実は沖縄と朝鮮は深い関係だ
高麗王朝に度々反乱を起こした忠誠の疑わしい三別抄による武臣政権よりも、
忠誠の篤い高麗王朝自身による朝鮮の間接統治を望んだために、降服条件は折り合うこともなかった。
この結果、1271年中に、珍島の三別抄は高麗の金方慶、洪茶丘らモンゴルの連合軍に撃破され、
残党が金通精に率いられて耽羅(済州島)に落ち延びて命脈を保つが、1273年には耽羅島も攻め落とされて
三別抄の乱は完全に鎮圧、三別抄の歴史も閉じることになる。
三別抄の壊滅と同時にモンゴルは耽羅総管府を設置、ここにモンゴルによる高麗の征服事業は完了した。

20世紀後半に、沖縄県浦添市浦添ようどれで高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が珍島に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。
浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、癸酉年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。これが1273年だとすれば、
三別抄が済州島で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたと言われている。

後に沖縄各地(13世紀)に石積みの城(グスク)が100以上造られた。
各間切には按司と呼ばれる酋長がグスクと呼ばれる塞を築いて対立、勢力を争った。
実際は勢力争いではなく元軍を監視するために造られたグスクだ。

因みに沖縄の城造りは本土より1世紀半早かった。