そろそろ8月だし、おまえらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ
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8月14日にNHK・BSプレミアムで放送される“ドラマ×マンガ”『あとかたの街 12歳の少女が見た戦争〜』(後9:59〜10:58)のマンガパートを担う声優が発表された。
同番組は、1人の女性マンガ家が、当時12歳だった母親の戦争体験を作品として完成させるまでの日々を描くもの。主人公のモデルは、日本漫画家協会賞コミック部門大賞を受賞した『あとかたの街』の著者・おざわゆき氏。
そのマンガを随所に織り交ぜながら進行する新感覚のドラマ。
主人公の少女・あいの声は花澤香菜。あいが思いを寄せる男の子・洋三役は花江夏樹。あいの親友・花役は早見沙織が務める。
ドラマパートは、マンガ家・おざわゆき役を木村多江、編集者・佐藤役を桐山漣、母・あい役を吉行和子が演じる。
https://www.chunichi.co.jp/article/97595/ ばあ様は家の中で被爆したらしい
じい様は広島に原爆落ちて救護するために移動してたら長崎に原爆が落ちてそっちに戻ったらしい
被曝者2世や3世にも原爆手帳寄越せって運動が起きてるらしいけどぶっちゃけ3世まで来たら何の障害もないと思うんだけどね じいちゃんが岡山の潜水艦ドックで修理工してる時に原爆雲を見た
ばあちゃんが畑仕事してる時にP-51が機銃掃射してきた
どっちも当人がいなくなったので確認できない うちの親父は学徒動員でBC兵器を作っていた江田島でレンガを積んだと言っていた 俺はスロベニア独立戦争の体験者だが何かいつの間にか戦争になってて、いつの間にか終わった奇妙な戦争だった。
内定が決まって単位も余裕であったので中欧旅行しました。
イタリアのトリエステからバルカンを抜けてアテネまで行く予定でした。
当時の日本のニュースではスプリットの造船所でストライキやザグレブでデモなどやっていたがまさか戦争になるとは思っていなかった。
トリエステからリュブリヤナに列車で行き、駅でザグレブ経由ベオグラード行きの切符を買って飯食ってたら戦争勃発。
持っていたディナールはその場で紙屑。かろうじて使えるセルビア人の店で缶詰と酒を購入。
翌朝、脱出しようと思ったら空路もイタリア行きオーストリア行きの国際列車はすべて停止。
クロアチア国境も閉鎖されたので缶詰生活でした。
なんだかんだで勝って、敗北して撤退する両手を上げてトラックの荷台に整列した連邦軍の兵隊さんに石や瓶をスロベニア人と一緒に投げた。 戦争で食べ物が手に入らないご時世でも、農家の我が家は困らなかったらしい
火垂るの墓とかとずいぶん事情が違ったんだなあと思う 満州帰りの爺さん
大の甘党でタバコ嫌い
支給品のタバコを上官にあげたら、これまた支給品の大量の金平糖をお返しに貰った
行軍中も歩哨中も常に食べてたら、あっという間に虫歯だらけ
ある時戦闘になったけど、虫歯が痛くて小銃に頬付けできず、全く当たらない
上官から怒鳴られて、仕方なく正しく構えて打ったら、ボロボロだった奥歯が反動で崩壊&痛すぎて失神
回りからは被弾したと勘違いされて軍医のもとへ運ばれたらしい
意識がもどったところで診察した軍医ブチギレ
その場で麻酔無しで残りの虫歯(確か3本)を抜かれたとか 曽祖父の実家は戦前、大学生だった曽祖父にフォードA型の新車を買ってくれる程の金持ちだったらしい
ガソリンが配給でも乗り回して大学に通ってたが戦況の悪化で中支戦線に招集、数少ない運転技能持った人間なので司令部付きで指揮官の運転手をしてたんだって
敗戦時も司令部を乗せて真っ先に逃げられたから本土に帰ってこれたんだと聞いたことがある
そもそも自動車の運転が軍で特殊技能扱いされるほどドライバーの数が少ないって…戦争負ける訳だよ >>79
もう亡くなったけど
知人のじいさんが
「大和に乗っていたことがある。沈む前には降りてたけど」と話していたことあるわ お粥やすいとんやさつまいもは美味しいと思うが食べたくない >>114
ウチも神奈川だがそう言ってたな
東京から食い物を買いにみんなやってきて、かなり法外な値段で売り付けて儲かったと 東京大空襲を千葉の木更津の対岸から見てたってばっちゃんが言ってた
