北畠顕家、楠木正成、新田義貞を抱えていたのに敗北した後醍醐帝って無能すぎるだろ…
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“最古の日の丸”の有力候補、奈良県五條市西吉野町賀名生(あのう)の堀家に伝わる旗の年代測定が行われ、1463〜1528年か1553〜1634年に作られた絹製であることが分かった。
NPO法人大和社中が16日発表した。後醍醐天皇(在位1318〜39年)から下賜されたとの伝承があるが、100年以上後の室町期か江戸期の旗と判明。旗は新たな謎に包まれた。【大川泰弘】
調査は、染織史家の吉岡幸雄さん、京都大の化学研究所と総合博物館などが、大型放射光施設スプリングエイト(兵庫県)も利用して行った。
年代は放射性炭素の計測で割り出した。生地のたんぱく質の分析で絹であることを確認。含有元素の解析により赤い染料は朱だと分かった。
旗は縦に掲げる形式。縦95センチ、横75センチ。さおに固定するために鹿皮を紫に染めたものがある。糸の品質も良く、吉岡さんは「相当に身分の高い人から贈られたもの」と指摘した。
吉野に南朝を開いた後醍醐天皇は、賀名生の有力郷士、堀家に仮皇居を構えた。日の丸は、この時に下賜されたと伝わる。堀家から委託された五條市が「賀名生の里・歴史民俗資料館」で保管、展示している。
堀家二十九代当主、堀丈太さんは「後醍醐天皇下賜の伝承は崩れたが、誰が作り、どんな経緯でうちに来たのか、一歴史ファンとして興味がある。新たな謎が生まれた」と話した。
“最古”の有力候補に山梨県甲州市の雲峰寺に伝わる日の丸がある。伝承では、源頼義が1056年、奥州征伐の際に後冷泉天皇から下賜され、甲斐武田家に伝わったとされる。年代測定はしていないという。
https://mainichi.jp/articles/20190817/k00/00m/040/044000c 尊氏陣営に比べて層が薄すぎる
あとから焦って北条時行に恩赦だしたりとか見苦しい
北畠顕家の行軍速度は異常
秀吉の中国大返しより早いとか嘘くさいわ
後醍醐天皇は40人も自分の子供産ませた絶倫だから童貞のお前らより有能
佐々木道誉は裏切りまくりに見えて、ず〜っと尊氏のために動いてた所を見ると、
コイツが結局一番の忠義者なんじゃないのかと思う
その後の部下親類のグダグダは見るに耐えん
1463年から1634年の間に作られたって、随分アバウトだな
田宮にでも鑑定してもらったんか?
くそつまんねーオリンピック大河やめてこの辺の年代やろうや
足利という武家(マフィア化した開墾地主が地方を治める)社会を保守する勢力と、皇族貴族による律令制に戻そうとする超反動保守との対立だったわけで
割と救いが無い
皆はそらマシな方を選ぶわな
>>15 前にやってたよ。真田弘之が足利尊氏役だった。ミスターオクレが小男。
戦前の皇国史観では南朝最大の英雄の北畠顕家は
天皇の失策に文句言い放つ奴なので扱い辛くて
代わりに楠木正成だけ持ち上げたんだよ
破軍の星
道誉なり
悪党の裔
楠木正成
ちゃんと読んだかおまえら?
>>16 それな。世の中の経済実態の変化に対応出来ない非現実主義だから大勢はついてこなかったんやな。
ワシ、名和伯耆の子孫(と大本家は名乗ってるし名和の一族会にも入ってる)だけど、
以前の大河ドラマの時は殆ど空気で泣いた。
京都攻防戦で結構壮絶に戦死してるし、長男も楠木軍に合流して一時期活躍したし
南朝が最後に京都帰還した時も名和一族の名前があるのに。
後醍醐「誰もが皆行きたがるが遥かな世界 その名はガンダーラーあああwwwwww」
>>15 真田広之
武田鉄矢
萩原健一→根津甚八
片岡仁左衛門
片岡鶴太郎
北畠顕家と楠木正成は良い
新田義貞は戦下手だし、性格もクソじゃないか?
>>32 なんでガンダーラガンダーラ言う人がいるのかやっと分かったわ…
あれだけ負けても必ず復活してくる足利尊氏は、後醍醐帝からしたらゾンビそのものだったろうな。
>>38 ナポレオンに負け続けたブリュッヒャーもそうだけど諦めないことが大事だわ
ゴダイゴ天皇が無駄にエネルギーありすぎて、時代をかき回してる
>>15 太平記って当時も空気だったんだよなぁ
やっぱ戦国か幕末じゃないとダメだなって
>>16 そもそもあそこまで冷遇されてもなお楠木公は忠義を尽くしたのか理解できん
>>44 なぜか宮沢りえのフンドシ姿と記憶が混じっている
>>45 冷遇されればされるほど忠義を尽くし忠義の大切さを示す
忠義の士とはそういうものだ
一種の宗教だからな、基本的に冷遇とか厚遇とか関係ない
メガドラの太平記思い出すわぁー
ファイアーエムブレムみたいでおもしろかった様な気がする
>>45 忠臣二君に仕えず、少数による山岳戦で大軍に勝ったりと判官贔屓の日本人が好む要素たっぷりだ。
南朝ディスってんのか!?
千早城に籠もるぞコノヤロー!
>>1 既に武家政権が出来上がってるのに今更、貴族政治なんかできるかよw
摂政関白秀吉でさえも幕府武家政権にひっくり返されたからなw
>>7 秀吉軍は糧食や物資を代金を支払って調達し行軍していたのに対して
顕家の奥州軍は補給は用意せず糧食は道々で略奪しての行軍だからスピードが違うんよ
奥州軍が通った後は略奪の限りを尽くされた民衆の餓死者の山だったそうな
いつも曲がり角のむこうで美しい国が待ってるけど
ほんの少しの人たちしか最後までできないんだよ
明洪武帝に影響されて天子独裁政権を目指しちゃったもんね
日本じゃ集中的に権力持とうとする者は最終的に排除されちゃうから
足利には尊氏の欠点を補う直義という弟がいたが、新田には義貞の弟があまり使い物にならなかった。
全ては新田を大将にしたのが敗因
尊氏の首取ってもおかしくない戦が2回ぐらいあったが全て台無しにしてるこれが致命的
新田全盛期は対北条の時で終わってる
>>15 陣内孝則の佐々木道誉は面白かった
道誉主役で大河が見たいぐらい
>>19 陣内孝則の佐々木道誉はくっそ胡散臭くて良かった
今なら誰が演じるんだろうな?
