>>1チョンまで、「やれやれ系」漁民かw

まあ「雷鳴のゴラン=ダガーム」「ブラックラグーン」
みたいな、強姦殺人略奪上等な、モヒカンヒャッハーじゃなくてよかったなww

貞観の韓寇

貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、
艦二艘に乗り筑前國那珂郡(博多)の荒津
に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。

寛平の韓寇

『日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)
および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、
壱岐、対馬にかけての入寇とその征伐の記録。
寛平5年(893年)5月11日大宰府は新羅の賊を
発見。
「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。
又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。
翌寛平6年(894年)4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。

寛平6年(894年)、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる
新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた。
9月5日の朝、45艘でやってきた賊徒に対し、
武将としての経験があり対馬守に配されていた
文屋善友は郡司士卒を率いて、
誘い込みの上で弩を構えた数百の軍勢で迎え撃った。
雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、
220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った。
また、船11、太刀50、桙1000、弓胡(やなぐい)
各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、
賊ひとりを生け捕った。

捕虜の証言ではこれは民間海賊による略奪ではなく、
新羅政府による襲撃略奪であった。捕虜曰く、
新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、
穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。
その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った
将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。