その婆ちゃんは友達とアメリカ機に機銃掃射で追いかけられたとか言ってたな嘘が本当か知らんけど
爺さんからは戦争の話聞けなかったな 祖母はチョンとクロンボを連呼して罵ってた
だから俺もチョンとクロンボが大嫌い ソ連兵から追われて満洲から逃げるとき
関東軍の上官は真っ先に逃げたって言ってた
関東軍の下っ端と開拓団で北朝鮮まで歩いて
満洲人は優しい人が多かったけど朝鮮人からは石をなげられることが多かった
釜山から米軍の船が出てて順番に乗り込んで
博多に着いたときは涙が出たって言ってたな ヤシマ作戦の元ネタが愛知時計電機のクランクシャフト焼き入れ作戦と知った時の驚き どこでの話か忘れたけど、爺さんが空爆?で真っ先に逃げたことに怒った上官と殴り合いになった話を聞いたことがある
あとキノコ雲見たwと言ってた 祖父が名古屋なんだけど、生まれが三河だからなのか海軍だった
終戦はペナン島で復員まで2年くらいかかった
戦中は子供を母の実家と親戚の家に疎開させていたが、
次男の疎開先の方が食料事情がよく、兄弟仲は生涯にわたって悪かった
母方の父は虚弱体質で徴兵されず、戦中も瀬戸物を焼いておりました 落ちたメガネ拾うとき後頭部で空を切る音がしたんだってさ ベトナムの女性は綺麗だったと友人の祖父が語っておったわ 西川口駅に傷痍軍人の募金がいた
偽者だから絶対カネやるなとくどいほど言われた シベリアで抑留された時ドイツ兵の捕虜が空き缶で時計を作っていたのを見たじいちゃんはドイツ人は賢いと言っていた 皆さんの家庭にある鉄や銅又は銅合金(真鍮、砲金、唐金、洋銀等)を国家のお役に立てる時が来ました。その準備は恐らく皆さんもう充分出来て居ることと思います。そうして国家の為に供出された鉄や銅などは、それぞれの回収路を通って、やがて製鉄所や製錬所へ運ばれます。其処で主として軍需品になって、鉄類なら軍艦、戦車、大砲、弾丸、鉄兜、剣等となり、銅類なら弾丸の薬莢、軍用電線や、飛行機の部品になるのです。
現代は、供出しないで隠してた人もいて家宝としてお宝鑑定団にも出せる
真面目に供出したうちはバカをみたって爺ちゃんが言ってた 親戚のおじさんが特攻隊で戻ってきた太ももに穴開いてるらしい >>119
伯父がいってたわw
「さつまいも、ジャガイモ、山芋、俺は見下さんすべて平等に価値がない!」 お爺ちゃん海軍だったけど、自分の乗っていた艦以外全部沈められて帰ってきたらしい
その帰還がなければ俺は生まれていなかった
生まれた時にはもう亡くなっていたから話は聞けなかった オヤジは焼夷弾の不発弾を拾って解体燃料抜き出して風呂沸かしたと言ってた 一億総特攻(´・ω・`)沖縄の浅瀬に乗り上げて砲台となれ
この頃からお上は変わってないアホだらけ 死んだ母親が8歳のとき
空襲のとき低空飛行で機銃掃射されたらしい
子供の記憶だからアレだけど、パイロットの顔も見えたし英語も聞こえたって
「何だ子供か」て感じで数回撃たれて飛び去ったとのこと
しかし怖くてうずくまってたら背負ってたかばんに引火
「あーなんか気持ちいいなぁ」て熱さも痛みも感じなくなった頃、どこかのお姉さんが必死に飛び出してきて火を消してくれたとの事 曾祖父が人間魚雷で死んだって聞いたけど
あれ実戦で使われてないんだろ
なんかモヤモヤするけどもう、確かめようがない お爺ちゃんから聞いたけど
ソ連に捕まった人だとおもうけど
手の凍傷を防ぐ為にずっとおちんちん掴んで温めてたって聞いた 爺さん、インパール作戦、怒江作戦、ミートキーナ防衛戦、イラワジ川会戦、ラングーン撤退戦とビルマの激戦地を全て参戦してる。
牟田口より逃げ足の早かった河辺とか、ラングーンで味方と日本人を置き去りにした司令官をボロクソに言ってた。
辻ーんは面識あったらしく、何も言って無かった。 船酔い対策と嘘ついて船を鎖でつなげさせた後、火をつけて大いに燃やしてやったって言ってた >>141
大和の片道燃料は嘘らしいな指示はあったらしいが フィリピンで上官がバナナ買って現地の子にあげた
とか楽しそうな日記と写真が残ってる >>141
回天も桜花も戦果が少ないだけで実戦投入されてる。 はいはいもう何度か書いていますけどね
父方の伯父ビルマ
母方の祖父満洲
母方の大叔父硫黄島
全員民間徴用で戦死ですよ
