そろそろ8月だし、おまえらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ
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8月14日にNHK・BSプレミアムで放送される“ドラマ×マンガ”『あとかたの街 12歳の少女が見た戦争〜』(後9:59〜10:58)のマンガパートを担う声優が発表された。
同番組は、1人の女性マンガ家が、当時12歳だった母親の戦争体験を作品として完成させるまでの日々を描くもの。主人公のモデルは、日本漫画家協会賞コミック部門大賞を受賞した『あとかたの街』の著者・おざわゆき氏。
そのマンガを随所に織り交ぜながら進行する新感覚のドラマ。
主人公の少女・あいの声は花澤香菜。あいが思いを寄せる男の子・洋三役は花江夏樹。あいの親友・花役は早見沙織が務める。
ドラマパートは、マンガ家・おざわゆき役を木村多江、編集者・佐藤役を桐山漣、母・あい役を吉行和子が演じる。
https://www.chunichi.co.jp/article/97595/ >>371
だから戦争に負けたんだって子供ながらに思ったなぁ
日本は負けるべくして負けた
アメリカは物資も日本みたくないとかなかったからなぁ
シンガポールで調子こかなきゃ変わってたけど、まぁあんな軍人上がりの糞教師じゃどの道負けてたな
それと、GHQ!!何で英語を公用語にしなかったんだ馬鹿野郎!!どんなに勉強しても全く理解出来なくて他の教科にも影響でちまったじゃねーか!!
ヒアリングなんて全く聞き取れない、和訳問題なんて答え1つを当てるなんて無理無理 秋田の生まれだが母親(すでに死去)が子供のころ空襲を見たと言ってたんだが
秋田の糞田舎で米軍が空襲なんかするのか? とか思ってた
最近ふと気になって調べたら見たのは土崎空襲っぽい
「第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月14日夜間から翌日の8月15日にかけて、秋田県秋田市土崎港周辺を標的としたアメリカ軍によって行われた大規模空襲である。
この空襲は太平洋戦争最後の空襲であり、また、秋田県で唯一の大規模空襲であった[4]。」 多分小学校1年生の時の隣のクラスの先生が飛行機の機銃掃射から逃げてドラム缶に身を隠したみたいな事言ってたな
その先生はドラム缶のような体型をしてたから隠れられたのか甚だ疑問だけど
あと俺が生まれたときにはもう死んじゃってたじいちゃんが戦争に行って精神崩壊して帰ってきたんだと
帰ってきてからはずっと飲んで寝ての繰り返しだったらしい
どうやって生活費稼いでいたのか知らんが40代で肝臓壊して死んでしまった >>438
大正5年6年産まれかな?
そのくらいの世代の人って1番強い気がする 日本に引き揚げる際に不逞な朝鮮人に妹が親の形見として持っていた人形を取り上げられ値打ちがないと見るや破壊された
朝鮮人は決して信用してはならないし関わり合いになるのもだめどうしても関わるなら絶対に金の話をするな
カネカネ言い出していつ強盗に及ぶか分からない生まれきっての畜生以下だ言葉も通じない絶対に自分から関わりを持とうとするな
っていう話を親戚の集まる機会でことあるごとに言って聞かせてた大叔父が昨年逝ったわ >>344
ほとんど同じ情景の夢を子供の頃から繰り返し見てる
最後の遠くの空がパッと明るくなって叫び声が聞こえるっての読んで全身鳥肌立った
こえー・・・
>>366
そう?
俺は見たことないな
まあ年齢的に平成までいたのは間違いないだろうけど >>344
あれ?
でも東京大空襲って真夜中じゃなかったっけ? 捕虜にしたアメリカ兵を寝かせて頭にでかい石を落として殺して笑ってたらしい >>443
うん大正5年だったかな?
