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憲法でも、検閲の禁止として行政権の事前内容審査は絶対的に禁止されているものの、公民館等の貸し出しや、公営美術館・博物館における作品陳列の拒否や修正要求など、いわゆる行政側の示威的な判断によって表現行為が制約を受ける例が少なからず生じている
しかもその傾向が近年強まっているのが現状だ
そうした中で、新たな事例として付け加えることの問題である。党本部は、以前から行ってきたことで、今回が初めてではないと説明しているという
おそらく小泉時代からではないかということだ。また、あくまでもお願いであって、強制ではないそうだ
しかし周辺状況からすると、6年前であれば、受け取ってすぐごみ箱に捨てられていた文書が、いまの状況の中で別の意味を持つに至っていることを、政党自身が十分認識をしたうえで要請しているはずだ。その意味では、同じではないのである

また、取材は自由です、としていることから、報道は自由ではないということを強調していることも気になる点だ
それゆえ、こうした行政の威を借りてさも強制力があるふりをして行う威圧行為は、許されるものではない

第2は、とりわけ最近5年つとに強調されてきている、「公平」絶対主義の問題性についてである
自民党は14年の選挙以来、とりわけ公平問題に執着している
在京テレビ局に報道の公平性確保を求める文書を提出、それを受け現場では編成局長名等の注意文書を回覧し、数量平等に努める現実がある
放送法や公職選挙法上の公平報道規定に基づくものとされているが、そもそも公職選挙法は数量公平を言っていない
これは裁判所も認めているところで、「泡沫(ほうまつ)」候補扱いをすることも認めているし、ここで言う公平さは、もっぱら特定の党派性をもった報道方針を持つことはよくない、という意味である

一方で放送法は、法自体が違法行為の認定基準として使用されることを予定しておらず、ましてや行政府が法条文をもとに番組内容規制をするためのものではない
あくまでも放送人の職責として豊かな番組を制作するための「心構え」としての倫理的基準に過ぎないのである
しかもここで言う公平は、質的公正さを謳(うた)っているもので、強いて言えば社会の弱い立場、小さい声に耳を傾けるという意味での公正さを求めるものである

まだ続きます