持って追い払うような事が何度もあったらしい。
出征で主人のいない家庭の女性がレイプされるなんて日常茶飯事で
妊娠させられ帰国時に船から身投げした人もかなりいたと。
身投げできず朝鮮、満州から帰国した人は二日市保養所(病院)で当時は違法の堕胎手術を受けた人がおよそ500人
と記録がある。
あと終戦後の国内の朝鮮進駐軍とかは周知の通りだし、この辺の事もご存知だったかもね
長文スマン
>>877 うちの父は弟を戦地に送りたくないからってのな長男だけど志願兵になったな
>>583 原爆でも焼夷弾でも流れ弾でもプリウスミサイルでも
人の命の重さは平等でしょ
多い少ないの問題ではないはず
回天の部隊に選ばれたけど
操縦が絶望的に下手で練習している間に戦争終わったって
今がまさに戦争状態なんだけど気付いていないノータリンまだいるの?
浅草に住んでた婆ちゃんが焼夷弾降ってきて隅田川に逃げ込んだ話し
向島は焼死体だらけだったって
じいちゃんはパラオに向かう途中で終戦になったと聞いた
ほんとかどうか知らん
>>887 回天の操縦は上手いとか下手とかの問題じゃないと思う
じいちゃんが航海長で味方に物資送ったりしててたまたま盲腸かなんかになって乗れなかった時に潜水艦沈められたって
名前検索したら出てきたから本当なんだろうな
広島の爺ちゃんは爆心地から4kの所にいた
被爆者手帳あったら医者が山盛り薬出してきて医者も儲けてたらしい
>>795 戦前生まれの人と話したこと無いだろ
なにも知らないのに戦争を語るな
>>601 プルデンシャルタワーとかウケるんですけど
>>248 実際あちこちで余暇としてやったりしてるぞ。
俺の親父も砂浜でやられてる。
>>894 うちの父方薩長側だったのに蝦夷地に島流しされて北海道に親戚おるわ
稲田侍乙(洲本藩士の家系)
マニラ付近で死んだらしく遺骨も帰ってきてない爺さんについて
戦後50年以上して戦友だった方が自分ら遺族を探し出し詳細を教えてくれたことがあった
いわく戦争末期にマラリアで病死、現地にて隊友が埋葬してくれたと
母親(ひい婆さん)は息子が野ざらしで戦死していたら可哀そうだと言ってたので安心していた
>>802 うちの婆さんは身内や知り合い戦争で亡くなってるけど兵隊姿はカッコよかったと言ってるわ
戦争ドキュメンタリー大好きだし次こそ勝たんといかんって言ってる
>>190 俺の婆さんはヒトラーのこと「頭いいんだか悪いんだか分んないような人だったよ」って言ってたな
>>884 そんな奴らが朝鮮 戦争時、難民 として日本に逃げ込んできたんだぜ
本土決戦をおきなわで
食い止めたことは、わいは
誇りにおもってる
当時の日本じゃアドルフおじさんのことは、どういうふうに報道しとったんやろね🤔
>>895 あるよ
家にも明治創建の歴史の浅い安っぽい神社の表彰状みたいなのもあるし
墓所にもきれいなツボに遺骨の代わりに安っぽい石ころみたいな勲章が入ってた
会ったことも話したこともない人だけど
あなたもこの国の魑魅魍魎に殺されたんですね、と心の中で呟いて毎年手を合わせてる
水木しげるの戦争はいけません。腹が減るだけって言葉心に残る
>>486 うちのバーちゃんが広島市の工場で働いていて、家の用事で8月のはじめに福山市の実家に帰って
それから間もなくあの惨事が…
工場や学校の友達が沢山亡くなって悲しいと言っていたな
ほんのちょっとした事で生死が分かれてしまう
>>905 その話を聞きながらレジスタンスとか口にできる神経がわからない。
ほんとに心に響いてるのかな?