こないだちょっとしたことで母方の家系図見る機会があったんだけどこのばあちゃんの親(俺にとっちゃひいばあさん)の兄貴が天保生まれだったのは驚いた 戦争の悲惨さは語り継ぐべきと思うけど、ここの創作文では心に響かない お爺ちゃんは学徒出兵で中国行ったらしいが、すぐ終戦になって日本に戻った。お婆ちゃんの弟は特攻で死んだ 結構いい暮らしをしてたばあちゃんは戦争なにそれ美味しいの?状態だったらしい
で、疎開してきた都会のガキが物乞いみたいにくれくれ言ってたわーと言うてた
土地持ちの農家は強かったんだろうな 呉の軍港から大和が最後の出向をした時に港に居た人達はみんな「負けるなこれ…」って思ったらしい、油が無くなって資材もほぼゼロになったらしい
敗戦直後、憲兵隊は仕返しを恐れて身を隠していたがたまに見つかってボコボコにされてるのを見かけたって。 これ読んでみ
祖父の硫黄島戦闘体験記
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
地獄のような戦場だったのは読めば分かるけど
筆者は至って淡々と普通の日記のように書いている
達観し死ぬのを全く恐れていない
かと言って強がったり気負ってるわけでもない
ユーモラスですらある
戦前の日本人は凄いとしか言いようがない
こういう日本人が普通にいたからこそ驚異的な戦後復興ができたのだと思う じいさんもその兄弟も戦争行ったけど戦争の話は全然しなかったわ
聞きたかったけどね 身内じゃないけど南の島に行ってた爺さんが
「色んな動物食べたけど一番美味かったのはアリクイ」
って言ってた。不味かったのは猫科らしい。 >>439
さあ。貴方が馬鹿だと思うなら貴方にはそうなんじゃないですか? >80
むしろ、太平洋戦争末期には、
日本から奪取した、硫黄島や、
日本近海の空母機動部隊からの、
大量のP-51、F6F F4Uコルセアなど、
護衛戦闘機の大量の随伴での、
空中戦での、日本の防空戦力の消耗、低下から、
B-29爆撃機は、大量の飽和攻撃、超低空での
絨毯爆撃をするようになったぞw
東京大空襲あたりでは、もう、
B-29後部の対空機銃座以外、
全部、外して、
その分、焼夷弾を積めるだけ積んで、好き勝手に、爆撃しまくりだったw うちのじいちゃん運良く田舎でずーっとグライダーの練習してる時に戦争終わったから不謹慎だけどめっちゃ楽しかったって言ってたわ
そのせいで語り部みたいなのに絶対呼ばれないw YouTubeで当時の満洲開拓団の映像みてたら
当時すでに重機やクレーンが動いててコンクリート打設やってて
今とそんなに変わらなくて驚いた
満洲人は清をよく思わない人が多くて日本に親切な人多かったらしいね
当時の東京よりも大都会だわ >>453
途中までだけど読ませて貰った
淡々と語っているけど内容が怖いな
昔の人の精神力は凄いとしか言えないですね 夏休みの宿題で戦争の話聞いてこい、ってのがあって
軍人だった祖父に聞いたが、一切話してくれなかった
婆さんいわく、こどもには聞かせられないよ、と
喜んで語り部やってる人の話は話し半分でも聞きたくない 疎開から帰ってきたら家を朝鮮人に乗っ取られてた
生き残りの女だけで追い出そうとしてもガンとして動かず、
まだギリ徴兵されてなかった中学生の親戚集めて
棒キレ振り回してやっと追い出せたって話は聞いた >>457
韓国はいつ建国されたっけ?
戦時中に韓国人を勝手に処刑? >>465
さあ。詳しいいきさつまでは聞かされてないよ。
敗戦後は囚人になって、カエルととか蛇を生のまま食べて生き抜いたとか。 >>465
あと、黒い犬は美味しいけど白いのはまずいとかも言ってた。ははは; >>466
ゴメン
創作文にツッコミ入れて悪かった 呉にいた海軍の人の話や、空襲被害の話は生々しく
不謹慎かもしれないが面白かったな
元軍人の方は楽しそうに話してくれたし 語り継がれてる戦争体験の半分くらいはパヨの捏造創作らしいな
日本人を戦争アレルギーにして侵略しやすくする中韓の大計だそうだ
気の長いこって
子供の頃にいろんな戦争話を教師に吹き込まれてまるっと信じてたわ
よく考えたらあちこち矛盾のある話が多かったわけだ 1941年生まれまれの親父79とかだよ
戦争は覚えてないな >>468
創作分だと思うならそれでいいんじゃないかな?