グループ魂以外なら誰でもいいけど
>>66 大河ドラマ『婆娑羅』か
佐々木道誉が暴れまわったり高師直が他人の妻を犯しまくったりとか
NHKがやるなら胸熱だな
唯々諾々で在位を過ごしたそのへんの天帝よりマシ
まぁ、後釜に座った後村上天皇もこれまた、修羅の道なのだが・・・
何も解決しなかった無駄な戦乱の時代、ゴダイゴは平安朝最低の天皇
>>46 宮沢りえは、足利尊氏の私生児を産む踊り子の役
私生児は弟足利直義の養子足利直冬
後醍醐天皇の肖像画がまるで支那の皇帝みたいな服装で違和感感じてた
>>62 石原良純だからバカボンに見えるけど、地方でかなり活躍した
新田はただの脳筋バカ
楠木は籠城戦だけが強い局地戦闘指揮官
北畠は足利絶対殺すマンだけど兵站ガン無視ダメ
いくら足利討伐の為でも通過する村々からことごとく略奪して民衆を苦しめちゃダメ絶対
真田広之の太平記は名作だったな
>>1のような疑問に答えるような楠木正成の名台詞がある
要は人心が建武の新政に期待から失望へと移り変わったから、ってこと
北畠顕家がゴクミだったせいで、しばらく女武将かと思ってたわ。
三蔵法師が男だったくらいの衝撃だったわ。
ハンニバル岳飛ベリサリウス
悲運の名将系譜だな
楠木
後醍醐は中国かぶれのアホ天皇、武則天かぶれ称徳天皇とアホ度は双璧
北畠顕家の陸奥軍勢は、
相馬、伊達、佐竹、大崎、最上等の、
鎌倉御家人を始祖とする坂東武者の後裔で、勇猛な騎馬武者を揃える軍勢だったのに、使い方間違ったよな。
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士
後醍醐天皇は武家を卑しい道具程度にしか考えて無かった。
まあそれは良いとして、あからさまに態度に出して
みんな離れてしまった。
駄目なリーダー。
三木一草の一人、初期の宮方MVPの千種忠顕が意外にあっさり戦死しちゃうんだよな
>>21 あれ上手いよな。
軍師官兵衛の御着殿も上手かった、
坂の上の雲の海軍さんも上手かった。
あれはもっと評価されていい
ジオングとビグザムとソーラレイまで有るのに負けたジオンみたいなもんや
千本桜で有名な奈良吉野の山奥の吉水神社
ここに後醍醐天皇は一時期潜伏していて
そのときに詠んだ歌やらがあって
ただただ泣き言を言うだけのボンクラ感がすごかったw
>>96 自己レスだけど
どんな歌かというと、こんな所いやだー
誰か助けてー
みたいなw
楠木兄弟は山城でのゲリラ戦が得意だが、平地での戦は苦手だった。
これに尽きる。
>>42 歌舞伎でおなじみの仮名手本忠臣蔵はその時代にしてるけどなw
(赤穂浪士討入事件をそのまま描くと幕府からお咎めを受けるから、
太平記の高師直が塩冶判官の妻に傍惚れして強引に奪い取った逸話にひっかけて南北朝時代にした)
後醍醐帝が行動力とプライドだけがあるアホだったのが問題だな
振り回された周りの連中が大迷惑する見本
そういえば今日、楠木正成が活躍した千早城跡を見てきたわ
というか金剛山に登っただけなんやけどw
楠公がどれほど偉大な軍略家でも、トップがアホだし指揮権もない
どうにもできんよ
時代の流れさえわかっていたら、後醍醐が天皇で、尊氏が将軍になって並立できた。
そうするなら、すぐに平和になっただろう。
やっぱ割って出た方は正当性の観点から見てもどうしても反逆になっちゃうからな
>>82 そもそも北畠顕家を鎮守府将軍にした後醍醐が悪いんや
東北から畿内まで数万の大軍を何往復もさせるにはどれだけ兵站が必要になるのか
なのに顕家が畿内鎮めて東北に帰るとすぐまたやらかして
早く来い早く来いと綸旨連発
>>106 そもそも後醍醐は北条とかいう武家による平和が嫌だからぶっ壊したんだぞ?
うちのご先祖様も300vs8万とかやらされてたし。圧倒的な兵力不足。
暗愚な帝
57代 陽成天皇
・三種の神器でいたずら
・宮中で馬を何頭も放し飼い
・宮中で闘犬
・藤原氏に干されて退位
63代 冷泉天皇
・池沼
・蹴鞠を一日中やる自閉症
・父親からの手紙にチンコを描く
・大声で一日中歌う
87代 四条天皇
・宮中で転んで死亡 享年12
・池沼
>>104 隠岐から脱走して帰京してんだもんなあw
>>1 源氏会と平家会ってあるんだよね
子孫が集まって駄弁ってる
最も戦国あたりまで行くと源氏と平家の末端あたりは混血しまくったろうけど
そんなことより佐々木導誉で大河やれよ
身内同士で殺しあってたあの時代に裏切りまくってたのに畳の上で死んだだけでもすごいのに
茶道、香道、華道でも名を残したとんでもない人だぞ
>>112 沖に流されるぞーっ!
というコピペが使えないね
むしろ北畠顕家だけで完勝してクリアしてたのにな。なんでひっくり返ったん?