朝鮮人悪事スレになっててワロタ
日本人こそ韓国北朝鮮に謝罪と賠償求めなきゃな
>>606 なかなか先見の明のある聡明なお祖父様でしたね
東久留米市、西東京市に中島飛行機の工場があって
よく空襲されたらしい、俺のオヤジが畑で遊んでたら機銃掃射食らったらしい、被弾せず
その後、不発弾がよく出て来た
母方は地主富裕層だったので戦中戦後は特に食料困ってなかったそうだ
祖父がやり手で農地解放されてもすぐに資産折り戻して山三つ持ってて没落はしなかったようで
>>909 敗戦国の女子どもには何をしても構わないというのが彼らのスタイル
そのスタイルは今も受け継がれている
>>787 ・・・もういいよ・・・片目しか残ってないのに
エロ動画で視力失ったらどうすんだよ
中国兄さんと戦争するかもしらんから、
お前らも、気合い入れて生きんとな…
うちのばあちゃん海辺の家と避難先の山を何度も往復してたそうだ
米軍の演習地で今は規制が厳しくて入らないけど
自分が中学高校までは緩くてよく遊びに行ってた
ガラマン岳って小さい山があるけど登ったら実際に茶碗とか日用品のカケラとかがあった
>>621 強姦拷問虐殺略奪
俺たち倭寇文化の日本人の犯罪文化を否定するなよ
>>862 清水市も艦砲射撃された
当時10歳だった親父が夜に音が聞こえて何だろうと思っていたら、大勢の人が逃げて来て「敵の船が攻めて来た」と言って町内がパニックになった話を聞いた
警報鳴って防空壕に隠れてしばらくしたら機銃の音が聞こえて震えてたってばあちゃんが言ってたな
>>802 >日本が戦争に勝ってたら、日本が勝てそうな空気があったら
って簡単に言うけどさ、その勝利の定義ってどの辺を指してるの?
大日本帝國に宣戦布告してきた国の数だってエラい事になってるけど、
それ以上に対米戦だけに絞っても勝てる要素なんて1ミリも無かった。
軍需物資を輸入している相手に戦争をふっかける訳だからね。
それでも対米開戦に踏み切ったのは対米戦の勝利の可能性を分析して
完璧に無理と判断して国を動かせるだけの力を持った人材がトップにいなかったから、
東条はじめ中国撤兵断固拒否派が「清水の舞台から飛び降りる」気持ちで開戦した。
先の戦争経験者が「戦争は二度としては駄目だ」と口を揃えるのも
実体験でその悲惨さを目の当たりにしているのもあるし、
上で書いた当時の国の有り様への批判も当然含んでいると考えるべき。
駿河湾のこんな奥まで来ていると思ったら、もう負けた みんな殺されると覚悟したそうだ
ほんとかどうかは知らんけどうちの爺さん「終戦があと3日遅かったら特攻の予定だった」とか言ってたな
銃を持って突撃したらまわりの仲間がバッタバッタと倒されていく
悔しくて悔しくて涙を流しながら「ワー!」って叫んで突っ込んだって聞いた
>>924 「闘わざるえないのなら、早期講和
それを、失敗すればこの国は亡びる」
山本五十六は、立派な人よ
ほんと武士
>>918 しかもボケてないから恐ろしい
腎臓片方ないのに健康だし
>>921 本当にそれ日本人が大陸で強姦拷問虐殺略奪しかしていなかった歴史が恥ずかしいよね
日王や戦犯国民は処刑して欲しい
>>913 あぁそれな
やっぱそれなりにお金あると困らなかったらしいな
聞いた話もそんなだったから身内だけで話してた
アングロサクソンに、1発かましたのよ
先祖がやってくれた
ボロクソにやられたが、舐めたら痛い目に遭わしたる
「正面戦争」やったのは
アジア人の防波堤になってると思うね
あとは、知らん
戦後帰還事業があったのに
なぜノウノウと日本にいるんだろ
日本軍の対米早期講和って、ミッドウェーで勝ってハワイ取るの前提で話を作ってたからね。
あそこで負けたあともハワイに向かってムリクリ大侵攻作戦やろうと思えばできたけど、失敗したらどうするという迷いがあって、やらなかった
知人のオヤジさんの話だが、ガダルカナル島の生き残りと聞いた事がある 片脚を失ったらしいが
ガダルカナルはまだ戦争序盤なので、何でも玉砕では無く撤退という考えもあったらしい
