0001湛然 ★
2023/12/29(金) 22:42:31.95ID:KWycKf7W9https://www.loudersound.com/features/james-gang-story
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■古典的なファンク・ロック・サウンドで、止めることができないように見えたロックンロール・カウボーイのジェイムス・ギャングは、バンドを成功させ、そして崩壊させた本物の凄腕ギタリストにインスピレーションを受けた。
真のアメリカ中心部のバンドを探すなら、1960年代後半から70年代前半にかけてジェイムス・ギャングの本拠地だったオハイオ州クリーブランドに勝る場所はない。
名前の由来となった伝説の無法者たちと同様、ジェイムス・ギャングもその名声が実際の業績より長く残る異端児の集団だった。(※中略)
22歳でジョー・ウォルシュという名の歌唱、作詞作曲をする素晴らしいギタリストを主演に据えたジェイムス・ギャングは、ドラマーの'ジミー'・フォックス、ベーシストのデール・ピーターズの3人によるバンドであり、3枚のアルバム(ライヴ・アルバムを含めると4枚)しかレコーディングしていない。
しかし、1969年にクリーブランドでザ・フーのライヴの前座を飾ったとき、ピート・タウンゼントは彼らを大変気に入り、「私が見た中で最高のアメリカの新人バンド」、特にウォルシュを「天才」と評し、イギリス・ツアーに連れて帰った。(※中略)
1966年、オハイオ州クリーヴランドでバンドはスタートした。19歳のフォックスは、新しいアート・ブレイキーになるという決心を改め、代わりにリンゴ・スターになりたいと思った。(※中略)
「リンゴを聴くまではバディ・リッチの大ファンだった。それからクリームとジンジャー・ベイカーを知ったんだ。そうしてジェームス・ギャングが生まれたんだ」。
ジョー・ウォルシュがバンドのステージ上のフロントマンだとすれば、ジミー・フォックスはギタリストを羽ばたかせる後方の重しの存在だった。
黒い髭をたくわえ、クマのような姿をしたフォックスは、派手さはなくパーカッシブでありながら、安定したローリングなスタイルを持っており、ジョン・ボーナムとキース・ムーンの中間のようなグルーヴに満ちたスタイルを持っていた。(※中略)
ギターとキーボードを加えた5人編成でスタートした初期のジェイムス・ギャングは、様々なラインナップを経て、ほとんど偶然にトリオになった。
「キーボード奏者がどうしていなくなったのか、よく覚えていないんだ」とフォックスは笑う。(※中略)
不注意にも、1968年にデトロイトのグランデ・ボールルームでクリームの前座を務める予定だった直前に、もう1人のメンバーを失った。
「デトロイトに着いたとき、もう一人のギタリストもいなかったんだ!」とフォックスは言う。「俺たちはお互いに顔を見合わせながら座っていた!クソ!家に帰るお金もない!どうするんだ?」
幸いなことに、彼らにはまだエースがいた。ジョー・ウォルシュはケント州立大学を中退し、フォックスと契約する前にはすでに6つの異なるアーティストを演じたベテランだった。
今でこそ、後にソロで『Rocky Mountain Way』や『Life's Been Good To Me』で金字塔を打ち立て、イーグルスの胸に本物の羽根を生やしたパーティー好きの男として知られるが、若き日のウォルシュは、後の人物像からは想像できないほど真面目で熱心なミュージシャンだった。
グランデ・ボールルームでのライヴ当時、彼はジェイムス・ギャングを、もっと良いバンドに向かう途中で通り過ぎるバンドに過ぎないと考えていた。
私たちは、『まあ、これが最後の仕事だろう』と思っていた」と、後にウォルシュはその運命の夜について回想している。
「あの夜は、やるかやられるかの夜で、私たちは死ぬほど怖かった。あの夜のステージは純粋に実験的で、5人でやることを3人でやろうとしていた。でも喝采を浴びた。」
「彼はキーボードも弾け、歌も歌え、作曲もできる純粋なギタリストでした」とフォックスは言う。
「でも、あの夜、スリー・ピースになって初めて、ジョーがどれだけのことができるのか気づいた。最後まで7回もアンコールをやったんだ。ネタが尽きて、仕方なくジミヘンの曲を演奏したんだ。クリームのオープニングでヘンドリックスの曲で終わるなんて、想像してみてよ」。(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
●Walk Away
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