>>118 勝ってもすぐに東北に戻らないといけないので
隠岐から帰って来て戦争するとかとんでもないバイタリティー
>>119 日本国王ってことで昔は散々叩かれた人って印象(尊王の人たちから)
岩手の岩泉町の山ん中に、戦に敗れた後に都から落ち延びて来た北畠一族の姫と従者が隠れ住んだ里があるのよね。
都に咲いてた花が、こんな辺境の地にも咲いてたのを見て姫が久しぶりに嬉しそうに笑ったそうだ。
それを知った家来達が険しい山中を必死で探し回り、沢山のその花を庭に植えて喜ばせてあげたんだと。
その集落は今も続いていて、北畑姓が多いんだ。
せっかく足利尊氏やや楠木正成や新田義貞と鎌倉幕府を倒したのにね。
その後の行状で、武士や御家人達にすっかり嫌われてしまった後醍醐天皇。
いくら楠木正成と新田義貞が忠誠を誓っても、
武士団・御家人達が足利尊氏についてしまった人望の無い後醍醐天皇に勝ち目は無いよ。
>>96 この前、吉水院いったけど行ってよかったわ
最初は目立つところに置いてあった勝手神社の看板見て「あれ?道間違えたか?」と困惑したけど
あれは神社再建の寄付集めのために置いてるそうだな
吉水院は南朝の御所でもあり、静御前と源義経が別れて「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
と詠んだ舞台だったそうだね
足利尊氏有能か?
良い方に事態が好転して転がり込んでくる、星回りの良さみたいなのを感じる
尊氏は、北条氏と親戚で北条氏以外では、一番の名門で事実上、源氏の後継者的な存在だから政権の幹部が寝返って、クーデター側につくも結局旧政権残党の実質リーダーの尊氏が新政権を作ったというのが真相
新田や楠木なんかとでは名門加減が違う
新田の鎌倉攻めの総大将は、義貞でなく千寿丸だしな
>>116 DQN具合とか
エンタメ性なら伊達政宗を
遥かに上回る可能性あるんだけどなw
新田は足利の分家筋だっけ
「後醍醐天皇っていう強烈な個性は面白い、あんだけ精力的な天皇は日本史上稀有ではないか」みたいな評価は読んだことあるけど
この時代には不案内だなぁ
なんか面白い小説なり漫画なりない?やっぱ太平記?
>>137 このスレにもいくつか出てる北方謙三のなんかいいんじゃない?
俺は吉川英治しか読んでないけど
>>137 北方謙三の一連の南北朝ものは面白いよ
楠木正成、悪党の裔、道誉なり、破軍の星辺りから読むのが良いかと
>>140 ありがとう
戦前のモノと戦後のモノを対比して読むと面白そうな気がしてきた
とりあえずその2つ試してみます
>>142 水滸伝楊令伝三国志で
中国史にハマる可能性もあるけど
北方謙三は三国志でハマって、水滸伝で挫折したけど、一連の南北朝ものでまたハマり、波王の秋でまた挫折した。
>>135 北条と親戚だからとか、素人か
足利の貴種性とは、三河で源頼朝と繋がっている事によるものだ
北条はコレを恐れ続け、足利との姻戚関係を望んだ
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
鎌倉幕府の幹部を、三河の親戚に繋がる人々で固めた源頼朝だが、足利はその一員であった
コレが、鎌倉将軍家断絶後、足利が尊重された理由だ
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
>>100 少ない兵力で多勢を打ち負かすには地形を生かすしかない
湊川の戦いの際も最初の軍議で正成は反対して一旦は軍勢を引いて挟撃体制を取れば勝てる案を出していた
だが後醍醐や側近が一旦後退するのはカッコ悪い、正々堂々戦うべきと主張を曲げず正成の案を退けた
正成は主君の命なら致し方なしと、敗戦と死を覚悟して戦ったからこそ、後に水戸黄門に大楠公稀代の忠臣として讃えられる事になる
決して弱かった訳ではない
内輪揉めさえしなきゃ足利兄弟&高兄弟の方が最強すぎるからな
>>125 あれ面白かったよな
続きあったとしても石は生き残れるんか?
囲まれすぎてて突破大変そう
>>45 楠木正成等の悪党とは、鎌倉幕府や尊氏にとって保護すべき土地権益を脅かす存在だから。
バンデットはテーマとか絵とか色々駄目だったんだと思う
でもある意味伝説化してるよね
ここだけでやたら知名度と評価が高いのが笑える
南北朝モノに飢えてる人間が多く、そういう連中の期待と注目を集めてた証左かと
源氏将軍に武士が集うのは当然のこと。
相当なカリスマ性があったんだろうね。
>>139 邪教扱いされて徹底的に焚書されたから資料は殆ど残ってない、が
僅かな情報から察するに、いわゆるタントラ仏教(性即菩提ってな程セクロスに耽溺する宗派。チベット仏教など)だったようだ。
>>137 どちらも八幡太郎義家の子孫だね。新田が足利の分家ということはないと思う。
二条河原落書とか笑えるよな。
世界でも希に見るような、名調子の風刺書じゃないの?
「太平記」は、始めはトレンディー路線大河とかなんじゃと思っていたけど、僕の中では一番好きな大河。リメイクもやめてほしい。片岡鶴太郎、フランキー堺、児玉清、片岡孝夫、近藤正臣、武田鉄矢、根津甚八、など素晴らしかった。
>>161 鎌倉中〜後期の新田は足利の分家、一門扱いだよ
ほーん分家扱いだったのか
大河ドラマの描写では同じ肩を並べる一門って感じだった
源義家の子、源義国の長男義重が新田氏の祖
源義国の次男義康が足利氏の祖
新田は足利の分家じゃないよ
最初敵だった足利尊氏だって味方にしたのに、武士への処遇で呆れられてまた寝返られてるからな
>>57 間抜け。
略奪は1時間とかでは終わらない。
掠奪を許可したら、その日は軍は動かない。
そんなことで行軍速度が出せるか間抜け。
>>8 勝負すべき時であろうと、いい女とのsexには変えられない。
我が人生に悔いなし。
>>12 そういう意味では高師直だって、切羽詰まった局面でしか露骨な裏切りはしていない。
>>15 家康の長男の一生を描いた大河とか見たい。暗そうだけど
天皇>貴族>武士の政治体制にすると、軍事力が低下する
武士の地位を上げると、そもそもの大義に反する
どうもならんくね
>>171 実際そう書いてあるんだからさ
まずは自分の想像力の貧困さを疑えよ
むしろ荷駄隊なんて悠長に引っ張ってる訳がないだろ
>>35 この時代、みんな性格がクソなのはしょうがない。
少なくとも動員兵力のこともあって、南朝での主要な戦闘では新田がエースなのは事実。
鎌倉幕府軍の殲滅は水際だった勝利と言えるし、足利尊氏との鎌倉攻防戦はそもそも公家社会の軍団を率いていた以上、武士の軍団を率いている足利一族とは戦闘力が違うのはやむを得ない部分がある。
それでも、どうしても正当化が無理なのは、播磨。
でも勾当内侍はいい女だったらしいから、しょうがないね。
>>177 想像力がないのはお前だろ?