別に個々人で信じたい真実をみて生きていけばいいと思うよ。 あまり語りたがらない人は人肉食って生き延びた人だってさ
爺ちゃんが言ってたよ ラバウルでトンツー兵をやっていたそうだ
戦場に着く前に、1/3程が船酔いで死んだそうだ
まるで消耗品のようだったと言っていたよ >>453
なんか修行を極めて悟りを開いた高僧みたいだな 親父が中学生の時、特攻兵器「震洋」の訓練基地のあった長崎県の川棚って所に、
学徒動員で送られた。
敵機来襲時に半鐘を鳴らすための櫓が立っていて学徒が当番でそれに登って見張るんだけど、当番の時に敵機が来ても当番だけは逃げる事を許されず、ひたすら鐘を鳴らし続けないといけない。
運悪く親父が当番の時に敵機が来て佐世保方面に爆弾を投下して行ったらしいが、
慣性の法則で爆弾投下後も、B29と爆弾はしばらく併走してから落ちていったそうだ
長崎原爆は待避壕の中で食らったらしい。
壕の中でももの凄い風が吹いて軽く吹っ飛ばされたとのこと。
余談だが当時の川棚基地の海にはもの凄い数の巨大メバルが泳いでいて、
慢性空腹の親父達はそれを釣って食いたかったらしい。
でもそれを採る事は許されなかったとか。 特攻隊の人達も表面上は笑って行ったらしいけど、とても真似出来ない >>473
少なくとも祖父から聞いた話で何一つ嘘は言ってないよ。 >>479
俺は信じてるけど話が通じない奴にはもう無駄だからNGしたほうが良いよ 知覧の特攻隊の出撃前の書物とかでも
おどけてる人いるもんな
その心中たるや、、 俺の爺ちゃんが戦艦大和の砲手だった
最後の出撃で大和が沈む前に急降下してきたドーントレスに飛び移りそのまま日本に帰国したらしい
俺の自慢の爺ちゃんだ うちの爺は中国戦線に行ってたな
中国軍が野盗化して中国の村々を襲ったり殺したりしてたから
それを防ぐために村をガードしてたらしい
日本兵が中国の村を守ってたという変な構図だった
その野盗化してた中国軍というのが現在の中国共産党だ >>481
あそこで俺が一番感銘を受けたのが
「男子としてこのような命の使い方ができる時代に生まれて最高に幸せです」
みたいな遺書
当時の日本人は命はできる限り長く維持するために使うものではなく
長さに関係なく有効に使うべきものだった
哀しくもあるが男子として共感できた 爆撃機の空襲は一応警報鳴るからまぁ良いと
怖いのは艦載機による突然の襲撃だとよ 看護婦のばあちゃんは大陸で兵隊さんと鶏〆て食って楽しかったあって言ってた >>484
通信兵で生き残った武道の先生曰く、当時の若者は「如何に生きるべきか」ではなく「如何に死すべきか」を考えてたって言ってた
10年くらい前に死ぬまで毎年知覧に行ったり記念館に何か寄贈してたりしてたよ >>1
広島市内じゃけど、原爆勉強は小学で飽きた
あと部落差別とか朝鮮人謝罪とか他所の世界の話のようにされたな
クラスに部落民も朝鮮人もいたっての卒業して20歳で知ったわ >>484
個人的には、身近な人達を悲しませない為の精一杯の強がりと読めるけど…
ただ、そんな言葉を思いつくってどんだけ強いんだよと
確か、齢は二十歳前後でしたよね… おばあちゃまから聞いたお話
長男を疎開させた事(汽車の窓から大泣き) おじいちゃまは会社に必要って事で戦争に行かなかった事
親戚の子供が毎日庭のお掃除をしに来てお駄賃あげてたんですって
その子が特攻隊に皆を守るんだって言って行かなくてもいいのに自主的に行ってしまった事
後からお仏壇の引き出しに髪の毛を置いていったのがわかったこと
その子がおばあちゃまの末娘の子供にそっくりだってしょっちゅうアタシにだけ言ってた事
(1度末娘に言ったらすごく嫌がったらしいのよね)
結局その特攻隊行った子以外はうちの親族誰も戦争で亡くなって無いのよ
上級ってすごいわね
アタシはおミソだけどさ マジレスなら祖母の祖母
100年以上前に産まれた人から
伝わってる話
うちの村から若者が日清戦争に駆り出された
戦が終わると全員無事に帰って来たので
村で祝った
数年後こんどは日露戦争で更に多くの若者が
村から駆り出された
この時は帰らない若者が多かったそうだ >>479
当時 特高(特別高等警察)に関わっていたのかもね(´・ω・`)