>>904 うちのおじいさんは、時代の波に乗った風雲児のような感じだったようなことを言っていた。
(彼が権力を握っていた時、20代。)
もちろん、ユダヤ人狩りや強制収容所のような悲惨な話は全然聞いていなくて(報道もなかったらしい)、
威勢のいいことばかり伝わっていたそうだ。(再軍備宣言、日本と同じく国際連盟脱退、オーストリア併合、チェコ併合)
きわめつけは第二次大戦のポーランド電撃作戦と占領、三国軍事同盟、
何より驚いたのはフランス占領だって。
(フランスはナポレオン以来、ヨーロッパの先進国で、第一次大戦も勝者の側、まさか負けると思わなかったって。)
スターリングラードの苦戦もそんなに伝わっていなかったらしいし、犯罪的なことは戦後知ったということ。
満州からの引き揚げ船の中で朝鮮人が妹の大事にしていた人形すらも略奪しようとしてきた
金や食料でなく日本人から取れるものはなんでも奪おうとしてきた
戦勝国ですらないから同じ船に乗り合わせているのに自分たちは戦勝国であり日本人は敗戦国民なのだから言うことを聞けと
朝鮮人とは関わってはならない
死んだじいさんが関東軍で満州に遠征してたな
食料なさすぎてネズミ食ってたらしい
もう一人のじいさんは特攻隊に志願するも若すぎて却下されたとか
広島爆心地に朝鮮人が押し寄せて
杭と縄で勝手に土地を占拠。
んで二次被曝したら被害者面。
子供の頃から聞いてたから
都心でも駅前にパチ屋があるのを
なるほどね、って思ってた。
>>904 追加して言うと、報道というか言論界ではポッと出のヒトラー(正体のよく分からない政治家)より、
1920〜30年代はじめ頃まで、時代を牽引する政治家として日本に紹介されていたのが、
ロシアのレーニンとイタリアのムッソリーニ、トルコのケマル・アタテュルクだったそうだ。
(当時の世界ではムッソリーニの評価がえらい高かった。)
>>802 歴史の授業でもさ
日露戦争までは「日本スゲー!」って感じで教わるんだよな
でもWW2では日本は世界に迷惑かけた、戦争はダメ!って感じで教わる
勝てば官軍ってこと?
>>944 威勢のいい話しか伝わらないにしても、ドイツは掛け値なしに威勢がよかったですからね
>>802 負けたからダメなんだぞ
当たり前だろ
負ける戦争はするなってのが教訓
>>949 アタチュルクはトルコ建国の父だし、日本人はそういう一代記が好きですからね……
>>952 正当な理由があればやってもいいけど、やるなら負けちゃいかんって話だよねw
>>802 戦後教育は実質的に米国の管理下
団塊以降の世代が目も眩むような幼稚な馬鹿ばかりなのもその為
山梨の親戚は疎開した人達に米出したり支援してた。
自分が小さい時に親戚の家はまだ電球に黒い布が被せてあったな。
もう死んだが爺さんが軍刀と銃を床の間にずっと飾っていたな
とても寡黙な人だった。
祖父母の代までサハリンにいて祖父は頭のいい人だったみたいでめっちゃバイリンガルだったから通信官の大佐だったみたいだけど
祖父の部隊は死人が出なかった戦後引き上げる時もサハリンは比較的マシだったらしい
隣町とかがレイプや虐殺やらが酷かったと聞かされた
ちなみにアメリカGHQが戦後の日本に日本共産党を復活させたのは、戦後日本が思想的に、一方向に偏らない障害にするためなんだそうです。
>>922 秋葉山の北、旧清水工業高校跡地辺りの山に高射砲跡地があるな
飛行機飛んできて背後から機銃掃射されたけど後ろ取って竹槍で落とした
夜中B29飛んできて爆弾落としたから竹槍投げて100機落として表彰された
学徒出陣で漁船に1000人のって米責めた
赤城の埋蔵金フィリピンに沢山埋めた
って隣の老夫婦に聴いて感動したなあ
父親が、サハリンから引き上げて来れなかったら
俺は、生まれてない
>>968 そのお年で5ちゃんのニュー速とは、気が若いですね
40年位前は新宿駅で片腕の軍服がよくハーモニカ浮いてたわ子供の頃
本当かわからんけど
>>968 おじいちゃんさっきご飯食べたでしょう?