現実にそんなことで進軍が可能かどうか考えてみればわかる、
>>15 無理やり女を主人公にしようとするから詰まらんだけだよ
三笠宮さまが、「うちが天皇をやっているのは(北朝を擁立した)足利のお陰」
って言ってたらしいから
足利尊氏は逆賊どころか今の皇室の恩人だ
>>165 源為朝が先祖だと信じられていて、一門扱いも無いだろ
ダタの同じ源氏の扱い
尊氏の頭の中をこうだ
為朝は我が先祖(難太平記、梅松論)
源義家→為義→為朝→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→頼氏→家時→貞氏→尊氏
>>181 三河寄りなのは、嫁のせいだ
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
崇仁親王妃百合子
・旧名、高木百合子
・高木家は河内国丹南藩1万石の大名
・母・邦子は入江為守子爵の娘
高木氏発祥の地
http://kikakubito.cms.am/modules/gnavi/index.php?lid=60 高木氏は安城市高木町の出身で、三河一向一揆で家康に味方し戦功がありました。天正18(1590)年家康の関東移封の際、相模国に5千石の領地をもらい、
その後加増を経て河内国丹南1万1千石の大名となりました。
三笠宮崇仁王に嫁がれ、ヒゲの殿下・三笠宮寛仁親王の母上である百合子妃はその子孫です。
三河高木氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_takagi.html 六本木も青山の地名も丹南藩主高木氏(三河県安城市)に由来
http://www.city.matsubara.osaka.jp/sp/index.cfm/10,64,51,263,html >六本木の地名のおこりは、江戸時代に高木・上杉・朽木・青木・片桐・一柳という木にちなんだ名の6大名の中屋敷があったからだと伝わっています。
>六本木に西接する港区南青山はもともと、赤坂区青山高樹町とよばれていました。
>いまも、西麻布の首都高速道路3号線出入口は高樹町の名で親しまれており、このあたりに高木氏の丹南藩1万石の別邸である下屋敷がありました。
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
>>185 続き
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
正成以外、互いに功名を上げたり自身の考えに固執することに必死で協力体制がほぼ無かったもんなぁ
正成は出自がアレなので軽んじらてれたし
>>182 後醍醐帝 帰還の立役者である功臣なのにね
でも、そのせいで大乱が発生したとも…
楠木正成の叔母さんは足助重範の生母
鎌倉期、幕府で昇殿出来る資格があったのは、将軍と足助氏だけ
出自云々言う奴は素人
足助重範の生母は楠木正成の叔母さんなら、足利重範の嫁は楠木正成の娘
時代を下り、世に出たのが徳川家康だ
ものを知らん奴が多すぎる
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
>>137 新田は、足利の分家でなく同等の家柄に近かったが、失脚した先祖がいたうえにそのときに妻の実家の足利家の援助でなんとかおとりつぶしを免れたので、かなり家来に近い立場にあった
義貞の鎌倉進撃も足利別働隊に近い役割だった
義貞は、尊氏に対抗できるほどの影響力はもともとない
>>148 北条が別に足利恐れてなんぞないだろ
宗家の源氏すらばしばし粛清されたのに足利だけ恐れるかよ
むしろ北条とズブズブだったから生き残ったに決まってるだろうが
>>193 三河と北関東で、どう連携取るんだ
新田など、義家流の武田あたりと同じ扱いだ
足利尊氏と徳川家康の生誕地は直線距離で数キロしか離れていない
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
>>195 俺は物を知らん田舎者だ、まで読んだ
三河の源頼朝が構築した三河システム(三河縁者の武士が武家社会を牛耳るシステム)の継承者が足利氏だ
コレを眺めて、そうなんだと理解出来ない奴は田舎猿
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
>>194 足利氏は認知されただけの子で実は源氏の血かどうか怪しいって説がなんか好き
あの時代の武士らしくて
>>195 続き
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
ID:JpBJH0y30
コイツに歴史スレが見つかったら終了です
>>198 三河の田舎者が暴れているのか
新田義貞の父親は、足利から偏諱すら受けているし、尊氏の指示もなく千寿丸大将に担ぐかよ
義貞自体がもともと足利軍団の一員だろうがアホ
>>205 当事者でもない田舎猿が、何が分かんの?w
中の人間でもない猿の分際で
俺は当事者、分かるか?
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
足利から偏諱とか、家来でもない武田も貰ってるつーの
中の人でもない部外者って、やーね
詳しく書いてはいるけど、出典が太平記なのがまた・・・
>>208 詳しく知りたいのか
例えば矢作宿の主だった高氏はこうだ
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→滝口惟忠→大平惟行(三河国滝山寺)
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→義定(御家人、近江国辺曾村)
高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→南頼基→惟宗→宗継(備中・三河守護、侍所頭人、室は高師兼の妹)→※宗久(遠江守、高師兼猶子)
【師行流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師行→
師秋(土佐守、家時置文保管者)→師有(関東執事)
師秋(土佐守、家時置文保管者)→三郎(三河国滝山寺)
師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
女(高師直室)
>>208 続き
【師氏流】高階惟長(御家人、陸奥国信夫郡)→惟重→高重氏(御家人、近江国辺曾村)→師氏(三河国菅生郷・比志賀郷)→
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→※師世(幕府執事)→いち(三河国総持寺住持)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師秀(尾張守)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→明阿(高師冬妻、三河国総持寺開基)
師重(三河国菅生郷)→※師泰(尾張守・越後守、河内・和泉・尾張・越後守護、侍所頭人)→師武(国司師武)?