朝鮮人だろうが日本人だろうが 国に反対する者は「アカ(共産主義者)」扱いで
当時「不穏分子を処理する事が正義」の恐怖政治だったらしいから 拷問して殺害し その死因は病死扱いしてた
この手の話は「はだしのゲン」とか「龍(村上もとか)」の漫画にも載ってるくらい
結構有名だったりするよ
特高の話だと ちょうど今週号のヤングマガジン「アルキメデスの大戦」に
特高の話が載ってる 立ち読みでもいいからチェックするべし 俺の祖父母は戦前、大陸にいたんだけど
敗戦で日本に引き揚げる時、ロシア人にレイプされないように婆ちゃんは丸坊主にして男のフリをした
爺ちゃんは腕時計をロシア人に取り上げられた
日本人から取り上げた腕時計を両腕にはめて他のロシア人に自慢していた
「時計の読み方を知らないクセに」と爺ちゃんが言っていた
以前、両腕に腕時計をはめていた某スポーツ選手の名前を見る度に
この話を思い出す 祖母 鍋やミシンや代八車を供出させられてこりゃ負けると思ってたそう
祖父 大陸に出兵 当番兵?がひどく虐められていて可哀相になり、食事にふけをたんまり入れてやれと耳打ち 下痢が止まらず後送になり感謝されたそう
どういうわけか弾は逃げようとしたり人の後ろに隠れようとする人間から当たってしまうと言ってた 思い出話よりも写真を見せて貰うのが一番てっとり早い
地元から戦争へ行った人達の写真を見たら
ビックリするぐらいみんないい顔してる
そりゃそうだよ
漫画もアニメもTVゲームもない
みな親の手伝いと勉強と兄弟の世話をして育った
若者なんだからひん曲がった性格になるわけない 祖父 職業軍人なんだけど肺病を患って内地でずっと入院してた。以上。 沖縄戦体験した爺さんはヤマトの兵隊さんもアメリカーも上に命令されて逆らえなかっただけだ
方言を話すと兵隊に怒られたのも言葉が通じないからしかたなかったんだよって教えられた
戦争は悲惨だから語り継いで二度と起こしてはいけないって言ってた
でも実際は戦争の話はしなかった
終戦後イモ(さつまいも)の茎や葉っぱ食べるほどひもじかったとかソテツ食べて毒で死んだ人がいたとかの話ばっかりだったな
ばーさんは逆に一切語らない >>497
志願も多かったから十分に有り得るね
死にたくなかっただろうに可哀想。。。ってのは
とても失礼だと思う 父方の祖父は池袋の空襲で死んだ
祖母ちゃんと父ちゃんは田舎に疎開してて助かった
帰ってきて聞いた話じゃ、近所の人たち防空壕に入ってたけど
防空壕ごと爆破されて、みんな死んだらしい
近所に住んでた同級生や、ちょっと好きだった女の子もみんな死んだってしみじみ語る
毎年3月くらいになるとこの話を始める、実は結構ボケてきてる ちなみに池袋の北側がゴチャっとしてるのに
南側の街並みが整然としてるのは空襲で焼け野原になったから 親戚のおっさんが帰省して会うたびになんか真剣な顔して言ってきてたけどなんも覚えてない(´・ω・`) 父方母方共に戦死者がいないのでピンと来ない
遠縁の人が一人亡くなったらしいという程度
被害らしい被害は台湾に住んでた母方の家が空襲に遭って屋根にひとつ穴が開いたことくらい うちのじいちゃんは参戦期間はわずか4ヶ月なのに
その後のシベリアに6年・・・ 先年、お盆の挨拶に親戚に行った。
その家の墓参りをしたとき、ずらっと並んだ墓石のひとつが
硫黄島で戦死した人のものだと知らされた。
(田舎なので一人一人に墓石がある)
硫黄島が一気に身近になった・・・ 祖母 Uボートで来日したヒトラー・ユーゲントの一団を見た。みんな美少年で凛々しかったって。 近所で有名な祭りがあって毎年楽しみにしてるけど
昔は傷痍軍人がいっぱいいてむしろ怖かったって近所のおじさんが言ってたな うちの婆さんが言ってた
戦時中天皇陛下のことを、頭が少しおかしいらしい、と近所でささやかれてたみたいだ、戦争映画にあるような天皇陛下万歳とかそんなことは誰も言わない、ばーかばーか脳足りん(笑)と言っても別に警察にしょっぴかれることもない、映画と現実は違うと言ってた >>513
大正天皇と話がごっちゃになってんじゃね? 数年前に死んだ少年兵だったジジイの話はよく聞かされたが大したことは言ってなかったな 爺ちゃんが復員してきた時、日焼けと煤で真っ黒になってたから