ビルマと硫黄島は当然遺骨も戻らず 爺ちゃんは甲種合格自慢してたな
じじいになってもガチムチで力持ちだったわ
爺ちゃんの兄はルソン島で戦死
曾爺さんの叔父がたしか日露戦争で戦死 >>141
回天は使われてるし、甲標的に至っては真珠湾攻撃に参加してる ホワイトベースが最後止まって銃撃戦は大和の浅瀬に乗り上げてだったような ご先祖様は二〇三高地で亡くなった
享年23才。遺影とメダルと慰霊碑がある
とても苦しくて辛い行軍だったそうだ 爺さんがパプワニューギニアにいってたらしいが
本人はその話をしたがらなかったそうだ 京都の実家の田んぼ脇にあるロールケーキを半分に切って煙突付けたようなコンクリートの家みたいなところでよく遊んでた。中に入ったりしてね。
あとできいたらそれは防空壕で実家の田んぼ一体は戦闘機の飛行場だった。
ひこうかは田んぼになったがその防空壕はまだある。 地元に文化財になってる古い鐘楼のあるお寺があってさ
その鐘楼は空襲の時にそこの和尚が屋根に上って、ほうきで焼夷弾はたきおとして守ったんだって
俺生まれた時にばあちゃんがその偉い坊さんに漢字を一字書いてもらってきて、それを名前に入れたんだって
ばあちゃんがよく自慢してた >>19
大体はそうだけど医療班や通信兵も居るだろ 特にこれといった空襲被害もなく
食料は質は落ちたけど飢えることは殆ど無く
身内で軍隊いった人も内地にいるうちに終戦
富山空襲の時に時に空が真っ赤になってたの見て驚いたってのが、戦時の数少ない怖かった思い出らしい 父親曰く祖父はあまり戦争の事を話さなかったと言っていたが、結構私には話をしてくれたし、海軍式の敬礼の仕方も教えてくれた。あと月月火水木金金も良く口ずさんでた
中国と日本を船で往来していたことや、掃海船に乗っていたことも知らないって
まぁ4駅先に住む祖父の旧知の友人がいることすら知らなかったと言っていたから、親子の会話がなかったんだろうな そういや今年はじいさまの弟がシベリアに抑留されて死んだ事になってて
終戦から10年くらい経ってひょっこり帰って来たって話を聞いたな
じいさまが死んでも何某か新しい話が出てくるからウチの一族は飽きんわ 母親が、東京大空襲の時に祖母と2人で毛布を屋根みたいにかざして焼夷弾の下を走ったと言ってた
母は死ぬまでロケット花火の音が大嫌いだった
学童疎開してた叔母は田舎でいじめられたと言ってた
当時岡山で結核で臥せっていた父は、学徒動員に行かないで済んだので原爆に遭わないで助かったんだと 俺の体験談だけどノルマンディー上陸作戦はやばかったよ。 祖父は撃ち合いになった時に真上撃ってたらしく
「おじいちゃんは人を殺してない」と言っていた
小学生だった俺は
「それって仲間に迷惑だろ」って思った事を今でもはっきり覚えてる うちのおかんは広島から山口に疎開してキノコ雲を小学校の屋上から見たそうだ
広島にいた時は空襲で妹を連れて逃げてる時伏せてたら結構近くが爆破されたそうだ >>141
回天なら実戦投入されてるよ
潜水艦に積まれて出撃
そのまま潜水艦もろとも行方知れずになる場合もあるが つい最近、父親(医師)から聞いた話。「お前の祖父(軍医)は自死した」のだと。
・ハルビンから引き揚げてきた祖父は、今までと打って変わって無口になっていた。
・父が研修医を終えて帰郷した日、祖父は父に痕跡の残らない服毒の仕方を知っているか?と尋ねた。
・翌日、父が寝ていると、祖母が「お父さんが息をしていないから見ておくれ」と非常に落ち着き払った様子で起こしに来た。
・死亡診断書を書いた父には死因はわからなかった。
・後にいろいろな人に戦地の様子を聞くと、どうやら祖父には引き揚げ不可能な負傷兵を安楽死させる命令が下されていたのだろうと。
・恐らく祖父が自死したことを祖母は知っていた。 >>129
自分が小学生の時も、新宿の東西をつなぐ地下通路に傷痍軍人がいて、すごく怖かった
足がなくてアコーディオンひいてた >>166
しっかり狙わず適当に撃ってる人は割といたと聞いた ばあちゃんが広島の島出身。
畑仕事してたら空が光ってキノコ雲が見えたと。 原爆ドームまで車で1時間ちょっとかかる場所だから影響はなかったが。 >>151
もの凄い可能性は少ないが、ビルマ北部と雲南省なら日本の遺骨収集団以外に中国は現在でも国を挙げて遺骨収集と慰霊祭を国家行事としてやってる。
