>>507
そうしたところで、日本が朝鮮を「併合」してしまったのです。私立学校は閉鎖あるいは抑制されました。
かなりの設備をもった教育施設でも「私設学術講習会」とよばれて、1年毎に認可を受けなければなら
ないような不安定な状況に置かれました。一方、「国民たるの性格」を養い、「国語」(日本語)を習得さ
せることを主目的とする公立普通学校が、学校制度の中心に置かれました。その普通学校の設置も
進まず、1つの面(町村に相当)に1つの学校がある状況になったのは1930年代半ばのことでした。それ
も総督府が「建ててあげた」のではありません。教育を求める地元の有力者が土地や建設資金を寄付
したり、既にあった「私設学術講習会」を統合したりしながら建てたものを総督府が認可し、日本式の
カリキュラムを押しつけたというのが正確なところです。


それに加え、識字率の低迷には、複雑な多言語・多文字状況を考える必要があります。植民地期朝鮮
では、日本語が支配的な地位を占めながらも、言語としては日本語と朝鮮語(多言語)、文字としてはカ
ナ・漢字・ハングル(多文字)が不均衡に混在していました。日本の敗戦後、南北朝鮮では日本語を払拭
するとともに、ハングル識字運動(「文盲退治」といいました)が進められました。その結果、北では1949年
に「文盲退治」が宣言されますし(《朝鮮教育史3》社会科学出版社、1990)、南でも文字を読めない人の
割合が77.8%(1945年)から41.3%(1948年)、13.9%(1954年)と急速に減っていきました(《文教月報》49号、1959.11)。
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