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師夏
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師詮(丹後・但馬守護)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師冬(播磨守・三河守、武蔵・伊賀守護、関東執事、室は高師泰の娘、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→女(渋川直頼(姉妹に足利義詮室)室)
師重(三河国菅生郷)→※師直(三河守・武蔵守、武蔵・上総守護、幕府執事)→師永(秋里師永)?
>>208 続き
師重(三河国菅生郷)→師茂→重茂(駿河守・大和権守、武蔵守護、関東執事)
師重(三河国菅生郷)→師久(豊前守)→※師景
師重(三河国菅生郷)→貞円(三河国滝山寺)
師重(三河国菅生郷)→女(高師春室)→※師兼(尾張守、三河守護、高師直猶子)
師春→※師兼(三河守護、高師直猶子)→※宗久(高師兼猶子)
師春→女(南宗継妻)
師信→※師幸(備前守)
女(稲荷女房、三河国比志賀郷)
※は武庫川で殺害された8人(師直武蔵守入道・師泰越後守入道・師兼高刑部・師夏武蔵五郎・師世越後大夫将監・高備前(師幸)・豊前五郎(師景)・高南遠江兵庫助(宗久)『園太暦』)
>>212 お前は反天皇か、もしくは物を知らん田舎者か?
三河の山=皇室が所有した由緒正しい、最大の荘園
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないですな
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいがw
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる
北朝、南朝に別れたおかげで元寇じゃできなかった土地とりあいができて良かったんじゃないか
そして鎌倉期の三河国主は持明院統
三河守護の足利氏は持明院統の下司でもあったわけだ
三河で大覚寺統と持明院統の股割き状態にあった尊氏の苦悩による動向は、部外者である田舎者には分裂症にしかみえないのである
恥ずかしいね、部外者はw
三河国分国主、知行国主
1191年07年:九条兼実(知行国主)、嫡男の嫁は一条全子(坊門姫の娘)
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守) 、孫が水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)、後鳥羽院の命で養子入り後に水無瀬殿を譲られる)娘
1200年03月:七条院(分国主) 、姪は坊門信子(源実朝室)
1227年11月:七条院(分国主)、再任
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の玄孫、すぐに四条隆親と交代
1240年12月:四条隆親(知行国主)、再任
1254年04月:平敦朝
1288年02月:西園寺実兼(知行国主)、関東申次
1301年02月:持明院統(伏見院)(分国主)
1303年04年:持明院統(伏見院)(分国主)
1321年06年:日野俊光(知行国主)、辞退
1321年06年:西園寺実衛(知行国主)、関東申次
1324年01月:持明院統(花園院)(分国主)
尊氏みたいなうつ病野郎の苦悩なんてどうでもいい
土地とりあいやりたいのもっと下級の連中だからよ
ぼちぼち太平記のリメイクがあってもよさそうだけど年寄り向けになるからイケメン俳優を使いまくらなければならんだろな
更にNHKが創ると妙に歴史が変えられるから何とも…
尊氏が主人公じゃつまらない
話しがぐだぐだだし南北朝後半から入って義満は、どうだ
山名、大内とも戦うし
最後のおちもまーまーいい
後から考えれば楠木正成に全兵力を任せれば余裕で勝ってたんだよな
顕家に一度東北に帰れって強制した時点で詰んだよね・・・
勝った事ないのに勝つとか、頭がおかしいのか
勝った事がある奴がまた勝つんだよ
つまり足利尊氏についた奴らは、時代を遡れば義家の家来でもあった
ちなみに、義家軍の伴助兼は、北条時政の母方ど同族らしい
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士
大塔の宮を見捨てたからな、あいつが生きてれば可能性はあった
新田あほ過ぎ
先祖が楠木正成って言われてるんだけど、正直ビミョー…我が家系
>>123 実は義満の他に同時期日本国王を自称していたのがもう一人いるんだけど、
その人は南朝筋の皇族だからウヨの人たちは知らんぷりをしているというダブスタ
後醍醐取り巻きの公家衆が無能だったから
戦のことは武士に任せるべきなのに、公家が口挟んで作戦台なしになった
>>144 私本太平記は楠木正成の駆け落ちして平野の湿地帯でコジキ夫婦してた馬鹿娘が史料の娘と全く異なるとこはわざとだろうけど色々と凄くエモい
楠木正成は智将と思っていたけど、
実際は敵にウンコを投げつけるオッサンだったんだよな。
>>64 新田義貞が無能だったけど不運もあったよな。公家大将が「佐々木道誉を戦線に配置しろ」の義貞に命令したらしいけど、義貞は「道誉は裏切るから駄目」と断ったのに、公家が強引に道誉を戦線に配置。案の定裏切っているしな。
後醍醐帝は病気なのだ
その病気を育てたのは1000年にも及ぶ朝廷の特権そのものなのだ
そうだな、その意味で言うと帝も被害者なのかもしれない
2000年前ならあれで通じたのに不運な人だ
>>233 新田氏は所詮は元負け組なんだから、プライド捨てたらなんも残らんから仕方無いとも言える
>>19 未だに大河で一番好きだわ
キャストがめちゃくちゃよかった
特にフランキー堺と片岡鶴太郎
顕家は、ハンニバルと同じ
補給できないからいづれ負ける運命にあっただけ
義貞は、鎌倉攻めの功績で尊氏に変わる武士の大将として期待されたが、その器でなかった
尊氏ほど権威がないから鎌倉ご家人が従わない
正成は、大軍を率いる大将でがそもそもない
>>241 病院へいこうで
真田とコンビのコメディだったから
シリアスな一色右馬介かっこよかった
京都に旅した時の尊氏の後ろでお菓子食べてるところは楽しそうだけどw
>>190 三河屋だろ
ありゃどうしようもないわ
大河板等さまざまな板で嫌がられてるし
>>246 思考がやろやんグンマーと全く同じなんだよな
住んでるところが凄いから俺も凄い!みたいな
ムカつくけど同時に哀れだとも思うんだよね
後醍醐天皇、征夷大将軍が護良親王、その両翼に新田と楠木、北に北畠顕家、南に懐良親王(´・ω・`)
これが実現してたら南朝盤石やったやろな(´・ω・`)
尊氏も大人しく軍門に下ったやろ(´・ω・`)
>>248 それだと護良親王が本当にクーデターを企てていたら
一気に体制崩壊するぞ。
だからこそ、後醍醐帝は疑惑が出た時点で彼を処刑した。
尊氏は気前よく配下に所領を与えたから武士たちが集まってきたんだな
大大名作り過ぎて室町幕府は不安定だったけど
等持院ほか複数伝わる尊氏の木像や肖像画は共通してタレ目の人の良さそうな風貌
>>248 恩賞含め社会が武士無くして回らないことを理解して枠組み作らない限りは尊氏を引き込んでも別のアタマを立てるだけになるでしょ
そもそも尊氏自体は後醍醐帝と争う気はあまりなかったはず
南朝が正統と認めているのに、以降の天ちゃんは北朝の流れとはこれ如何に
>>250 そうかと思えば勝者の細川顕氏に対して刀を抜いて脅したりよくわからん人物だわ
親房「なぜあのまま足利を京から追い出さなかった!