婆ちゃんは黒人が襲いに来たと思って悲鳴をあげたらしい 満州に行ってた祖父はそんなに話してくれなかった
でも大事にしてるアルバムに一緒に満州に行った人達の写真があって何月何日どこで戦死って几帳面に書かれてた
話で聞くよりもその写真がすごく切なかった うちの実家辺りの戦時中のはなし
B29が何度も家の上を通って行ったのに
平成になっても地区内には戦前に建てた家が多数残っていた
つまりそういうこと 中学の頃の地理の教師で「俺は中国でたくさん人を殺してきた、その反省から教師になってこの悲劇をみんなに伝えている」としつこくいうヤツがいた。
若すぎてどう考えても年齢が合わずに言っていることも辻褄が合わなかったので聞いている生徒もうんざりしていた。
ある日、その教師がまたグダグダ言い始めたからクラス中で示し合わせて同時にカンペンを床に落としたら教室中に響く轟音となって、教師は顔を真っ赤にしてファビョって職員室に逃げて行った。 父親が旧制中学時代に、松根掘り勤労奉仕中に、機銃掃射されて友人の亡骸背たろうて連れて帰った言うてた。他には京橋空襲の時、砲兵工廠から駅に行かなくて命長らえたとか後で叔母から聞いたなあ。共にもう鬼籍行ってしもたけど。 そんなことはないよ、婆さん生まれが大正12年だったか、戦時中は20代ですでに結婚してた、映画と現実は違うということだ 母が伊豆諸島出身だが米軍が東京空襲のあと余った爆弾やら銃弾やらを浴びせるように落としまくって好き勝手にやられた、防空壕に入る寸前に爆死した人を見て足がすくんで動けなくなって隣のおじさんが抱いて防空壕に飛び込んでくれた
いよいよ疎開するときに日が落ちる真夜中に焼き玉エンジンで抜け出して上空を飛行機飛ぶ度々にエンジン止めてほとんど隣を潜望鏡(潜水艦)が通過した時は沈められると覚悟した、なんとか下田にたどり着いた時は涙が止まらなかったそうだ 飛行機が撃ち落とされてパラシュートで落下してるとき相手のアメ公が笑いながら羽で引っ掛けに来るのが見えるそうだ 母方は、上海事変最後まで残ったせいで財産殆ど無くして長崎引き揚げ後暮らしてて原爆投下一日前に、夜行で山陰側経由で伊丹に疎開。神戸の町は既に焼け野原だったと聞いたなあ 爺さんがソ連に捕まって生死不明だったので、
戦後しばらくは恩給的なものは何もなく婆さんは幼子抱えて苦労したらしい
死んだとハッキリわかったのは今から5年ぐらい前 シベリアに抑留されて、身長が180近くあったからナニかと使われて、そのまま帰らぬ人に。
その後に日本の田んぼの遠くでこちらを見てるのを見てもう亡くなった事をさとったと言っていた >>478
覚醒剤打たれたからだよ、恐怖心取るために
おかげで敵艦命中率2割、残りは撃ち落されたか
勝手に海に落ちていった。バカ丸出し最低最悪の無能作戦 >>336
>>356
シベリアで数年強制労働させられてバケツ等を作らされた爺さんの弟達は
最初はノルマ通りに工場で物を作っていたが
慣れてくると前日に作った物を倉庫から持ち出して当日作った物と混ぜて
今日のノルマを作ったと誤魔化していたが日本に帰るまでバレて無かったそうだ 母親が戦後満州から帰って来た同僚から聞いた子供時代に同僚の周辺で流行ってた遊び。
露店商の店先で商品をかっぱらって逃げ、追って来た店主に振り向きざま、カミソリで斬りつける遊びが流行ってたらしい。 >>479
今の時代で言う韓国人の事だよな
戦争当時じゃマトモな人も戦地に行けばおかしくなると思うし
いくら戦争でも自分の手で殺してしまったらずっと後悔する人だっているよな
うちのある爺さんの写真
富士山をバックにして銃器を構えてる写真が一枚だけだ 中国にいたときに船が沈められたけど仲間に助けられた
沢山死んだ。
あれから戦争の話は殆どしなかった。
壮絶な体験だったからね。 20年以上前だけど、じいちゃんの葬儀に知らない人達が参列に来ていて、元部下だと聞かされた。じいちゃんが大佐(士官らしい)という階級も聞いた。生きているときは何も話してくれなかったな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています