1590年、天下人である豊臣秀吉から関東への国替えを命じられた徳川家康。本拠地候補には、当時すでに都市として完成していた小田原や鎌倉もあった。
しかし、家康が選んだのは江戸であることは周知の事実。当時、辺鄙な田舎町でしかなかった江戸を家康が選んだ理由とは? 作家の新晴正氏による
『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。

(中略)

家臣も驚いた「江戸」への移封

秀吉が家康に対し関東への移封を命じた時点で家康は、三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5カ国を領する実力者であった。
それを召し上げ、替わりに後北条氏の旧領であった関東8カ国(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野、常陸)を与えようというのである。

確かに石高だけを見れば150万石から250万石へと大幅に増えることになるので家康の面目は立つのだが、中央から遠ざけられることによる影響力の低下は否めなかった。

秀吉がそうまでして家康を自分のそばから遠ざけたかったのは、家康が自分に匹敵する実力者だけに、「いつかこの男に寝首をかかれるかもしれない」
と怖れたからにほかならない。おそらく秀吉は、剣呑な敵対者を少しでも遠くへ追いやり、その隙に豊臣政権を盤石なものにしたいと考えたのであろう。

家康が関東への移封を命じられたとき、家康の大方の家臣たちは、ご主君は小田原か鎌倉のどちらかを本拠と定めるに違いないと読んでいた。
小田原は後北条氏の本拠地として長く栄えており、今回の小田原攻めにおいても城自体はほとんど無傷であったのも好材料だった。

一方、鎌倉はかつて鎌倉幕府が置かれており、武士にとっては「聖地」のような場所だった。小田原か鎌倉か、家臣たちが注目するなか、家康が選んだのは、まさかの江戸であった。

このときの家康の決断に対し、家臣たちは一様に驚愕した。家臣の一人の石川正西が著した『聞見集』には、「どうしてそんな所にと、誰もが手を打って驚いた」とある。

前述したように当時の江戸は低湿地帯が多いごく辺鄙な土地で、そんな土地に新たに城や町をつくるのは至難のわざであると誰もが考えたのである。

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