角栄のバックに創価がいる

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中国国交のきかっけは創価学会

中国社会との直接的な接点をもつ日本の新宗教の代表的なものとして創価学会、立正佼成会を挙げることができる。なかでも創価学会は、1960年代という早い段階から中国社会との交流を深めている。創価学会が出版する資料などに基づくと、
創価学会と中国側の接触は、経済人である高碕達之助、作家である有吉佐和子を介して行われたという。創価学会側は両者を「入口」とし、周恩来をはじめとする中央政府とのコンタクトを図った。
とりわけ LT 貿易(Lは廖承志(Liao Chengzhi)、Tは高碕達之助の頭文字を表す非公式な日中間の貿易覚書)東京事務所の孫平化、中国の特派員であった劉徳有等を介して創価学会の存在が中央政府、ひいては周恩来にまで伝えられたとされる。
 中国の一般紙にその名前が登場するようになったのは 1962年で、雑誌『世界知識』のなかに「日本の創価学会」という短い記事が登場する。この記事の執筆者は金蘇城という人物で、同氏は後に中日友好協会(1963 年設立)の理事となる。また同時期に周恩来の指示により、
創価学会に関するレポートが黄世明によって発刊されたという。つまり日中国交正常化が始まる 1972 年よりかなり前の段階から、創価学会は複数のチャネルを通して中国側と積極的に交流を図っていたのである。
創価学会の情報によると、池田大作は 1968 年に学生部総会で日中国交正常化提言を行い、その様子は前述の劉徳有によって中国当局へ打電され、中国当局側にも大きな影響を与えたという。また前述の金蘇城は、池田大作が初訪中(1974年)した際に面会した人物でもあり) 、
大枠141としては周恩来、廖承志、直接的また実務的な接点としては孫平化、肖向前、黄世明、金蘇城、劉徳有等の人物が創価学会と中国当局とを結ぶ重要な結節点となっていたと考えられる(以上は主に『グラフ SGI』1999 年 10 月号等を参照)。