自称愛国者様の無能ペテン売国奴・牟田口廉也に関するwikiの記述が、萩生田とか仲良し友達組と被るw

牟田口は戦後、東京都調布市で余生を過ごした。
しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1960年(昭和35年)頃まで、敗戦の責任を強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた。
しかし、1962年(昭和37年)にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり、
死去までの約4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた。
同様の主張は、多くの機会で繰り返された。