サッカー・Jリーグは今年、開幕30周年を迎えた。国内初のプロサッカーリーグとして発足、数々の名勝負やスター選手を生み出しながら成長し、1993年に10クラブでスタートしたリーグは、今や3部制となり41都道府県の60クラブが参加するまでになった。
この30年で日本サッカーのレベルが向上したのはもちろん、「Jリーグ百年構想」の理念の下に各クラブが地域密着を実現。ホームタウンの住民・行政・企業が三位一体となり、これまでプロスポーツが存在しなかった地域の風景も確実に変えてきた。

長年にわたって全国津々浦々のクラブを取材してきた写真家でノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が、2023年という節目の年にピッチ内だけに限らない価値を探し求めていく連載、「地方創生から見た『Jリーグ30周年』」。
第4回はJリーグ発足時から加盟する“オリジナル10”の1つ、サンフレッチェ広島を訪問。後編では新スタジアム誕生により、今季で本拠地としての役割を終えるエディオンスタジアム広島の姿と、1993年からクラブに関わる最古参スタッフの想いに迫った。(取材・文=宇都宮 徹壱)

「ありがとう、エディオンスタジアム広島」

 広島広域公園陸上競技場、通称「広島ビッグアーチ」が、エディオンに命名権を売却したのは2013年のこと。それからちょうど10年後の今年、エディオンスタジアム広島でのサンフレッチェ広島の公式戦は、11月25日のガンバ大阪戦がラストとなる。来季の2024年は、市内に建設中の新スタジアム(名称は「エディオンピースウイング広島」に決定)での試合開催となるからだ。

「初めてビッグアーチを訪れたのは、1992年のアジアカップでした。Jリーグ開幕を控えて審判員を確保しようという動きがあって、そこで設けられた審判員養成コースに僕も参加していたんです。その研修会が大会期間中にあって、日本代表の試合をスタンドで観戦しました」

白石聡は、サンフレッチェ広島の運営部部長で、今年58歳。現在、50人ほどいるフロントスタッフの中では、Jリーグ開幕時を知る最古参だ。そして、広島ビッグアーチ(以下、この名称に統一)に、おそらく最も思い入れがあるのも、この人であろう。

「出身は大分です。県立中津工業高校の2年の時、選手権に出場することができましたが、初戦の相手が、この大会で優勝する清水東。あの三羽烏(長谷川健太、大榎克己、堀池巧)がいた時ですよ。0-3の順当負けでしたね。
卒業後、東洋工業から社名変更したマツダに、1984年に入社しました。当時の今西(和男)監督からは『サッカーでは厳しいかも』と言われていたんですが、実際にJSL(日本サッカーリーグ)2部での出場はありませんでした」

全文はソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/de67c104a74ab33c52d0d025a712610b2df29a98