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日本さん、中国共産党の命を二度も救っていた国賊パヨクと判明
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0001ノルウェージャンフォレストキャット (東京都) [US]
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2021/01/03(日) 20:22:02.70ID:VRI1dKgo0●?2BP(4000)

【年のはじめに】中国共産党をもう助けるな 論説委員長・乾正人
2021.1.1 10:00コラム主張

 新年早々、くだらぬ話で恐縮だが、私はかなり濃厚な「親中派」だった。

 40年前、大学受験で選択した外国語は中国語だった。NHKラジオの中国語講座を熱心に聞き、元共産党員が先生をしていた市民講座に通った成果を誇示したいという若気の至りからである(英語が苦手だったからでもあるが)。

 当時、そんなばかげたことをした高校生はほとんどいなかったが、市民講座で配られた質素なテキストに載っていた「赤脚医生(最低限の医療知識で農村を巡回した医者。文化大革命時に毛沢東が奨励した)」の話は、今でも覚えている。

私は「親中派」だった

 いずれ中国は米国と肩を並べる大国になり、中国語をマスターすれば何かと得だ、という打算もあったが、幼稚な高校生の夢想をはるかに上回るスピードで中国は発展した。自由と民主主義とは無縁のディストピア(理想郷と対極の世界)になろうとは、想像だにしなかったが。

 夢想から目覚めさせてくれたのは、平成元年6月4日に起きた天安門事件である。中国共産党は、軍を出動させ、自由を求める市民や学生に容赦なく銃弾を撃ち込み、鎮圧した。犠牲者数はいまだ正確にはわかっていない。私は当時、就任間もない宇野宗佑首相の番記者として、一挙手一投足を追っていたが、事件について何も発信しない彼に大いに失望した。「この人は総理大臣に向いていない」と日記に書いた。

 それどころか、事件当日に外務省は、西側諸国が共同して制裁措置をとることに反対する文書を作成していたことが、先月公表された外交文書で明らかになった。7月に開かれたアルシュ・サミットでも日本は一貫して制裁を緩やかにしようと立ち回っていた実態も明確になった。

 ベルリンの壁が崩壊した後、東側諸国が次々とソ連のくびきから離れ、ソ連共産党の一党独裁が終焉(しゅうえん)を迎えてから今年で30年。

 天安門事件を引き金として中国共産党による一党独裁体制が崩れていたとしても、何の不思議もなかった。そんな瀕死(ひんし)の共産党を救ったのが、日本だったのである。

 「中国を孤立化させてはいけない」を大義名分に、いちはやく経済協力を再開したのも日本だった。

以下ソース
https://www.sankei.com/column/news/210101/clm2101010001-n1.html
0037アフリカゴールデンキャット(茨城県) [ヌコ]
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2021/01/03(日) 22:14:27.22ID:NxYOZcSv0
角栄のバックに創価がいる

https://smfjapan.jp/world09.html#06
中国国交のきかっけは創価学会

中国社会との直接的な接点をもつ日本の新宗教の代表的なものとして創価学会、立正佼成会を挙げることができる。なかでも創価学会は、1960年代という早い段階から中国社会との交流を深めている。創価学会が出版する資料などに基づくと、
創価学会と中国側の接触は、経済人である高碕達之助、作家である有吉佐和子を介して行われたという。創価学会側は両者を「入口」とし、周恩来をはじめとする中央政府とのコンタクトを図った。
とりわけ LT 貿易(Lは廖承志(Liao Chengzhi)、Tは高碕達之助の頭文字を表す非公式な日中間の貿易覚書)東京事務所の孫平化、中国の特派員であった劉徳有等を介して創価学会の存在が中央政府、ひいては周恩来にまで伝えられたとされる。
 中国の一般紙にその名前が登場するようになったのは 1962年で、雑誌『世界知識』のなかに「日本の創価学会」という短い記事が登場する。この記事の執筆者は金蘇城という人物で、同氏は後に中日友好協会(1963 年設立)の理事となる。また同時期に周恩来の指示により、
創価学会に関するレポートが黄世明によって発刊されたという。つまり日中国交正常化が始まる 1972 年よりかなり前の段階から、創価学会は複数のチャネルを通して中国側と積極的に交流を図っていたのである。
創価学会の情報によると、池田大作は 1968 年に学生部総会で日中国交正常化提言を行い、その様子は前述の劉徳有によって中国当局へ打電され、中国当局側にも大きな影響を与えたという。また前述の金蘇城は、池田大作が初訪中(1974年)した際に面会した人物でもあり) 、
大枠141としては周恩来、廖承志、直接的また実務的な接点としては孫平化、肖向前、黄世明、金蘇城、劉徳有等の人物が創価学会と中国当局とを結ぶ重要な結節点となっていたと考えられる(以上は主に『グラフ SGI』1999 年 10 月号等を参照)。
0038アフリカゴールデンキャット(茨城県) [ヌコ]
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2021/01/03(日) 22:15:42.84ID:NxYOZcSv0
>>37続き

中国は1976年に毛沢東が死去し1978年に改革開放政策が打ち出されると、徐々に経済活動や宗教活動に対する制限が解かれていくようになる。この当時の中国諸機関は創価学会に対し、
宗教的性格や池田思想という側面よりも、創価学会と公明党といったように、その政治的な影響力に関心を寄せ議論することが多かった) 。改革開放政策が少しずつ定着し民主化の流れが起き始めた1980年代半ば以降、
創価学会は徐々に宗教団体としても紹介されるようになり、仏教思想における創価学会の意義、池田大作名誉会長の生命観・宗教観などが説かれるようになる)。

中国社会における民主化の流れは、1989年6月の天安門事件で退潮することとなるが、1990年代に法輪功がその賛同者を激増させたように、宗教活動そのものは盛んに行われるようになっていった。
創価学会はこの時期から中国の学術機関へ参与する機会が増えていく。池田大作は多くの学術称号を世界各地の学術機関から授与されているが) 、中国の学術機関から名誉称号をもらうのもこの頃から始まる。
1984年6月に北京の北京大学、上海の復旦大学から名誉博士号を授与されたことを皮切りに、現在に至るまでおよそ116以上) の名誉称号が(台湾、香港などを含まない)中国の学術機関から授与されている。
中国側の大学への留学、学術交流が本格的に行われるのも 1990年代以降からである(逆に創価大学側の中国人留学生の受け入れは早く、1975年には日本で初めて中国からの受入を行っている)。
1996年に北京大学と学術交流を始めて以降、現在は50以上の大学と提携を結ぶようになっている。また2000年以降になると中国の各大学に「池田思想研究所」(名称はそれぞれの研究機関によって異なる)が設立されるようになる。
たとえば陝西師範大学には「池田大作・池田香峯子研究センター」が創られ、嘉応学院には「池田大作文化哲学研究所」が創設された。
これらの機関の実体は各大学によって異なるが、一般的に学術連携、交換留学という形式の提携ではなく、創価学会の側から学術機関に研究会やシンポジウムの開催を働きかけ、日中国交正常化に寄与した池田思想の研究、
日中間の文化交流などをテーマとした「研究活動」が行われることが多い。
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