なぜ伊勢へなど来たのだ!」
顕家「…父上 この戦は一体いつ終わるのです? 顕家はもう疲れました…
それで父上にお会いしたくなり ついフラフラと伊勢へ来てしまいました
申し訳ありません…」
親房「そ…そうか… まあ 茶でも飲め…(涙)」
>>253 よく言われるように躁鬱病だったのかも知れないな
孫の義満も相当お天気屋だったそうだし曾孫の義教もご存知ヤバイ人
精神病は遺伝あるのか分からないけど
>>15 日本武尊か神功皇后を見たい
特撮にお金を掛ければかなり面白くなるはず
>>111 四条は置いといて、奇行が目立つ帝は政争に敗れて干された系統だから、
奇行ぶりはかなり盛られたもの。
>>252 敗北した南朝関係者の御霊をお慰め申し上げる(怨霊化抑止)ために正統とされている
勝った側が居丈高にならずに謙虚になるようにするために必要なことだ
勝者の野蛮化防止のためだよ
>>178 婆娑羅ってのはその中でも飛び抜けてアレだった訳ねw
高師直なんか「天皇に頭を下げるのが面倒だから、木や金でそっくりな像を作って、当人は都から追い出したいものだ」
なんてパヨが感涙しそうな事まで言ってるし、
佐々木道誉は光厳上皇を犬呼ばわりして、行幸の列に矢を射かけているし…
>>252 南朝正統論は江戸時代に水戸藩が編纂した「大日本史」以降
太平記での楠木正成人気もそれを後押しした
>>255 躁鬱は、遺伝の可能性がかなりあるよ
ただのうつ病なら誰でもなるけど
自殺した先祖もいたよな
建武の新政の時点で無能まるだし
どっかの大統領みたい
>>264 こんな状態なんだから王政復古したところでうまくいくわけない
みんな北条をどっけたかっただけ
>>254 顕家が戦死した知らせを聞いた近藤正臣の演技がまたいいんだよね。
>>253 それ亀田センセに言わせれば逆だから
(敗者としての尊氏が恐縮しただけ)
そういや鎌倉時代までは武士って分割相続が一般的だったっていうけど
有力な御家人とかでもそうだったんだろか
>>273 元寇で狂乱の戦闘をしたのもそれが有ったからかもね。
末子でも活躍すれば褒美として土地がもらえる(はずだった)。
こいつの酷さは天皇家の恥だな
まあ直接の祖先じゃないからセーフ
護良親王は後醍醐天皇の密命を受けて、新田義貞、楠木正成、赤松則村とともに、尊氏を討つ計画を企てた。
しかし、尊氏の実力になかなか手を出せずにいた。
建武元年(1334年)夏に、状況が変わらないことに我慢がならなくなった護良親王は、令旨を発して兵を集めて尊氏討伐の軍を起こした。
これを聞いた尊氏も兵を集めて、備えた。
その上、尊氏は親王の令旨を証拠として、後醍醐天皇に謁見した。
これを聞いた後醍醐天皇は「これは、親王の独断でやったことで、朕には預かり知らぬことである」と発言して、護良親王を捕らえて尊氏に引き渡した
この時代って武将って言っても
鎌倉の御家人系列
公家や皇族の落下傘
悪党の系列が入り交じっていて同列に扱っても背景が違いすぎるしな
新田、楠木、北畠ってそれぞれ代表してるな
この頃はまだ寺社勢力の関与は低いんだよな
室町になってから悪党を飲み込んで巨大化していった感じかな?
うちの本家は「名和家の末裔」を名乗ってるので学生の頃
徹底的に大学図書館で調べたけど、名和家の「素性」はこんな感じ
・京都の貴族(臣籍降下した一族)の子弟が比叡山で僧兵に
→指名手配された源行家を捕縛。
→北条政子から恩賞で但馬に土地を貰う(吾妻鏡参照)
→承久の乱で北条方で参戦。土地拡大
→平頼綱側について但馬の所領召し上げ。伯耆に。
→後醍醐天皇の隠岐脱出に名和長年の子供が関与
→後は太平記に記された通り
「史実」はこんな感じだけど、戦前は悪名高き東大の平泉教授が
史料改竄したので承久の乱では宮方についたことになってる。
>>281 勝手に令旨を出したことに激怒したらしい
赤松円心の子孫て聞いてるけど名和と共に村上源氏っていうのは微妙
しかし、足利尊氏が鎌倉幕府を裏切ったのも、円心配下の武将が北条高家を討ち取ったのがきっかけって言われているし
2千の兵で50日以上、6万の新田軍を先に行かせず食い止めた円心の役割ってかなり大きいんだよな
円心は室町幕府成立のキーマンかも知れない
他の武将に比べて有名じゃないけど
>>284 赤松は、悪党系だと思っているけど悪党系列でもっとも成功したと思うけどな
>>284 名和の子孫だけど、あっという間に表舞台から姿を消した名和家に較べれば十分成功じゃん。
赤松家は南と北を行ったり来たりもあるし、南北朝終わっても後南朝への乱入イベンまであるし。
最後のは現代に至るまで地元に悪名残ってるのはアレだけど
武田鉄矢の正成は意外な配役だったが
作中での純朴な役柄に合っていた
>>286 でも名和氏の本家は確か、後醍醐天皇への忠義の功績で明治新政府から爵位を受けていた筈
表舞台から姿を消したと言っても。
貴族院議員になってるでしょ
>>289 だって南北朝〜室町前期を舞台にした大河ドラマなんて
数える程しかないんだもの。
いくら源平や戦国、幕末の受けがいいからって
これを無視するのはもったいない。
※この時代がドラマのネタにされない理由は知ってる。
放映後、必ず南朝と北朝のどちらが正当かで揉めるからだ。
資料が少ないってのもあるのでは?
