■ 日蓮宗が安土宗論で浄土宗に負け、織田信長に差し出した詫び証文

( 安土宗論 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%AB%96 )


『 敬白 起請文(きしょうもん)の事

今度(このたび )近江の浄厳院に於いて浄土宗と宗論を致し、法花宗が負け申すに付いて、京都の坊主普伝、並びに塩屋伝介が仰せ付けられ候事。

向後他宗に対し一切法難(非難)致し可からざる之事
( 今後は、他宗に対し決して非難は致しません )。

法花一分之儀立て置かる可き之旨、忝く存じ奉り候
( 日蓮宗に寛大な御処置を賜りまして、誠に有り難い想いです )、
法花上人衆、一先牢人仕り、重ねて召し置かるゝの事
( 私共日蓮宗の僧はいったん宗門を離れ、改めて御許可を得てから前職に就かせて戴きます)。

天正七年五月二十七日  法花宗

上様、浄土宗様 』


この様な証文を出した上に「宗論に負けました」と書いてしまったからには、日蓮宗が負けた事を女子供迄もが後の代まで聞き知る事になった。

別の文句が幾らでもあったのに失敗したと歴々の僧たちが後悔していると伝え聞いて、またまた世人はこれを笑い者にした。

建部紹智については、堺の港まで逃げたが捕縛された。
この度の騒動は大脇伝介と建部紹智が発端となったのだから、紹智も首を斬られた。


以上、信長公記の記述による。


安土宗論は、
日蓮宗側にしてみればそのまま安土法難であり、同様の事態は、のちに徳川家康と浄土宗によって、慶長法難として引き起こされている。

ルイス・フロイスの『日本史』でも、信長公記と全く同じ流れで宗論が進んでおり、やはり「妙」のところで日蓮宗側が回答に詰まって決着がついている。

宗論の項冒頭にフロイスが書いている通り、彼にとっては日蓮宗も浄土宗もどちらも「悪魔の教え」として完全否定すべきものであり、また「彼らはなんら哲学的知識を持っていなかったので」などと両者とも蔑視している。

つまりフロイスが浄土宗の勝利のために信長と口裏を合わせる理由は全くないと言える。