六〇四年の時点で倭国という国名を嫌って
自ら「日の国=日本国」と名乗り
倭王・阿毎多利思北孤が、六〇七年の隋への遣使で「日出ずる所の天子」を名乗る基盤となったのである。

支那は関係ありませんでした。