家康の剣の師は奥山休賀斎。秀忠の指南役は一刀流の小野忠明で600石、後にその子が200石加増されてるがその程度。
柳生但馬守は剣術指南兼業の惣目付、最終的に13000石で大名となった。
しかしながら但馬死去の際に十兵衛が4000石を取り上げられてる。万石に返り咲いたのは弟の宗冬の代になってから。

将軍は建前上、文武両道でなければならないから日替わりで剣や絵画、書などを習っており、家光は剣術好きで知られている。
もっともこれは下手の横好きの類であったという。家綱は心底剣術が嫌いだったとか。
ちなみに家綱までは柳生に誓紙を差し入れて正式に弟子入りしているが、綱吉以降はそれもなくなった。