うちの婆さん、学生だった頃に友人と3人横一列に並んで飛行機逃げていた
真ん中だった婆さんは助かって両サイドの友人は機関銃にやられてしまったと
唯一聞いた話
死んだ爺さんは明治生まれだから確実に戦争に行ってたと思うんだけど一切話さなかったよ
爺さんが中国の田舎の方に行ってたが、戦闘もなく毎日馬に乗ったり、現地の人から絵や習字を教わったり、子供たちと遊んだりしてのんびりしてたって。
食料を調達する必要があるから、基本的に現地の人とはトラブルは起こさないそうだ。
結局、戦闘の無いまま終戦。
現地の人から食料をたんまりもらって帰国の為に上海まで来たら、ボロボロの日本兵が大勢いたから食料を分けてやったって。
1940年代には俺がおらんかったからな
俺がいたら米英など余裕で倒せてた
昭和30年生まれの人かぁぁ
DOSMOS初号機使ってた世代かな
C語マニュアル”作成”世代かも
PC界隈だとすべて初号機組立使用派で
プログラム界隈だと海外で勉強して日本に伝授した世代かな
配属先ガチャ怖かったろうなキスカ島とか行った人は終わりやろ
>>839 戦争や殺し合いで生き残るってのは、単純に本人の強い弱いだけじゃないだろうな
ただ、殺し合いをして、相手を殺して生き残ってきた人は、一歩間違えば自分が殺されてたことも自覚してるから覚悟が違うだろう。
大昔の話よりも東日本大震災の話の方が身近で恐ろしいわ
知人から聞いた話だが米中貿易戦争でだいぶ損したみたい
きのこvsたけのこ戦争がいまだに終戦をむかえていないと聞いた
>>32 作り話じゃないかな?
ふかしたじゃがいもが食道にずっと残るかな?
それに秩父だとしても、川越あたりまでおんぶして出てこれるでしょう?
俺の祖父は中国で重機関銃の射手をしていたそうだ。なかなか陥落できない場所で集中砲火を浴びて戦死。享年29歳、祖母は当時24歳で母は1歳、叔母はまだ祖母のお腹の中。最後まで祖母と母のことを心配して亡くなった。ちなみに四人兄弟全員出征して戦死したのは末っ子の祖父のみ。
>>967 お前いくつよ?
5chやってる場合か?
>>982 死にゆく漢達は!
守るべきオンナ達に
死にゆく女たちは
愛する漢達にー
何をかけるのかー
何を残すのかー?
バンザーイ特攻♪
>>971 傷痍軍人か俺が子供の頃、大きな駅とかにいたわ。
あまり子供受けしない軍歌とかをアコーディオンで演奏してた。
>>981 三船敏郎なんて航空写真隊だからな部隊に配属された仲間はみんな帰ってこなかったらしい
>>993 特攻隊員にヒロポン打ってやってたらしいな
>>992 上野新宿に良くいたね
東銀座の松屋?地下通路にも
いつのまにかいなくなった
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