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◆事故のあった普天間第二小学校が移転の話を蹴って移転しない理由◆

(抜粋)
それが明らかになったのは普天間第2小学校移転問題の時です。この普天間2小は、反対運動の間では、
いまも基地公害の象徴的な場所として、再三取り上げられます。
普天間第2小学校の位置を確認しておきます。基地のフェンスと隣接しています。信じがたい環境です。
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2015/10/21/photo_4.jpg

普天間2小が創立されたのは1969年で、普天間基地が出来てから24年目でした。
ですから、学校は基地があることを知って建てられたのです。
2小という名前が示すように、児童数が急増して建てられたことは想像できます。
しかし、なぜこのような場所に児童が通う学校を建てたのか、理由はわかりません。

というのは、県道81号線には、後に返還されることになる西普天間住宅地域があって、そこに建てれば、
少なくともクリアゾーンには入らなかったと思われるからです。
というわけで、ここに立てられた理由は分かりませんが、いまでもここにある理由はわかります。

1983年のこと、かねてから普天間2小の危険性を憂慮していた校長や安次富盛信宜野湾市長は、
安全な場所への移設計画を立ち上げます。
市長は直接米軍と交渉し、今ある学校敷地から1キロ離れた米軍家族用地の8000坪を
沖縄防衛施設庁などに仲介してもらって返還を約束させ、さらには移転費用30億円も、政府が負担するところまで話を進めました。
危険性が明瞭に存在し、それを除去しようとする行政の計画があり、そして土地と移転資金も手当てしたわけです。
ここまでお膳立てして、よもや反対されるとは、安次富氏は夢にも思わなかったはずです。

しかし、なんとここに横やりが入ります。自称「平和団体」の人たちです。


普天間基地に居続けてもらわねば困る人たちの不思議な論理 2015年10月21日 (水)
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-bd33.html