近藤の事務所内での孤立は不倫発覚前から始まっていた。どうしてなのか。

「近藤さんは1980年代に次々とヒットを出し、事務所を支えた立役者なので、ヒットが途絶えた後も特別扱いされていました。
けれど、近藤さんの活躍は若い所属タレントにとっては自分が生まれる前の話。近藤さんの特別扱いを若手は素直に受け止められなかった」(同・レコード会社幹部)

 今でこそ「帝国」とまで呼ばれるジャニーズ事務所だが、1975年に郷ひろみ(65)が移籍し、1978年にフォーリーブスが解散した後はスター不在で苦戦。そこに現れたのが近藤だった。
「スニーカーぶる〜す」(1980年)、「ギンギラギンにさりげなく」(1981年)、「ハイティーン・ブギ」(1982年)などを次々とヒットさせた。事務所の救世主だったと言っても過言ではない。

今後は
 けれど、若手たちには実感の湧かない話。「近藤さんのことを売上面で事務所に貢献していない人と見ていたのではないか」(同・レコード会社幹部)。
それでいて事務所が望んでいるわけでもないカーレースに熱中していたので、近藤は敬遠されてしまうようになった。

 近藤が事務所の「長男」を自称し、兄貴風を吹かせたことも若手には煙たかったようだ。近藤の態度は副社長に就いた後の滝沢氏に対しても同じだった。

「滝沢さんは才能と努力をジャニーさんに買われて副社長になった人。正当な後継者です。無論、メリーさんとジュリーさんにも認められてのこと。
しかし近藤さんにはその認識が薄かった。自分が格上だと思い続けていたのではないでしょうか。滝沢さんとしては愉快ではなかったでしょう」(民放番組制作スタッフ)

 近藤に次ぐ事務所の次男と目されてきた東山紀之(54)は滝沢氏が副社長に就くと、すぐ祝意を示し、全面協力を約束した。TOKIOの城島茂(50)らほかの先輩たちもそう。近藤との差は歴然だった。

 そして不倫の発覚が近藤の孤立を決定的なものにした。事務所スタッフたちの努力を水の泡にしてしまったからだ。

 近藤は昨年、芸能生活40周年だったため、スタッフは同12月12日のデビュー日に向け、お祝いムードを高めようと懸命になっていた。テレビ出演などをお膳立てした。
長くヒットがないのだから、スタッフの努力がないとテレビ出演はできない。