>>442
こうした中、日本は1944年2月頃、訓練工らを強制的に徴用し、原告X1及びX2は徴用後には小遣の支給も全く受けられなくなった。
大阪製鉄所の工場は1945年3月頃アメリカ合衆国軍の空襲で破壊され、この時訓練工のうち一部が死亡し、
原告X1及びX2を含む残りの訓練工らは1945年6月頃咸鏡道清津に建設中の製鉄所に配置され清津に移動した。
原告X1及びX2は寄宿舎の舎監に賃金が入金された貯金通帳と印鑑を渡せと要求したが、
舎監は清津に到着
した後も上記通帳と印鑑を返してくれず、
原告X1及びX2は清津で一日12時間工場建設のため土木工事をしたが賃金を全く受け取ることができなかった。
原告X1及びX2は1945年8月頃、清津工場がソ連軍の攻撃で破壊されると、

ソ連軍を避けてソウルに逃げ、日帝から解放された事実を知った。