脚色が結構きついって話も聞いたことがある。
いや戦前の尊王史観が一番萎縮効果あるだろ、戦前の楠木信仰とか凄かったらしいね
俺は基本的にそれらに関しては無知だから…
持明院統と大覚寺統の両統迭立ってどう整合させてたのかとかそういった微妙な皇統の正統性の言説の経過を概説した入門書、誰か知ってるなら教えてもらえるかな?
(邪悪な意図はないとブヨブヨの腹を向けながら)
>>285 赤松は悪党系と思いきや実は御家人
楠木も悪党系と思いきや実は後家人からの得宗被官
>>293 ちょっと偏りはあるが講談社新書の「神風と悪党の世紀」(海津一朗)が南北朝正閏問題を論点としている
新書だし安価なのでとりあえずおぬぬめ
大日本皇道立教会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9A%87%E9%81%93%E7%AB%8B%E6%95%99%E4%BC%9A >南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨の元で、1911年に創立された。
>大隈重信、一木喜徳郎、牧口常三郎、戸田城聖、数名の華族や陸海軍人により構成された。
>後には児玉誉士夫も加入。
>後に、大日本皇道立教会の会員のうち、創価教育学会(現在の創価学会の前身)の創立にかかわるものがいた。
>その後、家督を継いだ中山忠英の三男中山忠徳(ただのり)は神道研究に努め、
>その門下には大本教の開祖・出口王仁三郎、PL教団開祖・御木徳近、戦前戦後の陽明学の大家・安岡正篤、
>そして山蔭神道宗家の山陰基央らの昭和の偉人を輩出させている。
尊氏を神格化するに当たって当て馬が必要だった、それがその三人って理解なんだけど(´・ω・`)
>>7 東北のカッペが日本有史で唯一京の都で
イーエーできたときw
まあ武士団は頼朝のときの御家人の末裔がほとんどだけどなw
>>295 出自は、そうでも当時のたち位置も変わらかったの?
>>302 北畠を東北のカッペだって笑
バカじゃないの
>>293 後醍醐帝と南朝の関係者を神として祭る神社をジャンジャン建てて
しかも、官社として高い位を与えていたそうな。
祭神の子孫が家の箔付けのためにやったのではないかという話。
北朝が正統なのは明らかだろ
いや北朝と呼ぶのは間違いだな
正統な皇室と南方偽主が存在していただけなのだから
正当とか勝った側の価値観にすぎないしな
北朝は、三種神器や上皇すら連れ去られる局面もあったしな
南朝正当も勝った側の明治天皇の考えに過ぎない
輪王寺宮が勝っていればどうなったか
月刊ムーによると、明治天皇こと大室某は南朝末裔で明治維新は南朝革命なんだそうだ
>>299 出口王仁三郎とかめちゃくちゃ政府に弾圧されるのにな
コスプレおじさん
>>309 南朝正当とかいまいち明治天皇メリットがわからないんだけど
熊沢天皇みたいのひょいひょい出てくるのに決まってるじゃないですか問題だよな
南朝は神器は偽物だと嘘をついた
桓武天皇が定めた都を一時的にしか奪還できなかった
子孫は自称子孫しかいない
公家のほとんどが北朝側についた
南北朝合一のとき後小松天皇は改めて即位をしていない=南朝の皇位は否定された
もうこんだけでも南朝が正統ではないのは明らかなのだ
ともあれ遠く離れたフグスマ人が二度も京都を蹂躙したのは、興味深い
>>310 出口王仁三郎は〇〇宮の落とし子て噂があって、政府から警戒されてたらしい
>>312 その後小松天皇の御落胤が一休さんこと一休宗純で、
時の足利将軍家に癒着して、金満主義に陥っていた臨済宗に一波乱巻き起こすのだから
何とまあだなw
>>314 王仁三郎は、天皇のコスプレしてたし自分で噂まいてたんじゃないの?
それで弾圧されまくったし
>>299 児玉誉士夫なんかを入れてる時点で下らねえ組織だわ
自分の家系とかはいくらでも偽っていい連中がたむろして強請りとかして資金得てたんだろうな
楠木正成が新田を切れと言ったとき新田を外していれば
後醍醐が勝っていたかもしれないな
判官びいき日本人思想だと
義経、正成、幸村が、主人公格なんだけど
正成メインは、やらないな
正成は正当性だけは有るサイコパス暗君に使えた忠臣だから描きにくいなw
楠木正成主人公はぜんぜん行けるやろ
出生と幼少期は創作と後醍醐、尊氏を絡めてやれば良い
でも太平記を超えるものは最早作れないだろうな
太平記はあまりにも傑作過ぎた
行けるとは思うし太平記自体、後半はぐだぐだで後半視聴率低かったと違うの?