日本人はほとんど知らないから、盲点になってるけどビルマ北部で戦死なら何か中国側に記録が残ってるかもな。 祖母の兄がトラックで襲撃されたときに生き延びた言ってた
あのあとアメリカ追い打ちしてこなかったから戻ってこれたと
本部から近くの離れ小島で機銃みたいの撃っていたが
弾切れして泳いで本部の島まで逃げ戻った
島はズタボロになっていたがかろうじて動いたトラックに周りにいた人と動けるひとを積み込んで
そこらで転がっている死体をバリバリバリッとひき潰して本部までいったもののズタボロになっており
近隣の飲食店街の脇にできてた対策場所に集合したみたいなこと言ってた
その翌年亡くなったのでそれ以上は…
もう40年くらいたつか >>175
どこの軍隊も徴兵された連中はそんな感じでろくに当たらんらしいねえ
代わりに一人で何人でも撃ち殺せるのがいたり
銃剣突撃とかになるとやらざるを得ないから、日本とかロシアあたりはとにかく銃剣突撃推奨だったっぽいねえ 戦前だけど、東京駅から北京駅までの汽車の切符が買えたそうだ。 租借地から引き揚げたとき
日本がクソ田舎すぎて笑ったいうてたな 怖くて聞けなかったし話さなかったな最後まで
俺もそうすると思う ひい爺ちゃんは実寸大の木製飛行機を作ってたらしい
敵の爆弾を無駄に使わせるために飛行場に並べてたんだってさ 母方の爺さんは昭和元年生まれ、終戦直前に召集されて国内で訓練中に終戦
‥ということになってるが、亡くなった時に大正12年生まれということが分かった
爺さんは田舎の農家の次男坊だったから、多分戦地に行ったことを隠してたんだと思う
家族にも戦争の話を一切しなかったけど、たまに父方の祖母が泊まりにきた時は、二人だけで部屋に入って夜中まで話しこんでた
同世代でしか話せない話もあったのだろうなあと思う 父方の爺ちゃんは徴兵検査に落ちて戦争行かなかったつーてた
命拾いしたけどクソ田舎だから周りの視線キツかったかもな >>189
まだ潜伏しとけ
いま世界はコロナで全滅寸前や うちの大おじが、赤紙が来たのに直前になって仮病を使って兵役逃れをしたらしい・・
田舎だけど、非国民と言われたとか、村八分にされたとかそういう話は伝わっていない。
うちの祖母が小野田寛郎と一緒にルバング島にいた島田伍長と同郷で顔見知り
祖母は結婚後は東京で暮らしていたが、
ある日出征する兵隊さんの一群をみかけて、その中に島田伍長がいるのに気づいた
向こうもうちの祖母に気付いて「あれ?マキちゃん?(うちの祖母の名前)」と声をあげたらしい。 ばあちゃんちに焼夷弾が落ちてきた
他にもばあちゃんからは色々聞いたなあ
じいちゃんはあんま話したがらなかった
色んな思いがあるんだろうね 父方の祖父は大工で東南アジアで戦死
母方の祖父も同じ大工で戦地で猫車を延々と作らされてたとのこと
母方祖父は生きて帰って90年終わりまで生きた 朝鮮人の兵隊は、占領地域で現地人に横暴で、軍規を平気で破るから嫌だったって。 でもそんな時代を生き抜いて国を建て直した世代をコロナや事故で死ね死ねしてるのが現代人
日本人の誇りとは… 祖父が海軍だったから水を無使いすると父親が「水兵さんは洗面器一杯の水で云々」って言われた 曽祖父は戦争に行きたくないから高い塀から飛び降りてわざと両足を折って徴兵を免れたと聞いた・・・
まあ俺もそうするかな 祖母は自分の叔父が満州で商売やってたから
そこに花嫁修業に出されて、満鉄の役員の奥様に仕えたらしい
祖母は嫁に行くために日本に帰ってきて、旦那は海軍で飛行機飛ばしてたような
技術者だったけど、戦時中には発電所に勤務してたから兵隊にはとられなかった
満州に残った叔父さんは使用人にも良くしてみんなに「ジャングイ」て呼ばれてた。
終戦後もその人たち八路軍からに守ってもらって帰ってきたって。
後になって「掌?(ジャングイ)」だんな様みたいな意味の中国語だって知った
うちの親戚はド田舎にいたから、戦争中の話はもっぱら代用食の芋カボチャとかで
空襲とかあんまりない うちの爺ちゃんはエリートだったらしく零戦とか戦闘機の設計図を描いていたそうな
でも飛行機の知識と金はあっても経営センスはなかったらしく戦後に建てた会社は潰れて貧乏になった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています