菊田氏は色街で旅館を営む両親のもとで育った。中絶をしに来る女性たちに、男性の都合に泣かされる女郎さんたちの姿が重なった。

 当時、中絶は妊娠7カ月までできた。胎児が母体外で生命を保つことができない時期として定められたものだった。
だが、実際にはこの時期の赤ちゃんが産声を上げることがあった。生きようとしている赤ちゃんを、手術室の冷たい台の上に置きっぱなしにして死なせるしかなかった。
菊田医師の長男で医師の信一さん(64)は、「ナースたちが、『昨日の中絶手術で赤ちゃんがオギャーって生まれてきてね、つらかった』と話していたのを覚えています」と振り返る。命を育むはずの産婦人科の現実だった。

赤ちゃんの命を守りたい。理不尽さの中で、菊田医師の思いは強くなっていった。

 菊田医師が選んだのは、中絶を希望する女性にそっと出産させ、子どもを望んでいる別の夫婦の名前で出生届を出すこと。
菊田医師をそばで支えた妻静江さん(88)は「不妊治療にもたくさん来られていた。その方たちの中から、どんな赤ちゃんでも慈しんで育てたいという熱意のある夫婦を選びました」と話す。
これなら、女性の戸籍に「出産」が残らず、赤ちゃんもいい家庭で育つことができる。
もちろん、違法行為だ。それでも、この方法しかないと菊田医師は思い定めた。こうして100人以上の赤ちゃんを、ひそかに養子に出し、その命を救ってきていた。
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