摂津湊川あたりで終わりにしないとしまりがないよむしろ
小説やドラマは作り物だからな 虚構と現実は区別しておかないと危ないぞ チョンみたいなことに成るぞ
ポイントは、真田太平記と真田ひろゆき太平記を混同しないことだ
>>19 後醍醐天皇役で片岡孝夫。
立ち姿やセリフの発声など、全身から高貴さが溢れていて、まさにこれぞ帝と見まごうほどの好演だった。
>>324 真田広之は神、太平記は超絶凄過ぎる
当時30歳とかあり得ない
落ち着き払った余りにも美しい尊氏後期こそ見事な演技だ
前期の清々しい高氏、中期に迷いに迷う尊氏も勿論素晴らしい
衣装も素晴らしかった
陣内道誉も素晴らし過ぎた
その他脇役も凄過ぎたあんな奇跡やられたらもう無理だw
JAC出身の真田がそんなに評価されるとは
なべけんと真田は、ハリウッドでも頑張ったしね
ウルバリンサムライとかね
まあ陣内の婆娑羅は、あれでビジュアル的に婆娑羅を理解した人間も多かったろうな
太平記の時に池端俊策の脚本は評判よかったらしく脚本集まで出てたな。
それを買う位好きだったんだが、南北朝の時代はやっぱりどちらかの正当性
の議論があって、取り上げづらい時代だったってNHKのPのコメントが載ってた記憶がある。
もっとも太平記より本当にとりづらいのは、承久の乱
一回扱ってるが
太平記みたいな品質の大河をもう一回観たいもんだよNHK
ぶっ壊される前にもう一回がんばれよw
フランキー堺の痺れるような悪役
片岡鶴太郎の怪演
坊門清忠の嫌らしい演技
全然イメージ違うのに素晴らしい武田鉄矢w
緒形拳、近藤正臣のどストレートな名演
沢口靖子、宮沢りえ、後藤久美子、原田美枝子、小田茜の美しさ
なんで太平記だけそんなセンス良いのよ?w
緒形拳は、すぐ降板したし根津甚八は、あんまりキャラが立たなかったイメージだけど
根津甚八は、黄金の日々のが良かったのでは
すぐ降板したのは萩原健一
いきなり根津甚八に代わって意味不明だったな
あの程度なら根津甚八で初めから撮り直せばよかったのにな!
そこは残念なところ
うーんその流れだとどうも高嶋も評価してないな
主要キャラなのに
>>329 いまの皇室は北朝系なんで
本来なら尊氏は忠臣で楠木は大逆の悪人であるはずのに
戦前では逆だったからな
楠木が忠臣なら今の皇室は正統ではないということになる
だから正当論争より尊氏は、心底後醍醐を尊敬、畏怖する念は、変わらないみたいな設計にしたんだろ
松阪三大祭り、祇園祭、初午祭、氏郷祭。
北畠が滅ぼされ蒲生氏郷が楽市楽座を始めて松阪が栄え
今も市民は氏郷さんを讃えている。
北畠の胴塚や首塚を祀ってはいる。
>>304 御家人でも采地を経営するに当たっては流通経済をガッチリ押さえないとね
赤松はこの類い(新田も幕末にはその点うまく行きそうだったのに長崎らからいちゃもん→両使を派遣され押し問答の末に両使を斬って挙げ句切羽詰まって挙兵したとw)
楠木もそうなんだが一歩踏み込んで得宗被官化したのが悪い方に出ちゃったと…利権闘争があったのかも?
(長崎高資の蝦夷管領・安東氏よりの二重収賄があったくらい利権を巡り幕府の内実もおかしくなりかけてたからね)
楠木は当時、京都の高名な摂関の二条さんに皮肉まじりな落首まがいの和歌で風刺的に詠まれているほど立ち位置を変えているから蝦夷の安東問題以上の確執を得宗家や幕府と抱えていた結果があのようになった希ガス
さらに序にいえばそのような位置付けだから、今日そう捉えられるほど楠木さんは勤皇家じゃなかったと思うよ
>>308 明治帝はそこまで深入りしてないよ
あれは大逆事件も絡む血腥い政治マターだから
基本的に幕府内でたち位置が下降したりして上がり目なくなった連中の敗者復活戦が建武新政〜南北朝動乱ってよくわかるな
北条は、権力を集中しすぎたな
>>311 あれは最晩年の明治帝も諸々ままならぬ中で苦慮されて揚げ句「ヴェートー=平たく言えば拒否権」発動遊ばされる機会が失われたというのが真相じゃないかなと邪推
>>322 いやいやいや観応擾乱こそが取り分け面白いんじゃないか
>>344 それは、歴史マニアの評価
あまり描かれることが少ないからそう思うかもしれないけど実際には、まず視聴率が伸びないからカットが妥当
義経しんだあとに奥州討伐の回をやたらやるとかみたいなもんだ
もっといえば三國志で孔明がしんだあとはどうでもいいと同じ
>>345 確かに分かりにくい点は多々ある
だからこそ脚本や演出等見せ場がある
とはいえ確かに昨今の大河クルーじゃ沈没するよりない船を仕立ててザブンだろうね
個人的には、清盛が面白かったが、あーいうのは一般受けしないと思い知らされた
>>326 真田丸の堺雅人とかより
ずっと若いのに
ずっと気品があってアクション抜群で
ああいう大河の主演できる役者
いないな
>>342 古来から女がしゃしゃり出ると国がおかしな方向にいく
哲婦城を傾くとはよく言ったものだ
>>303 会津藩は元信州(今の長野)のカッペw
>>305 配下の武将団のことをいっているのだがな
北畠が京の公家なことくらい知っているわw
>>351 じゃ最初からそう書きなよ
伝わらないだろ
後々もっと名を成した人が多いからそう思うのかもしれないが、
太平記は真に豪華キャストだったな。
唯一演技が不安だったのが、赤井英和くらいw
>>336 だいたい徳川光圀のせい。
南朝が正統だって、歴史書「大日本史」にしつこいほど書きまくってる。
>>353 勝塾出身のルー大柴はノープロブレムだった
>>351 大将の話しか部下の話しかダブルスタンダードはやめろ
お前ら大河ドラマについてはN国党に要望書を出せば…。
>大河
漫画種でも良いのなら「あっかんべェ一休」が見たいな
>>295 また、適当な事言ってのか
足助氏は頼家の正室を輩出し、将軍以外では唯一昇殿が出来、北条が手を出せなかった名族
その足助氏に楠木正成の叔母が嫁入りした事実は、何にもまして出自を探る鍵がある
足助氏には安達盛長の娘が嫁入りし、霜月騒動当時、尾張の那古野荘の地頭だった足助氏の嫁(楠木正成の叔母とと同年代か?)は安達一族だった
つまり河内の安達氏の所領は、得宗被官としてではなく、この縁故で獲得した可能性があるのである
>>354 松平郷は南朝の最大の本拠地内にあったからな
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないですな
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいがw
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる
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