バットマンの宿敵が誕生するまでを、独自のストーリーで描いた映画『ジョーカー』が、
予想を超える反響を呼んでいる。世界興行収入が923億円を突破し、R指定映画として史上最高の記録を更新、
アメコミ映画が比較的苦戦するといわれている日本の週末興行ランキングでも、
4週連続で1位を獲得する快挙を達成し、まだまだ数字を伸ばしている状況だ。

そんな『ジョーカー』は、同時にいろいろな意味で波紋を広げてもいる。
『ヴェネチア国際映画祭』最高賞受賞という異例の快挙にはじまり、アメリカでの公開に際しては、
警察や陸軍が警戒態勢を強化するという事態……。社会的責任をめぐる内容への賛否の声、
製作サイドや巨匠監督の発言が物議を醸し、使用楽曲に対する問題提起が生まれるなどなど、
大ヒットを成し遂げるなかで、あらゆる角度から騒動が発生しているのだ。
https://www.cinra.net/column/201910-joker_gtmnmcl

本作が描こうとしているのは何なのか。

それは、何の実績もないアーサーが、テレビのコメディー番組で脚光を浴びるという、
甘い夢想に溺れる癖があるところから分かってくる。特別な人物になりたい、
何かを成し遂げて脚光を浴びる存在になりたい……そしていつか、自分を理解してくれる
理想の伴侶とめぐり逢いたい。そのような願望こそが、過酷な日常を耐えるアーサーの精神的な最後の砦となっていたのだ。

アメリカという国が、万人が憧れる夢を叶えてくれるかというと、もちろんそんなことはない。
メディアにはきらびやかな人物たちが次々に登場するが、人より圧倒的に優れた何かを持った人物でない限り、
その門戸は針の穴よりも小さいのだ。ならば、テレビドラマや映画が提供するような
「普通の幸せ」やイメージを手に入れられるかというと、貧富の差が拡大する社会のなかで、
まともな医療にもかかれない貧困層には、それすらも縁遠い。ただ生き抜くことですら、
ほとんど苦行に近いものになっているのが現状だ。自己実現は、思い込みや狂気の中にしか存在しない。